視力2.0
施設内に人の気配はなかった。煤や蜘蛛の巣の目立つ室内は吐息に色がつく程に肌寒い。暖炉の1つでも備えていないのかと周囲を見渡すが、暖房設備の類はない。帝国管轄の施設にしては不親切だと考えたが、この低温度はリオの氷魔法が原因であり、そもそもパッシェ周辺は常に温暖な気候なのが特徴だ。本来不要な設備なのだろう。警戒しつつ偵察を行い、アッシュとリオは廊下の片隅で互いの得た情報を共有した。
「食糧の備蓄は大した量じゃない。人数が少ないか、ここの潜伏期間がよっぽど短いかだ」
「埃を被ってない椅子も5個くらいだったし、きっと敵は小規模だよ。それに人がいないのは1階部分を完全に捨てたからかな。地下が本丸だよ」
「人が少ないのはありがたい話だ。結構雑な手口だったけど、今んとこ順調だな」
音を立てて誘き出して手下を捕まえる。単純で粗の大きい作戦ではあったが、出てきた人数が少なかったおかげで楽に進んだ。
「あのオッサンにはしっかり嘘をつかれたって訳だ。タダじゃ済まねえって分かってるのに食えない野郎だぜ」
中年の下っ端に嘘を吐かれたのは癪だったが、彼の言動から得られた収穫もあった。下にリーダーがいるというからには抜け道なり地下室なりが存在するのだろうし、名指しで指示を出すあたり人数はそう多く無いか、手の離せない仕事に追われているということだ。
開けた廊下部分の片隅には地下へ続く螺旋階段があった。ちょうど建物の中心部分に近い、戦時中には非常用の脱出経路の役割を果たしていたと見ていいだろう。
様子からして子供たちは地下室に閉じ込められており、誘拐犯は大急ぎで地下の抜け道を進んでいる。ここまでは順調だが、まだ安心には程遠い状況だ。休む暇もないし、その気もない。意を決して地下への第一歩を踏み出したその時、螺旋階段を駆け上ってくるいやに目をギラつかせた男と視線が合った。手には使い古された手袋をはめ、腰には曲刀を差している。
「ん?」「あっ」「え?」
三者三様の反応を示し、顔を見合わせる。アッシュは驚いて一瞬気圧されたが、反射的に腕を振り、矛の柄で男の額を叩いた。
「いっ、あ、あっ、ああああっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………」
バランスを崩した男は足を踏み外し、螺旋階段を転げ落ちていった。情けない悲鳴は少しづつ低く、小さくなりながら遠ざかっていった。アッシュは本で読んだ現象をふと思い出した。これがドップラー効果というやつだ。
「え?今、何が起こったの?あの人はいったい……?」
「見るからに敵だったしいいだろ。行くぞ、時間稼ぎ役が1人しかこないんだ、敵さんはよっぽど人手不足みたいだぜ」
リオが頷くのを目の端で確認し、今度こそ螺旋階段を慎重に、かつ最大速度で駆け下りた。階段は寂れた外見の割にブーツを力強く押し返す強度を保持しており、崩れることもなく地下へはスムーズに辿り着いた。両腕を投げ出して仰臥する意識の無い先程の男を尻目に、目測で地下空間の間取りを確認する。踊り場から続く細長い廊下には碌な装飾もなく、ただ単調な壁が真っすぐにどこまでも続いている。
「アッシュ、あそこを見て」
リオの指さす先、二人の視力で見える限界近くの壁には、左右一対の小さな突起物が見えた。目を凝らして形状を捉えるに、どうやらドアノブらしい。本来の用途を考えるならば倉庫として使われていたスペースだろうか。武器や物資を備蓄するだけの規模があるなら、子供を収容するくらいわけないだろう。暗がりにまだ目が慣れないアッシュに対し、リオの指摘は鋭かった。
「右のドアの手前には苔や埃がない。確認するなら右だよ」
「ナイスだリオ。お前視力がかなり良いんだな」
「暗闇に関してはシオンの謎魔法でやられたからね。暗くても見えるように訓練してたんだ」
それ練習してどうにかなるもんなの?と思ったが特にツッコミはしなかった。見えてるんならそれでいい。やけに自信あり気なリオの表情がまた笑いを誘う。気が抜けてリラックスできたのか、アッシュの視界も随分と慣れた気がした。
「よし、まだ残ってるかは怪しいが確認だ。俺が先に突っ込むから援護頼むぜ」
目配せをした後に扉の前まで慎重に忍び寄り、一気にドアノブを捻る。幸い鍵の類はかかっていなかったようで、アッシュの力のままに扉は室内へ向けて放たれた。部屋は廊下よりも明るく視界良好。目測で四方15メートル程の部屋には右奥に大きめのベッドがあるのみ。そこまで把握したアッシュの目に飛び込んだのは、薄汚い布を肩にかけただけの少女と、少女に手をかけようとする金髪の男性の姿だった。この場所、この状況でこの男を敵と判断しない理由はない。男の視線はリーベに注がれ、扉側には完全に背を向けている。今なら一撃で首を飛ばせる。そこまで思考した段階で体は動き、アッシュは男の太い首目掛けて刃を振るった。




