第79話 パイプ・ロール
目の端でぱちんと蝋燭の灯芯が切断された。
アルスの意識は霧が晴れたかのように覚醒する。
座る背後で人の気配がして振り向くと、使用人が暖炉へ火を足しており、アルスはぼんやりとその姿を眺めた。
作業が終わった使用人は、目を合わせず一礼して去っていく。
彼の気まずそうな様子から、アルスの中に少しの罪悪感と居心地の悪さが残されてしまった。
アルスは、のろのろと椅子から立ち上がる。
そろそろ換気も必要だろう。
リブラル城。図書館横の執務室。
大きく開放的な窓へと近づくと、暖炉から離れたせいで冷え込む空気が一層ひどくなる。
空は本日も、見事なほどに雲で覆いつくされており、入射してくる日光は心もとなかった。
本格的に始まる冬を前にし、早まる日の入り。
それを考えると、ぼんやりしている時間などない。
執務室にはアルスの他にあと二人。
絶え間なく続くロイの筆記音をよそに、ゆったりと紙がめくられる音がする。
暇そうにあくびをし、蝋燭の炎のそばで新聞を読んでいるミラー氏だ。
彼は隠居し老後を満喫する老人そのものである。
骨董品のような旧式の蝋燭と芯切り鋏は彼の趣味だ。
ミラー氏はこの館の事務において最も最高の責任者として存在している。――が、なにもしない。
呑気に新聞をながめ、読書をし、連れ立って出勤してくる老犬の頭を撫で、窓の外の鳥に餌をあげる。
周囲の会話すらまともに聞こえて居るのか。
アルスは自席に戻ると積み上がった書類の山を見る。
これらは普段の仕事の範疇ではない。
自分のやるべき執務など些細なものであり、とうに終わった。
つまり、ロイが抱える仕事の束だった。
「お前いったいどれだけ仕事押し付けられてるんだ。押し付ける方もこんなのは無理なことぐらいわかるだろうに」
「一人でこなせないことも、わからないほど馬鹿なんだとは思ってますが」
積まれた書類の奥から、高めに響く少年の声が返ってくる。
姿が見えないままそれを聞いたアルスは、これほど立派な皮肉が言えるのならば断ればいいと思った。
とはいえ、ロイはアルスよりも若いし、学校の派閥によって徒党を組まれる事情は理解している。
事実アルスだって、庇ってやりたくもあるができていない。
結局、最も楽な解決方法は手伝うこと。
それでも椅子に拘束される気怠さと頭重感が重なり、不平じみた愚痴は吐き出される。
「もう帳簿や数字は見たくない」
「すみませんねえ。監査もありますし、来年に向けた準備も色々必要なんですよ」
アルスはふと思い出す。今計算しているのは金の動きだ。
こう言ったものなら商人であるパトリックに優秀な会計士でも紹介してもらうのが妥当ではなかろうか。
「知り合いにシェブルレ商会の息子がいる。そいつの伝手を使って誰か派遣してもらうのはどうだ」
「それは無理ですね。費用が発生しますし、これでも国家機密ですから」
アルスの動きがとまる。
今、アルスがやっているのはロイの補助だ。
アルスは、ロイの目の前に積み重ねられている書類を手に取った。
その内容をざっとさらって、息をのむ。
「これ、国の収支記録か!?」
「ええ。ずいぶん今更ですね」
「確か複写だったよな。この参考書面の存在って……」
「当然いいわけないでしょう。でもこれがないと進まないんで。一応あとで燃やすつもりですよ」
アルスはさっと青ざめる。
城砦内とはいえ別館に持ち出していいものとは思えない。
「まあ転写魔石使用の許可はとりましたよ」
さすがにばつが悪くなったのか、ロイは顔をあげ、言い訳のようにミラー氏の方を視線で示す。
権限だけは無駄に持っている男だ。
「お前、まじめなんだか度胸あるんだか……」
ロイも集中が切れたようだ。
ついに、ずっと手放さなかった筆記具を置いた。
「つまり、この仕事はアルフレッドさんだから渡せる仕事なんです」
アルスは苦笑し、手元の書面を見つめる。
先ほどから、うんざりするほど刻んでいる文字はアルフレッド・リスター。
ロイの仕事を手伝う中、堂々と自身の名で手続きやサインをしていくのも少々目立つ。
その問題を解決するため、アルスは、便宜上使用する別名を手に入れていた。
普段仕事をしないはずのミラー氏に許可を出させた結果だ。
「……まったく。もとの書面がめちゃくちゃなんですよ。収支計算も適当だし国の役人なら複式簿記くらい理解してほしいんですけど!」
「逆にお前は、よくこんな複雑な会計の算術なんてできるな」
「そういうアルス様もよくついてこれますね」
「最低限はな」
アルスにも、幼少時の教育とはいえ会計に絡んだ算術は多少なりとも嗜みはある。
王がこなす仕事の一つには、国の金の監査という役割もあるからだ。
ロイはアルスの背景に、さほど興味を持たなかったようだ。
うんざりとしたような表情の中に、自身の能力への誇りも滲ませ語り出す。
「僕は、姉が商売――新聞社立ち上げていて。事業手伝わされたり色々あったんですよ」
「へえ、それはすごいな。どんな名前の新聞なんだ?」
「言ってもどうせ分かりませんよ、大手じゃないんだから」
聞き出した社名は確かに知るところではなかったが、アルスは素直に関心を持った。
「歳の離れた姉なんですけど、なかなか凶暴で。ああ、そうだ。行き遅れてるんで、よかったらもらってくれませんか? 当人は気にしてなさそうですが、父がずっと気を揉んでるんです」
本気で言っているわけではないのだろうが、唐突な結婚相手の紹介とあっては反応に困る。
アルスは曖昧に笑うしかない。
「王族ってあれでしたよね。神に近い存在で僕らとは違う。だから、この国で唯一複数の妻を持つことが許されてる家柄だってお話」
王族の特殊な立場を示され、アルスの顔が苦々しく変化する。
馬鹿馬鹿しいとは思うが真剣に信じている人間もいるのだ。
「何人か並べて飾り立てる夫人の一人で構わないんでどうですか? 一応うちの家も爵位持ちですよ」
「そんな失礼な真似できるか。……お前、俺が『人じゃない』なんて言い方されて嫌がること、わかって言ってるだろう」
「生活は明らかに人間そのものなのに、人扱いされないなんて面倒だろうな、と同情する気持ちはあります」
ロイは敬虔な教徒ではなさそうだ。
アルス自身が手伝うと言い出したとはいえ、遠慮なく王族を使い倒しているだけはある。
「そういえばエフィ様からまた週末の食事のお誘いがきてましたよ」
「エフィ様?」
ユーフェミアのあだ名だ。
その名で呼ぶものなどアルスしかいなかったはずだ。
「いえ、失礼しました。ユーフェミア様です」
「……言い直さなくていい。周囲の人間の存在には気をつけたほうがいいと思うが」
アルスは窓際で煙管をふかし始めたミラー氏をみる。
ロイとユーフェミアはいつの間に縁ができたのか。
一介の若手官僚と王女である妹の関係は興味深い。
「エフィと関わることが?」
「あなたがらみで色々使いをするうちに、お茶に誘われてしまって断れず」
彼女の仕事外での交友を聞き、アルスは肩の荷が降りたかのようにほっとした。
正直なところユーフェミアは、自分への依存度が高い気がして心配もしていた。
ロイなら素行や身元も問題ない。
「エフィは喜んでいただろう。無理のない範囲で付き合ってやってくれ」
エフィという呼び名を含めて、問題があるなら家政婦長が黙っていない。
ユーフェミアは常々同年代の友人を欲しがっていた。
彼女にアルス以外の関わりが増えるのはいいことだ。




