村上家からの使者
朝、敵の新拠点、深志城の大拡張工事が始まる日。武田晴信は周辺の村々から普請を命じ、集まらせたが、軍勢も一部が人夫として加わる。殆どが諏方郡や上伊那郡といった支配地域の者である。長時妹の嫁ぎ先である藤沢頼親。高遠諏方家の諏方頼継など、その旗印が水堀の南側に見える。対して甲州の兵たちは、信濃府中で奪った物や人を従軍の商人から金に変えて休んでる。というか、遊んでいた。
小笠原長時と犬甘政徳が放った忍びは人夫の姿で、あちこち点在する集団に散らばっている。その中のひとり、征矢野宗澄は小さな大手門に繋がる土橋の前にいた。仲間や見知らぬ村人とともに、作業開始の時間を待っていた。そこに浦野の旗と一行が現れる。宗澄は気づかれるとまずいので、できるだけ遠くに離れて眺めた。あの一行の、唯一の馬に乗る老人は、誰だかすぐに分かり、つぶやいた。
「う、浦野尚宗様じゃないか。ひざまづきに現れたのか?」
それよりも、その後ろで歩かされている幼子が、妙に目立つ。征矢野宗澄はその子の顔を見て驚いた。
ーーそ、そ、曽寿丸様じゃあ!
口を抑え、心の中で叫んだ。
ここで武田の監視たちが現れ、人夫たちを場外の原っぱに集合させた。そこには現場監督と思われる男が仁王立ちしていた。
「ワシの名は教来石景政あらため、馬場信春である!」
ーーなんだ、教来石って巨摩の薄汚い土豪じゃないか。
宗澄は、大した出身の男ではないと判断するも、馬場信春は生まれ変わったと、高らかにいう。
「このワシは、先祖代々の夢だった一城の主を叶えた。これを契機に御館様より甲斐名門馬場家の名跡を頂き、改名した。すなわち、このワシが御館様より、深志の城代を任されたのだ。よってお前らは我が家来、我が民となる。この凛々しき顔、よっく覚えておけ!」
凛々しいとは程遠い、強面だ。こののち信春は、長い説明をした。そのあと、仕事がはじまる。
しばらく経ち、会田へ戻る一行のなかに、曽寿丸だけがいなかった。宗澄は心配し、考えた。
ーーもしや、売ったのか? お前にとっては、ひ孫だろ!
信じられなかった。憤りたかったが、人夫に扮してる以上は、人夫として怪しまれずに仕事をしないとならない。宗澄は耐えるしかなかった。
二十五日、長時が慌てて戻った。
「母上が曽寿を差し出しただと!? まことか?」
「え?」平瀬城の者たちは違和感がでた。
長時は再度、問いただす。
「村上様に言われた。我が母は狐の如く、ワシらを化かされたと。幼い子供なら身分を問わずに可愛がっていたあの優しい母上が、そんなことあるまい……」
動揺さえしていた。小笠原頼貞が長時に本当のことを伝えた。
「お、大殿様、曽寿丸様を敵に売り渡したのはジ様(尚宗)です。宗澄が目撃しました。断じて大方様ではありません。大方様は会田の屋敷にずっと幽閉させられたままです。まるで罪人の如く、といいます」
「ま、まことか?」
「はい。忍びには三度、確認させました。会田の民はみんな知ってます。ですから、取るに足らない巷の噂です」
「信じてよいのか?」
「はい。あらゆる神仏に誓って」
「そうか。分かった……」
長時はやっとひと息つけた。安心すると、怒りが込み上げる。
「しかし尚宗め、父上(長棟)のおかけで小笠原宗家の親戚になれた大恩があるにも関わらず、もののふの風上にも置けないジサマだ。前のように力さえあれば、一気に攻め滅ぼしてやれたのに!」
長時は次に、村上家にも疑念を抱く。
「しかし義清様め、なんという情報収集の甘さじゃあ?」
信じて損をした。小笠原宗家という大名は滅びても、長時の信濃守護職まで失ったわけではない。とはいえ、あんな村上義清でも敬語を使わなければならないのは、官位が従五位上の長時よりも高い、正四位上だからだ。普通、地方では、一番身分が高い者が守護職となるが、信濃はそうなってないから厄介だ。
頼貞は長時に、結果報告を求めた。
「それで大殿様、村上様はなんと?」
「ダメだった」
「はやり……」
「ただな、今、武田の物見が塩田平を物色してるらしい。侵略前の下調べだ。村上様はこれに対処せねばならない。だから、うかつに兵は貸せない。それが理由だ」
「武田め、我らの土地を奪ったついでに村上の塩田平まで盗む気か。ゴウツクバリめ」
「ここでは戦をやってないからな。力が有り余ってるのだろう」
「しかし村上様、某が生まれてから初めて道理で断りましたね。ならば、次点の木曽様に頼みますか?」
「木曽か。奴は動くと言いながら動かん。上伊那救援のときも、塩尻峠のときも、今回もじゃ」
「少し、引きこもり癖が過ぎやしませんか? 木曽にとっては、背中を守ってくれた我らが無くなって後顧の憂いができたのです。どんなアホでも目を覚ましますよ。大殿様がお許しくださるのなら、某が木曽に参って怒鳴りに行きましょう」
「お前は小僧丸の側にいろ。ともかく信定が、下伊那衆が無傷だったことは分かったのだ。信定が目を輝かせてるうちは、木曽は大人しい」
「はい」
ここで平瀬義兼が報告がきた。村上義清の使者がやってきたという。長時は面会を許す。使者が部屋に入ると、長時は驚いた。
「屋代政国殿か」
村上家にはナンバーツー的な実力を持つ家老が3人いる。そんな実力者の一人がこの男だ。
「はい。実は小笠原様にお願いしたき相談がございまして……」
頼貞は、とりあえず嫌味は言っておく。
「未だに150年も前の不味い酒(大塔合戦勝利)に酔いしれ、二言目には我らを蔑ろにする北の蛮族が、なんのご用ですか?」
「ぶ、無礼な! ワシはこうして頭を下げに来てやってるのだぞ」
「は? そなた正気か? 我が大殿とてつい先日、援軍を頼みに坂城に来た時、お前ら、好き放題に侮辱したあろう。同じ待遇をして何が悪い?」
「ワシはあの場にいなかった」
「ほう。家老の分際で引き止めることもせず、他責するとは見苦しい。そう言うからには、その場にいれば罵倒すると解釈して良いのだな。そなたら、我らの使者に向かっては束になって暴言を吐きまくっているのに、いざ自分が同じことをやられたら無礼と憤るって、矛盾してるよな?」
「我らが古来より埴科の地で栄えた。そなた達は鎌倉幕府の頃にやってきた余所者。一緒にするな!」
「重ねて言う。我が大殿は正々堂々一人でお前らと言い争ったが、村上家はいつも束でかかってくる。これ、一人じゃなにも出来ないということだろう。大の大人がみっともない。よってたかって溺れる者に石を投げるから、蛮族なんだよ」
「このガキ、言わせておけば!」
頼貞と政国の喧嘩が始める前に、長時が止めた。
「頼貞、そこまでだ」
「御意!」
頼貞は堂々と返事した。小笠原家は村上家と違って素直に終わる。律儀ある武士としてのアピールだった。
長時は政国にむけ背筋を正し、堂々と言う。
「大事な要件があるから来たのであろう。ワシは信濃の守護じゃ。伺おう」
政国は長時の上から目線にカチンとくるが、それは我慢するしかないので、急ぎ本題を語った。
「じ、実は高梨政頼様が武田に寝返りまして、それで、説得をお願いにと……」
「ほう、何故そうなった?」
「そ、それは、高梨様が甲州金に目がくらんで落ちたまで」
「確証になるもにはあるのか?」
「ありません。でも、そうに決まってます」
「なぜ?」
「なぜって、武田に下るものは皆、そうでしょう。皆がそう言ってる」
「では何故、越後守護代の長尾家は、この件に怒らないのじゃ? 高梨殿と長尾殿は親戚であろう。とくに今の若い当主、長尾景虎殿は合戦上手のみならず、清廉潔白な若者と聞く。裏切り事など我慢ならないはずじゃ。なのに長尾殿は、高梨殿を叱っていない。おかしいであろう」
「そ、それは……?」
政国は言葉が詰まる。村上家と高梨家の問題は、これよりももっと足元にあった。長時はそこを指摘する。
「善光寺の近くにあるお互いの飛び地、何時になったら河川を改修する? 昨年秋の嵐で流路が変わるほど荒れたであろう。なのに今日まで一切なにもせず、ただ村上の農地が増えてバンザイでは、高梨殿は気が済まないはずだ。これ、土地争いでもよくある例だろ。ならば、過去の判例を照らし合わせられれば解決できるはずだ。あの川は千曲川の支流とはいえ、畑の水路と見分けがつかないほど細い。お互いに協力しあって工事すれば元に戻せるはずだ。お互い、そのくらいの財力はあるだろう。いい加減、己の掟とやらで周りを困らせないで、法の下で話し合え」
「ぐ……」政国は言葉が詰まる。
長時は村上家の依頼を受ける。
「高梨殿への仲裁はする。ただし今述べたあの件は村上様が折れろ。それが出来てから、ワシを呼べ。仲裁というからには、土産がないと失礼であろう」
「は、はい……」
政国は去った。
頼貞はため息を吐く。
「これから頼ろうと思った高梨様まで、これか……」
「武田の調略は信濃全土に広がってる。これでは信濃に残る反武田を全て集めても、我が復興は困難するかもしれない……」
長時は立ち上がり、縁側に出て、遠くにそびえる鉢森山を眺めた。あの山の向こうに木曽があり、そのはるかかなたの先に、京都がある。




