第3章「小悪魔のランウエイ」 第2話
妥協なき「氷の女」が目をつけた、新人の狂気。
社内を震撼させた伝説の「裏地差し替え事件」――。完璧のその先にある“漆黒”を求めるチーフデザイナー宮部和美が、なぜコンプラ無視の狂犬・麻里を評価したのか?
そして、鉄壁の優等生デザイナー秋村咲良が、夜の帳のなかで狂わせるもう一つの「牙」とは。
少女の皮を被った怪物の出現が、ボーテ・ディスクレットの秩序を静かに、確実に狂わせていく――。
和美にそう言ってワインを一口飲んだ。マスターと話している和美を見た。それは、昨年の春夏コレクションの直前に起きた、社内では今も伝説として語り継がれている事件だ。
「……全て、作り直し」
商品開発部の奥にあるアトリエに、和美の低く冷徹な声が響き渡った。彼女の前に並べられていたのは、数か月におよぶ試行錯誤の末にようやく完成した、新作の黒いウールギャバジン製スラックス、計50本。明日はプレス向けのお披露目という、まさに極限のタイミングだった。
「えっ……!? ですが、宮部チーフ、仕様書通りの寸法ですし、縫製も完璧です!」
担当の若手パタンナーが血の気の引いた顔で声を裏返らせる。
「仕様書通り? 確かにそうね。だけど、これを見て」
彼女は爪先が二つに割れた「タビブーツ」で、コツン、と床を叩いた。アトリエの強力な蛍光灯の下、彼女が指し示したのは、ポケットのフラップ(蓋)の裏側、ほんの数ミリだけのぞく芯地の色だった。
「表地の黒に対して、裏に使うポリエステルの黒のトーンが浅すぎる。これは『漆黒』じゃない。ただの『暗いグレー』よ。歩くたびに、この安っぽいグレーがチラチラと牙を剥く。私が求めたのは、光をすべて吸収するような絶対的な『夜の黒』。こんな妥協の産物、うちのブランド(ボーテ・ディスクレット)のタグをつけて世に出せるわけがないでしょ」
「でも、裏地ですし、普通に穿いている分には誰も気づきません……!」
必死に食い下がるスタッフに、和美は眼鏡をクイと上げ、歪んだマルジェラのシャツの袖を乱暴に捲り上げた。
「『誰も気づかない』? 笑わせないで。その数ミリの違和感に気づいて、興ざめする人間が世界に一人だけいるわ」
和美は自分の胸をトントン、と指先で叩いた。
「この、私よ。私が許せないものは、世界が許してもダメなの。――今すぐ、私の指定した特注のシルク芯地にすべて差し替えて、全員徹夜で縫い直しなさい。文句があるなら、今すぐこのチームから降りてちょうだい」
重ね付けされた「ボッテガ・ヴェネタ」の太いシルバーリングが、作業台に当たって硬い音を立てる。その圧倒的な傲慢さと、狂気的なまでの美意識に、誰も反論することはできなかった。結果、徹夜で修正されたスラックスは、その年のファッション誌の表紙を飾り、「究極の黒」として大ヒットを記録することになる。
プロとして良いものは良い。悪いものは、たとえスケジュールが破綻しようとも絶対に認めない。
そんな和美だからこそ、今回、コンプラ無視の狂犬である麻里の「生々しいエゴイズム」を、クリエイターとして一瞬で見抜いてしまったのだ。
そんな和美である。言い出したら聞かない。あの麻里の純粋無垢な笑顔を思い出す。あの女!祥子はワインを飲みほした。
そんな和美の妥協なき狂気に、黙ってついていく数少ない人間の一人が、和美の秘蔵っ子である若手デザイナー、秋村咲良だった。
咲良もまた、社内では「別の意味で」有名な変わり者。無駄な私語は一切せず、ランチも常に一人で街に消える、ストイックにデザイン画に向き合う。他人に興味を示さず、派閥争いや社内の噂話の輪には絶対に加わらない。洗練された「ボーテ・ディスクレット」のオフィスにおいて、彼女の周囲だけはいつも静寂に包まれていた。
しかし、そんな彼女には、「もう一つの顔」がある。プロ野球チーム「東京ドルフィンズ」の特定の選手に対する、狂熱的な推し活――という噂は誰もが知っている。
どんなに重要なミーティングの途中であろうと、どんなに修羅場の進行中であろうと、ナイターの試合がある日は、 時計の針が8時30分を過ぎたころには咲良の姿はオフィスには無い。そんな咲良に何も言わない「氷の女」和美も社内の七不思議。
彼女の目的地は、一般客の足が遠のく「クラブハウス付近」の薄暗い路地裏。咲良はドルフィンズのレプリカユニフォームをバッグに忍ばせ、息を潜めてクラブハウス周辺を徘徊する。狙いはただ一つ、試合を終えて引き揚げてくる「推し選手」の一瞬の生々しい姿、その呼吸を肌で感じるためだ。
勝負を終えた男たちの放つ熱気、勝利の昂ぶり、あるいは敗北の濃厚な悔死の匂い。暗がりのなか、警備員の目を盗むようにして至近距離で推しを凝視するそのひとときは、彼女にとって何よりの劇薬だった。泥と汗にまみれたユニフォームのシワ、剥き出しの闘争心――完璧な美の世界で窒息しかけた彼女の脳を覚醒させるのは、球場の裏舞台に漂う、その容赦のないリアルだった。
翌朝には、何事もなかったかのように、一点の曇りもない冷徹な表情でデスクに座っている。それが社内の噂。
――そんな、一見して鉄壁の殻にこもった優等生でありながら、裏ではストーカーじみた執念を燃やす咲良と、他人のクローゼットから平然と衣装を盗み出す狂犬の麻里。
(和美は正気なの……? 咲良が、あの化け物みたいな小悪魔と組まされたら、一体どうなってしまうのよ……)
祥子は目の前のワイングラスを見つめながら、これから社内に巻き起こるであろう、さらなる大嵐の予感に、ただ頭を抱えるしかなかった。
優等生の殻がパキリと割れて、最凶の劇薬が混ざり合う。
ストイックな求道者・咲良の裏に潜む「泥と汗のリアル」への渇望。それを見抜いた和美の、あまりにも危険な実験が幕を開ける。狙うは、次代のミニマリズムを破壊する「生々しいエゴイズム」。
麻里という毒を流し込まれたオフィスで、次なる大嵐の予感に祥子が頭を抱えるなか、女たちのランウェイはさらなる混沌へと加速していく――!




