尾張国の織田家たち
尾張国に来た。小笠原長時は先ず清州(清須市)に立ち寄り、守護館にいる尾張国守護職、斯波義統に挨拶をし、次に隣接する清州城の主、守護代織田信友に挨拶をした。この二人は信秀よりも身分が上だ。信友に至っては直属の上官である。身分社会というもの、面倒臭くても、こういう気遣いはやらなければ後が怖い。
これが終われば、やっと信秀が居城としていた末森城(名古屋市千種区)まで赴ける。しかし、今の城主は信長の実弟織田信勝だった。見た目、長隆と同い年だろうか? その若い信勝から、
「兄上(信長)は那古屋(名古屋市中区)を居城としています」
と、そちらへ行けと言われた。長時は知らなかった。いや、思えば信秀は一代で3度も居城を変えている。普通、そんなことしない。そのため、一行は転々してしまった。
那古屋城、信長は不在だった。大手門で信長の若き家臣、川尻秀隆が待っていた。秀隆は冷や汗をかきながら「殿には3日前にお伝えしてるのですが……」と困り果てている。
小笠原長時は「どちらへ?」と問うと、秀隆は「何も仰られていませんから、恐らく津島かと……」と答えた。
「津島とは、あの湊町のか?」
津島とは、尾張国では熱田と1、2位を争うほど繁栄した河川湊町である。長時は噂で知ってるだけで見たことも行ったこともないが、小僧丸も知る平瀬の湊町とは比較にならないほどだという。秀隆は、申し訳ないという顔がよく現れている。
「はい。若かりし時からお気に入りの町でして……」
「そうか、分かった。きっと何かがあるのだろう。待とう」長時は決めた。
「申し訳ございません……」秀隆は頭を下げ、長時と小僧丸を主殿の客間まで案内した。その他一行は二の郭の屋敷で休ませる。
小僧丸は長時に尾張国を見聞きしたことを言いたかった。
「ちちうえ、清州も那古屋も、人がいっぱいで賑やかです」
「そうだな」
「あと、川がいっぱいありました。平地がとても広くて、府中平よりもすごく真っ平。山が見えないくらいです」
小僧丸は珍しく興奮した。長時は少し安堵する。
「海が近いからな。だから地面は真っ平であり、川の流れも複雑、山々も遠くで見えない。荒地も多いが水田も目立つ。ちとばかり、羨ましいな」
会話の途中、今度は姫が現れた。信長の正室、帰蝶である。美濃国稲葉山城(岐阜県岐阜市)主斎藤道三の娘である。年は藤菜と同じくらいだろうか、綺麗でも目が座ってる。
「小笠原様、至急、会いたいと申される方が現れました。こちらへお願いします」
と淡々と語る。長時は信長が、
「戻ってきたか?」と思った。
「いいえ。伊勢守信安様です」
「なんと!」
長時は早速会いに部屋を離れた。尾張国には守護代が2人いる。その、もう一人の守護代がこの信安だ。つまり尾張国の織田家は大雑把にいうと、この3家に大別される。
清州城主信友の大和守家(下四郡守護代)。
岩倉城(愛知県岩倉市)主信安の伊勢守家(上四郡守護代)。
那古屋城主信長の弾正忠家(尾張三奉行の一家)。
家柄は守護代を司る2家のほうが上だが、家の力は弾正忠家が尾張国で一番高い。
ここで小僧丸は一人となった。見渡せば、ここは綺麗な屋敷だった。新築の香りがまだ残ってる。掃除も行き届いてるようだ。おそらく屋敷は全改築したのだろう。守護館や清州城の主殿は、所々に木材のガタや腐りかけ、埃の小汚さがあった。
まもなく、縁側からバタバタと足音が聞こえる。小僧丸は分かった。
ーー子供、いるのか?
音はこちらに向かってくる。早速あらわれた。見た目、小僧丸と同い年だろうか? 初対面なのにニコニコしてる。人懐っこいのか、召物も良い。きっと信長一族の者だろう。
小僧丸は少し緊張した。長時から外交を肌で感じるために参加した旅、ここは自分が小笠原の者らしく、気品があって頭も良い印象を相手に与えたかった。
小僧丸が口を開く前に、相手が開いた。
「貴方が小笠原の人ですか?」
「は、はい」小僧丸は答えた。
「それがし、織田上総介が弟、興寿です」
「小笠原大膳大夫兼信濃守が三男、小僧です。ひとつお聞きしたいことがあるのですが、信長様はなんで〝弾正忠〟を名乗らないのですか?」
信長の織田家は弾正忠家と呼ばれているから、信長の役職は弾正忠であるべきだろう。普通そう思う。興寿丸は簡単に答えた。
「それは、信勝の兄上が名乗ってるからです」
「末森城の?」
「はい」
「じゃあ、信長様は?」
「上総介です。自称ですが」
「え? 勝手名乗りなの?」
「はい。でも信長の兄上から、今川家に立ち向かうためにはこれで良いと仰ってました。所詮は奉行の家ですから、朝廷や幕府の公認なんて……」
高嶺の花だと、興寿は言いたかった。
武田晴信は今川義元と北条氏康との三国で盟約を組んでいるが、今川家との同盟歴のほうが15年以上と長く、北条氏康と組んでから未だ1年ほどだ。その今川家は織田信長の弾正忠家と激しく対立していた。信秀が病状を悪化させてから和睦という名の休戦をしているが、信秀のいない今、再戦はいつ起きてもおかしくなかった。
小僧丸は信長の〝上総介〟の意義がなんとなく分かる。
「上総介って、今川義元の父上、氏親公の?」
「はい」
「でも、弾正忠のほうは?」
「それは、信勝の兄上が持ってます」
同じ身分を名乗ることは、敵対を意味する。相手が本人であれその亡き父親であれ同じことだ。小笠原長時の〝大膳大夫〟だって、武田晴信に名乗られてから信濃国の侵略を深められたのだ。だから小僧丸は、幼いとはいえ痛いほど理解した。しかし弾正忠家の主が、弾正忠を名乗れないのは歯がゆいであろう。つまりこれは、これからの織田弾正忠家は、信長と信勝の二元体制をとると解釈されるからだ。
小僧丸は確かめたかった。
「それって、信長さまは……?」
興寿丸は残念そうに答えた。
「怒ってました。父上のご位牌に抹香をなげつけるほど……」
「そ、そうですか……」
信長は〝うつけもの〟と言われている。その噂は小僧丸も江馬時盛から聞いている。とはいえそれでも本来引き継ぐべき位は引き継ぎたかった。そのくらいの常識はある。噂は少し大袈裟なんだろうと思えた。小笠原家も滅亡してから、無責任な世間から有る事無い事叩かれてる。弱いと、そうなる。だから体感として、おぼろげながらも冷静に判断できた。
興寿丸は続きを話す。
「信勝の兄上はその時、信長の兄上にすごく怒ってました。とても怖かったてす。ずっと前から私を怒ってましたから」
「なぜです?」
「私、算盤が……、いや、計算が好きなのですが、信勝の兄上は、サムライとしてみっともないと……」
「ほう……」
小僧丸もこれは信勝の考えに近かった。というよりも、侍は普通、算盤を嫌う。卑しい商人のやることだと疑わない。
「でも、信長の兄上は褒めてくれるのです」
「なぜです?」
「得意なものはもっともっと伸ばすべきだと仰っていました。とことんのめり込めとも。小僧さまの得意なものって、なんですか?」
「え……?」
小僧丸は悩んだ。礼法も弓馬術も学んでるとはいえ、自信が持てるほどではない。大人たちのそれを見れば、自分の小笠原流は中途半端だ。それよりも、そんなことを考えたことがなかった。興寿丸は悩む小僧丸を励ます。
「あ、すみません。私らまだ子供です。まだ見つからない者は多くいます。これからです。私は運良く早く見つけられた。それのみです」
「は、はぁ……」
小僧丸は答えられなかったことは辛かったが、嫌な気分ではなかった。
ーーそうだ。これから見つければよいんだ。それを教えてくれた興寿どのは良いことを教えてくれた。感謝だ。
小僧丸は安心して頬が緩んだ。
「あ、そうだ。興寿どの、信長さまは今、いずこに?」
この問いに興寿丸は両手で口を塞ぎ、目が笑う。知ってるが教えないと言いたげだ。いや、教えないのではない。信長から教えてはいけないと言い含められているのだ。
小僧丸は理解した。
「それなら、仕方がありませんね」
ここで長時が戻ってきた。
その時、庭から信長の一行が現れた。家来衆に5台もの荷車を運ばせて、大きな荷物を山ほど積んでいた。その信長、江馬時盛から聴いた〝うつけ〟の身なりであった。髪型は荒れた茶筅髪、小袖は袖や裾を切り落とし、袴は虎の皮と豹の皮で縫い合わせ、腰の周りに火打袋、瓢箪、脇差や長太刀をぶら下げていた。あと、擦り傷も数ヶ所見える。しかし、上機嫌だった。
庭の信長は縁側の長時に向かい、深々と頭を下げて挨拶をした。
「某が織田家当主、上総介信長です。今日は小笠原様が亡き父上に礼を申しに来ると伺い、こうして食材を山ほど集め、ご一行も含めて歓迎の料理を振る舞いたいと存じます」
長時は信長の身なりはともかく、礼儀正しさに驚いた。
「織田殿の心遣い、とても有難い。まずは信秀殿の御位牌に手を合わせたい。禅居庵再建の件では、願わくば顔を合わせて礼を言いたかったが叶わなかった。とはいえ言いたい礼は言いたい。構わないかな?」
「分かりました。ご案内します」
小僧丸と興寿丸もついて行った。
夕刻、大量の料理が振る舞われた。酒宴がはじまる。長時一行50人分と那古屋城の家来衆数十人分もある。広間から庭まで、まるで野外バーベキューのような賑わいだった。
広間の首座の中央に座るは長時で、その横に信長と帰蝶姫が座る。
信長は長時にふたつ、尋ねたいことがあった。ひとつ目は信長も知らなかったようだ。
「そういえば伊勢守家の信安様が、ワシの断りもなく勝手に我が客人を訪ねに来たようですが、何かありましたか?」
長時不思議に思えた。帰蝶に聞けば良い質問だからだ。その帰蝶の目線は明後日の方向を向いている。何かあるのかと疑えど、詮索はやめよう。素直に答えた。
「うむ、我が礼法に通じる家来を一人雇いたい。そう相談された。とりあえず長隆に一筆送り、希望する者を探ると答えておいた。手紙は今宵書こうと思ったが、明日にしよう」
「なるほど、ま、よいか……」と語る信長の表情は一瞬、厳しくなった。しかしすぐ平静となり、話を続ける。
「次が本題です。小笠原様、武田晴信について知る限りのことを教えてください」
長時は構わないと思ったが、あえて質問する。
「境も接していないのに、なぜかな?」
「たとえ身勝手な名乗りであれ、信濃守護などと威張られるとここまで響くのですよ。木曽川や付随する街道から」
「そうか、木曽か……」長時は歯がゆい。
信長は更に言う。
「小笠原様は、武田晴信と面識もあるとも聞きます」
「一度だけだ。あの頃の関東管領は、まだ脅威だった……」
小僧丸は震え、信長は察知する。
「いかがなされた?」
小僧丸は恥ずかしくなり、〝怖い〟と言えない。長時が代わりに答えた。
「御家が滅びた時、小僧はまだ5歳だった。恐らく、人生最も古い記憶はこれになったのかもしれない……」
「なるほど、それなら小僧殿には別室を用意しよう。興寿や他の稚児衆と仲良くするがよかろう」
信長は気遣ってくれた。
しかし、小僧丸は首を左右に振り、無理に拒んだ。
「そ、そ、そ、それがしだってた、武田晴信と戦うのでフッ!」
噛んでしまった。小僧丸は口を抑え、顔が真っ赤になる。興寿丸は笑いそうになると、信長が小僧丸を褒めた。
「流石は小笠原の子、清和源氏の誉高い血筋だ! こんなに幼き者が巨大な恐怖に真っ向から立ち向かう。小僧殿は既に侍の良き手本となってるではないか!」
小僧丸は信長に撫でられた。まるで兄のようだ。いや、長隆と曽寿丸ふたりの異母兄に撫でられた記憶がない。サムライなら子供扱いされたくなかったが、同時に、嬉しかった。
だから小僧丸は、力強く言った。
「織田さまも我らと一緒に武田晴信を倒しましょう!」
「え?」信長は目が点になる。
周りもみんな固まってしまう。
信長はすぐ我に帰り、返事をした。
「お、おう……」
信長は躊躇した。彼にとって武田晴信は仇敵今川義元の同盟者だが、どこまで敵視して良いのかは未知数である。
領地を拡大する大名はとにかく目立つ。とくに一国の守護大名クラスを滅ぼせば脅威は数段に上がり、何ヶ国も治める大守を滅ぼせば桁外れに上がる。小笠原家が滅びた前の年、5カ国の大守でもあった管領細川晴元が、家来だったはずの三好長慶に追放された。ついでに将軍足利義晴、義輝親子まで京都から放り出された。翌年には西国6カ国の大守大内義隆も、筆頭家老陶晴賢のクーデターで自害に追い込まれた。ほんの6年前までは東国最強と畏れられた関東管領山内上杉憲当ですら、今、御家滅亡は時間の問題だと見下されている。
戦国乱世と呼ばれながらも、これはさすがに激変である。
時代は確実に、なにか新しいものを求めている。
御家再興しか頭にない長時も小僧丸も、そんなことまで考えてる余裕がない。でも、信長にはうっすらだが、見えていた。
信長はそんな時代の主役のひとり、武田晴信の詳細を得たい。単純に、尾張国からの距離の問題だからだ。長時には失礼と承知のうえだ。だから一行全員に豪華な食事をもてなしている。だが、晴信と接触したいとまでは考えてない。敵はあくまでも今川義元一本だ。願わくばそうしたかった。滅ぼせないまでも退けることはできる。時代の先が見えている信長でも、今やらなければならないことは、どんな形であれ尾張国と三河国の境で揺れる脅威を鎮めることだった。
長時は信長の躊躇が読めた。だから小僧丸に提案する。
「おおそうだ、小僧や、怖い晴信が怖くなくなる薬があるぞ」
小僧丸は反射的に食いついた。
「本当ですか、ちちうえ?」
「ああ、これだ」
長時が小僧丸に渡したものは、酒の入った盃だった。
小僧丸は戸惑った。酒など子供が飲んではいけないものだ。おどおどする小僧丸に、長時は快く許可する。
「酒も外交の必須だ。本来なら元服するまで御法度だが、今日のこの一献のみ、ワシが特別に許す」
「え? え?」小僧丸は、父らしくないと思ってしまう。
「武田晴信を倒したいのであろう!」長時は力を込めた。
「……はい」小僧丸は父の勢いに呑まれた。
酒を呑む大人たちは何度も見たことはある。とても苦いのとは、知識で知ってる。酔えば人それぞれ、どうなるか分からない。でも、呑めば元気が倍増して力をみなぎらせる者も数多くみてきた。きっそそれだ。
小僧丸は呑もうと決めた。鼻につくほどきつい匂い。これだけで咳き込んでしまつ。でも、嗅がなければいいだけだ。小僧丸は盃を口につけ、半分ばかり呑み込んだ。
小僧丸はすぐ顔を真っ赤になる。苦いと思う前に頭がクラクラし、体が熱くなり、浮き上がるような気持ちになると、背中から床にバタンと倒れ、気絶した。
長時は小声で、ため息混じりに呟いた。
「小僧は晴信と戦えない……」
長時は小僧丸に、晴信と戦えと言ってきた。そんな背中を見せ続けた。当然だ。小笠原家再興はイコール、武田家を信濃国から追い出すことに他ならない。小僧丸は晴信にトラウマを持ちながらも、克服しようとしている。その姿勢は尊重したい。でも、無理だ。
戦わねば……。でも怖い……。
小僧丸はこの8の字を延々と繰り返してる。小僧丸の将来は長隆の外交顧問みたいな役をさせる。それは小僧丸本人に伝えた。でも、これで小僧丸を戦いの世界からある程度離そうと考えていたところは伝えてない。そんな長時の呟きは小声だから、誰も聞き取れていないはず。間近にいる信長でさえ反応してない。
「さ、始めましょう」長時は信長の要望に応える。
しかし長時の語りは、長い。酒が入ればもっと長い。美人の帰蝶が注いでも、長時は話に熱中だった。だが次第に小言も愚痴も罵倒もたくさんでてきて、話があちこち逸れていく。
信長は、はじめは真剣に聴いても、だんだん疲れて面倒臭くなってきた。長時は従四位の官位持ちだ。無官の信長はちゃんと聴いてるフリをして、気遣いをする。
たわけにはなれない。
取材する相手を間違えたと後悔した。
帰蝶はすでにいなかった。
長時のマシンガントークは日付けが変わる時まで続いた。




