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飛騨の江馬氏

 3月20日、小笠原長時一行は二木氏の館から出発した。武芸に自信がある延べ30名ほどを従える。小僧丸には小笠原頼貞、尾藤宣三、征矢野功右衛門の3名の部下が守る。

 正室仁科夫人、側室で実母の藤菜、長隆、二木重高ら多くの家臣やその家族が二木館から見送った。

 小僧丸は親しんだ者たちと離れ、寂しくて何度も後ろを振り向いた。生まれて以来、思い出深い場所の全てがここにある。桐原(美ヶ原)の高原、広い府中平と深志城と、その向こうにあった故郷、信濃府中の跡地を離れる。

 長時は小僧丸を優しく叱る。


「小僧や、振り返るな。逃げる訳ではないのじゃぞ」


「は、はい……」


「ま、死んだトンビ(諏方頼継)殿の金は小笠原再興のためにのみ、有り難く使わせていただく」


 長時が当主として皮肉っぽく語ると、従者たちは素直に笑った。小僧丸もこれで、寂しさが吹っ飛んだ。

 小僧丸は言い聞かせた。


ーーそ、そうだ。武田を退治するため、幕府や三好様の力がいるんだ!


 21日、長時一行は通行可能となった安房峠を越える。高さ10メートル近くもある雪の壁が印象深い。つい先日まで雪解け作業をした成果だ。

 飛騨国に入り、峠を降りた先は吉城(よしき)郡高原(たかはら)高原の平湯村。ここで一行は、この地の領主江馬(えま)時盛(ときもり)が、根拠地の神岡(かみおか)から300の軍勢を連れて駆けつけた。時盛の後ろには嫡男もいる。時盛は一行の到着を心から歓迎した。


「お待ちいたしておりました、小笠原様。今宵はこの村長の屋敷でくつろいでください。ここは山の幸の宝庫です。料理もとびっきりのものをご用意しましょう」


「かたじけない、江馬殿。一晩、世話になる」


「どうぞごゆっくり」


「で、隣(・)り(・)とは話はつけたのか? ワシは高山(たかやま)から南へ行きたいのじゃ」


「はい。我ら姉小路(あねこうじ)直頼(なおより)めとは争ってるとはいえ、それとこれとは話は別です。小笠原様の上洛は公方様の命でもありますからな。姉小路めは、幕府におべっかを売って高い身分を欲しがる男です。ならば奴は、逆立ちしてでも小笠原様に手出しなどしないでしょう」


「作用か。色々と下準備、感謝する」


「ははっ。勿体なきお言葉です」


 時盛は長時との会話中、小僧丸に瞳をチラチラさせていた。小僧丸も感づいていた。時盛はしびれを切らしたかのように、話題を変える。


「ところでこちらのお子様は、ご嫡子様ですか?」


 長時は小僧丸を紹介する。


「いや、嫡子ではない。この子の名は小僧。藤菜に産ませた子じゃ」


「おおお! この御子でしたか!」時盛は大喜びしながらしゃがみ、小さい小僧丸に目線を合わせて自己紹介した。


「初めてお目にかかります。それがしが藤菜の生みの父親、江馬時盛と申します。以後、お見知りおきを」


「はい。こちらこそ初めてお目にかかります。それがしは小笠原大膳大夫兼信濃守が三男、小僧です。本日のおもてなし、本当に嬉しいです」


「おお、さすが武家礼法最高の小笠原流、その師範のお子様じゃ。よくできてる。我が嫡男にも見習わせたいものだ!」


 時盛は小僧丸を孫のように接した。その分、後ろの嫡子の頬が膨れる。

 時盛はここで、長時にある武将の訃報を教える。


「ああ、そうだ。小笠原様、知ってますか? 尾張(おわり)国の織田(おだ)信秀(のぶひで)殿が今月の3日、亡くなりましたぞ」


 長時は知らなかったので、驚き、悲しんだ。


「本当か? まだ41か2だろ? 早死にするとは信じられないな……」


「子沢山も40代とは思えぬほどですが……」


「ならば跡取り殿には、香銭(こうぜに)(香典)を渡さないといかんな……」


 つまり、寄り道をする。小僧丸は質問した。


「父うえ、京都には行かないのですか?」


 長時は答える。


「行く。数日ほど遅れるだけだ」


「よ、よいのですか?」


「織田信秀殿は帝にも公方様にも覚えの良いお人だから、納得してくれるだろう。それに、我が小笠原宗家にとってもちょっとした恩人なのだよ。天文16(1547)年に禅居(ぜんきょ)庵の再建のため、多額の費用を寄付してくれた。その時の恩は重臣を送って、手紙なり土産なりで返したが、やはりワシ自らが顔を出したかった。御家が滅んで可能になるのは、ちと心苦しいがな」


「ぜんきょあん?」


「あ、そういえば教えてなかったな。禅居庵は京都の建仁(けんにん)寺に数多くある庵のひとつだ。創建者は、我らが礼法と弓馬術を編み出した先祖、小笠原貞宗(さだむね)公だよ」


「足利尊氏公から初めて信濃の守護を任された、あの……?」


「そうだ。法華一揆のとき(天文5)に燃やされた。宗派の対立は大名の対立よりも融通が悪い。御仏を名を盾に身勝手三昧、礼儀も節度もないからな。だから小僧よ、同じ外交でも坊主絡みは面倒くさいから、するでないぞ?」


「は、はい。こ、こわいですね……」


 小僧丸は震えながらも理解した。

 用意された山の料理は豪華でとても美味かった。小僧丸はずっと江馬時盛の話に付き合わされていた。


「藤菜は元気か?」「可愛がってもらえたか?」「江馬と二木は鎌倉幕府以来の良縁じゃ」「安房峠で結ばれた縁じゃな」「我ら山奥の辺鄙な国衆でも、神岡鉱山のおかげで飛騨一番の金持ちじゃあ」


 等々、可愛さあまりのデレが表に出過ぎている。小僧丸は嫌ではなかったが、疲れて眠かった。


 長時は時盛の嫡男藤太郎に頼まれ、庭で弓術を見てもらう。藤太郎は木の幹を狙って弓を放ち、中(あ)てる。


「どうでしょうか?」


 長時は指摘する。


「筋がよいではないか。じゃが腕の力がありすぎるせいか、弓を持つ左の腕が前に張りすぎだ。あと、右の肘も上がりすぎの印象がある。そなたの場合は逆に、力の抜き方を体に覚えさせたほうが良い。そこを意識して、次、放ってみなさい」


「はい」


 藤太郎は再び、構えた。

 長時は嬉しかった。


ーーこうして教えたのは、あの時以来じゃ……。


 御家滅亡前、次男曽寿丸に指導した日が忘れられない。長隆や小僧丸ですら他人任せだった。いや、それが一国を任された大名家として当たり前のことだろう。息子の教育係は大名の威厳と家臣の忠節がとても上手く回る。曽寿丸も結局は譜代の手練れに任せたが、父親の直伝は、長時が小笠原宗家の主になって、ただ一度のわがままだった。


「あ、すごい!」藤太郎は驚き、喜んだ。


 長時は驚いた。藤太郎が曽寿丸とダブって見えた。年は長男の長隆の方が近いのに、だ。とはいえ、上手くできたものは教育者として素直に褒めた。


「そうじゃ。先ほどよりも矢の勢いがよかったであろう。そのうえ、先ほどよりも中心に中(あ)たってる」


「はい!」


「その形を忘れないことだ」


 曽寿丸は今、どうしてるのだろうか? 敵とはいえ丁重に扱われているのだろうか? 食事はちゃんと取れているのだろうか? 礼法と弓馬術の稽古は行えているのだろうか? 一年半以上も助けられなくて本当に申し訳ない。と、毎日心配してるが、国境線を越えたら、余計不安に落とされてしまいそうになる。父親としては当然だが、何百もの部下を抱える一国の主としてそんな顔は見せたら示しがつかない。

 藤太郎の弓がまた当たった。藤太郎が振り返る前に、長時は注意する。


「稽古に集中しなさい。ワシの言葉が出るまでは、幹の的だけを見ること!」


 長時は家族以外、誰にも父親の顔を見せたくない。御家再興が叶うまでの決意だ。


「は、はい」藤太郎は振り返られず、そのまま弓を放った。何度も、何度も。


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