もうひとつの存亡危機
12月8日の早朝、平瀬城に緊張が走った。犬甘政徳ら100名近くに及ぶ老若男女がいきなり現れたのだ。小僧丸は長時に叩き起こされ、あくびを抑えながらも犬甘政徳と面会する。長時の横には平瀬城主平瀬義兼もいた。
政徳は悔しくて仕方がない。
「申し訳ございません。我が城、犬甘の城が敵に乗っ取られてましまいました……」
「な、なんじゃと!」義兼は驚く。
長時驚いても声は出さず、小僧丸はこれで目が覚めた。
政徳は経緯を語った。
「昨夜、馬場信春の手勢100名ほどが、城の南の宮渕を侵略して来たので、我らも手勢の全を用いて懲らしめてやろうと、城を出ました。ですがあれは囮。それと気づかずに囮と戦ってる間、内藤昌秀のおよそ300が闇夜に紛れて蟻ヶ崎を大きく迂回し、ほぼ無人にした城を奪われました。城の留守を任せた一門もいるのに……」
義兼は疑問だった。
「城はともかく、何故館まで捨てたのだ? 館は奈良井川の対岸にあるたのだから、守りを固められるだろ」
奈良井川対岸というと、つまり平瀬城と同じ側になる。平瀬城を防備するなら犬甘館は最も大事なポイントになる。でも政徳は、そうはいかないと言った。
「館といっても丸裸だ。城も館も、渡河場を抑えるためのものだ。普段から誰もが川を渡りやすくするため、あえて守りのための都合をなくしたのだ。だから城がなければ、館だって守りきれないよ……」
義兼は、武田の動きが解せない。
「しかし、なんで今頃? 真冬の、最も寒い時だぞ」
小僧丸はピンと来た。
「それ、元服式のお土産では?」
これに政徳も義兼も、長時までもがハッとした。馬場信春も内藤昌秀も、武田晴信嫡男太郎の元服式を祝いたくて仕方がなかったのだ。これは噂として、長時たちの耳にも入っていた。
「やられた!」大人3人、声を揃えて油断したと天を仰ぐ。
小僧丸も冷や水をかけられた気分だ。親戚の三好長慶が憎むべき武田晴信より大物だと感じとり、気持ちが高まったばかりだった。親戚といえば小笠原も武田も同じ甲斐源氏一族なのだが、御家滅亡以来、小笠原のみんなにそんな親近感のある感覚は消えた。
平瀬義兼は長時に問いかける。
「大殿、これからどうしますか? 守りの最前線が犬甘城から某の平瀬城に移りましたぞ」
長時は悩んだ。答えはあるが、言うに勇気がいる。平瀬義兼もその言葉を期待していた。それは〝長時と小僧丸が、中塔もあいくは赤沢へ撤収〟することだ。
長時は息をのんでから、答えた。
「このままだ。ワシは離れないぞ。小僧、お前もだ」
小僧丸は緊張した。声もでないほどに。平瀬義兼は強く反対する。
「小僧丸様をここに置いたのは、外交という舞台の雰囲気を体に植え付けさせるためです。それがたとえ難しくても、中にいれば必ず慣れて、学べると。しかし犬甘城なき今、ここは敵からイの1番に狙われます。ですから、幼子を巻き込むのはやめてくだされ」
長時はすこし、カチンと来た。
「ほう、義兼。まるでワシが負けるような言いようだな」
「い、いいえ、断じてそのようなことは……」
「そうか、ならよい。小僧を平瀬から放すのはギリギリでよかろう。義兼殿、すまないが2人にしてくれないか?」
「は、はい……」
平瀬義兼は出ていき、長時と小僧丸のみになる。
「小僧」
「は、はい」
「ワシは何故、いくさを覚悟してまで、そなたをここに残すのか、分かるか?」
「が、外交の感を養うため……」
「うん。そうだ。そうだが、もっと詳しく教える」
「はい」
「信濃国という国はな、山の向こうは皆、敵だと理解することから始めなければならない。村上へ行ったときによく分かったであろう」
「はい……」
「敵にも2種類あってな、それは、利用しても良い敵と、いけない敵だ。そのあたりは一筋縄ではいかんので、その都度教えていくが、小笠原家の場合、もっと一筋縄ではいかんのだ。その〝もっと〟は何か分かるか?」
「……、いいえ」
「小笠原流の武家礼法と弓馬術だ。教えのなかのひとつに、こうある。侍として、受けた礼を礼で返すことは当然だが、受けた屈辱でも、礼を以てしっかり殺すというものだ」
5歳児にはきついが、武将の子としては覚悟が試される。
「は、はい!」小僧丸は恐れるも、これ以外に答えはないと察知していた。
「怖いか?」
「い、い、いいえ……」
「そうか、怖いよな」
小僧丸は意地になって首を左右に振った。長時はそれでもかまわず、小僧丸の臆病は見てもわかる。
「御家滅亡するまでの小僧はただ暢気な、これだけの子だと思っていた。いや、それでよかった。だが御家滅亡以来、よく怯える子になった。それは仕方がない。親であるワシの責任だからな。でも、賢くもなった。その理由こそが怯えだ。お前が怯えるときは大抵、周りを見渡し、その場の雰囲気を確かめておる。それが逆に良かったのだ。嬉しさ四割、臆病治せと叱りたい気持ちが3割。残る3割が、許せない気持ちだ……」
「ご、ごめんなさい……」
小僧丸は、自分がまだ許せないのだと理解した。
「違う」長時は、そこじゃないと言った。
「え?」
「許せないのはこのワシ自身だ。そなたではない」
「え?」
「ワシはな、感謝してしまったのだよ。あの武田晴信めに……」
「な。なぜですか?」
「理由は2つ。ひとつは、小僧を賢くしたのは皮肉にも武田晴信だということ。もうひとつは、我が身内に礼を尽くしてることだ。曽寿が今日の今日まで元気で生きていることが分かったし、保福寺に預けた側室と娘の存在を知っていながら全く手を出してない。これには敬意を払わねばならない」
「でも、武田のお屋敷へ連れていかれたと……」
「曽寿か? そうらしいな。しかし奴の考えが読めない。斬り捨ててもよいはずなのにな。ま、それは差し置いて、感謝はワシ一人の問題だから、ワシの手で取り戻せば良い。だが、滅亡しても従ってくれた何百名の家臣と家族に対してそれでは示しがつかない。桔梗ヶ原で死んだ十名には特にな。武田晴信はやはり、我が礼法を未来へ橋渡しする役を携わった継承者として許してはいけない。貰った恥には礼を以て、真正面から斬り捨てる!」
落ち込んだとおもいきや、拳を上げて怒っていた。
小僧丸は心強く思った。父は強く会ってほしいと。
だが長時の気合が、また落ちた。
「しかしのう、しかしのう……」
「どうしましたか?」
「最近、この決意を否定する動きが広まってるようで、不安なんだ……」
「どういうことですか?」
「分国法だ。駿河に今川や武田の法に名文されている〝喧嘩両成敗〟とかいうやつが、これを処罰の対象としている。そしてそれが人心を掴んでいる。知ってるか?」
「い、いいえ……」小僧丸は本当に知らない。
喧嘩両成敗は自力救済の否定である。小笠原の礼法では自力救済を認めた上の綺麗な対処法を示している。しかし礼法は立法ではない。だから長時は恐れてる。喧嘩両成敗が浸透すればするほど、武家礼法は古い価値観として捨てられるのではないかと。
「小僧よ」
「はい」
「わが小笠原流の武家礼法も弓馬術も、ワシが生きているうちに武家の常識ではなくなっているのかもしれない。だが、この考えこそが御家再興の要であることも間違いない。でもな、ワシはその辺の守護と違って、御家再興を目指す国主であると同時に武家礼法の継承者でもある。この二つの存在価値、どちらも捨ててはいけないんじゃよ。歴代が皆そうであったようにな。小笠原流は昔、ただ人を殺すだけのケダモノだったサムライに、公家に勝るまで劣らぬ貴賓を備えた武士として、初めて帝からお認められた由緒がある。しかしこの戦国乱世、実は存亡の危機だったとは気が付かなかったよ!」
小僧丸は不思議だった。こんな父の姿、見たことがなかった。動揺するも仕方がない。
「ち、父上、どうかされたのですか?」
長時は恐る恐る、答えた。
「く、公方様が礼法の〝れ〟の字もわきまえてない。日ノ本全てのサムライの〝長〟であり〝示し〟でもある天下の公方様がな。先日きた稙盛殿の手紙に、ご心配の一文があった。これでは武家の秩序そのものが乱れる。信濃のことも心配だが、こちらも捨て置けない……」
「え……!」
「小僧よ、我が御家再興の道、思いの外、遠いぞ。二人きりにしたのはこれが言いたかったためだ。他言無用だぞ。分かったか?」
「は、はい」
「ワシの予測が外れることを願え」
武家の長である征夷大将軍の足利義輝が武家礼法を軽んじている。源頼朝が将軍になって以来400数十年、こんなことは初めてだ。三好長慶にたいする恨みつらみがあまりにも露骨に出て、口調から仕草までもが、気品あふれる将軍のイメージから遠ざかっているのだ。
「あ、そうだ」長時は何かを決めた。
「?」小僧丸は覚悟を求められた。
「ワシは上洛する。信濃の中は長隆に任せれば良い。いや、既に委ねてるか。出立日はこれから考えるが、その時は小僧も連れて行くつもりだ。だから今より心せよ」
「は、はい!」
京都へ行かせてもらえるという。おそらく、来年。




