第3章「小悪魔のランウエイ」 第1話
・・・いつの間に、あの公式ビジュアルの撮影が?
ブランドにとっては「秋のプレタポルテの目玉」という最高の勝利。
いいわ明日はいきさつを徹底的に締め上げてやる!
翌日。
「いやあ、夕方にマーケティング室に高木君と一緒に入ってきてね。この企画にはもっと『生々しいエゴイズム』が必要だって、彼女自らこのコーディネートを提案してきたんだよ」
岩口は満足げに昨夜のカンプを見せる。
「自社のプレスルームから衣装を引っ張ってきたらしいが……あの若さで、この引き算の美学は天才的だ。社長にもさっき画像を送ったら、大絶賛でね。彼女、次のAW(秋冬)のアイコンに大抜擢されるかもしれないよ?」
岩口の言葉が、遠くのノイズのように耳を通り過ぎていく。(プレスルームから引っ張ってきた……? 違う。あれは、私のクローゼットから盗まれたものよ……!)
試作刷りの中の麻里は、まるで液晶画面を飛び越えて、祥子のすべてを見透かしているかのような、
冷酷で艶やかな微笑を浮かべていた。
コンプライアンスの崩壊、上司としての尊厳の失墜、そして社長の甥という絶対的な権力を一瞬で味方につけた小悪魔の計略。カチ、と脳内で何かが弾ける音がした。
祥子は、カンプを持つ手が微かに震えるのを必死で抑えながら、燃え盛る怒りと、敗北感に似た戦慄で、ただその美しくも忌々しい写真を凝視し続けるしかなかった。
新入りにすぎない麻里を思い切りしかりつけたかったが、思わず大きな案件が決まったため、それができないのが祥子のストレスだった。
断腸の思いで祥子が温めていた新ジャケットの件は高木君に預けて(ついでに麻里のお守りも)近々に迫った案件を他のスタッフと詰めるしかない。
乃木坂の駅から外苑東通りを少し行った路地裏にあるカフェ「ロペ」。昭和の面影を残す重厚な漆塗りのカウンターに、祥子は深く息を吐きながら寄りかかっていた。
六本木のバー「The Cipher」は祥子が完全に一人の女になれる場所。誰にも知られていない。
そしてここ「ロペ」は会社でもごく少数のメンバーで集まる場所。いまやここのメンバーは会社の実質的な司令塔。
今夜の祥子は、崩れかける上司としての理性を強引に繋ぎ止めるかのような、隙のない「構築的ミニマリズム」で身を包んでいる。
纏っているのは、「ジル サンダー」のミッドナイトブルーのブラウス。シルク混のウール生地は、カフェの落とされた照明の下で、まるで夜の海のように静かに艶めいていた。首元を完全に覆うストイックなハイネックと、計算されたアシンメトリーのカッティングが、内に秘めた激しい怒りを冷徹に押し隠している。
ボトムスは、自社ブランドのピンストライプ柄テーパードパンツ。硬質なセンタープレスが彼女の意地を示すように美しくまっすぐなラインを描き、足元では「ジミーチュウ」のヒールが緊張感を保っていた。
手元の「カルティエ」の時計の針が、規則正しく時を刻む。耳元で怪しく光るシルバーの変形イヤーカフと、いつもより意図的にマットに仕上げた「トムフォード」のボルドーの唇が、彼女の戦闘態勢を雄弁に物語っていた。
「……で、その『最高の一枚』が、あんたの私物だったってわけ?」
隣で低く、呆れたような声をだしたのは、商品開発部のチーフデザイナーであり、祥子の同い年でもある宮部和美だ。数々のヒット作を世に送り出してきたエースデザイナーである彼女は、社内でも一際気難しいことで知られている、
「氷の女」と恐れられている。
その装いは、トレンドを消費する側ではなく「創る側」の人間としての、傲慢なまでの審美眼に満ちていた。 和美が着ているのは、「メゾン マルジェラ」の歪んだ白いシャツ。一見するとシンプルなブロードシャツだが、ボタンラインが斜めに走り、襟元がねじれたように立体裁断された変形デザインだ。それが彼女の一筋縄ではいかない気難しさを象徴している。
ボトムスには、チャコールグレーの肉厚なローシルクを使ったワイドカーゴパンツ。ミリタリーの野暮ったさを削ぎ落とし、モードに昇華させた職人技を感じさせるディテールだ。
「ボストン クラブ」のヴィンテージライクな黒縁眼鏡を人差し指でクイと上げ、和美は短く切り揃えられた爪にヌードベージュを塗った指先で、重厚なロックグラスを転がした。いくつも重ね付けされた「ボッテガ・ヴェネタ」の太いシルバーリングが、カチ、カチ、と硬質な音を立てる。カウンターの足元からは、マルジェラの「タビブーツ」の爪先が、獲物を狙うように覗いていた。
「笑えないわよ、和美。コンプライアンスなんて言葉、あの小悪魔の辞書にはないの。」今頃、私のイタリア製シルクを穿いた麻里が、高木君を顎で使いながら新作の主役に収まってる・・・とまでは言えない。
祥子は冷え切ったアイスコーヒーのグラスを睨みつける。
隙のない洗練を崩さない祥子と、型に嵌まらないエッジを突きつける和美。
「ボーテ・ディスクレット」の流行を牽引する二人のハイエンドな佇まいは、カフェの喧騒の中でそこだけが別のステージであるかのように、圧倒的で、そしてどこか不穏なオーラを放っていた。
「ふん……」
和美は眼鏡の奥の鋭い瞳をわずかに細め、マルジェラのシャツの袖口を無造作に捲り上げた。
「生々しいエゴイズム、ね。岩口の豚が喜びそうな言葉。だけど祥子、クリエイターの視点から言わせてもらえば――そのコーディネートを思いついて、実際に自分のものにしたその新人、ただのバカじゃないわよ」
和美の言葉に、祥子の背筋にピリリと冷たい火花が走った。
「うちの咲良と組ませるわ、秋の新作ジャケット」
「え!?」祥子は驚いた。秋村咲良は和美の秘蔵っこ若手デザイナー。
和美には誰がというのはなかった。プロとしていいものはいい。それだけ。新人のバカがやったことなど眼中に無かった。
「ちょっと、正気なの、和美!?」
祥子は「ジル サンダー」のハイネックが急に息苦しくなったかのように、ボルドーの唇を戦慄かせた。
「咲良ちゃんといえば、あなたの秘蔵っ子でしょ? 次代のミニマリズムを背負うって期待されている真面目な子が、あんなコンプラ無視の野生児と組んだら、文字通り毒されて終わるわよ!」
「毒、結構じゃない」
和美は「ボストーク クラブ」の黒縁眼鏡を指先で直しながら、冷淡に言い放った。
「咲良のデザインは綺麗だけど、優等生すぎて『牙』がないのよ。あの高橋麻里っていう狂犬が持つ、
他人のものを掠め取ってでも自分を輝かせる『生々しいエゴイズム』――それ、今のうちのブランドに
一番足りないエッセンスだわ」
・・・「毒!いいですね」
二人の前に立ったのは、トレンディドラマに出てきそうな男。重厚でいて、ちょっぴきざなマスターの大澤康太。祥子も和美もマスターと話すと落ち着く、そんなタイプ。
「祥子さん、毒を飲まされたみたいですよ」笑顔が渋い。
「そうね、あの子が入ってから毎晩毒を飲まされてる可哀そうな私」
祥子もここのマスターの前では子供の戻れる。何しろ祥子がボーテ・ディスクレットに入ったころからの
影の相談役。
「あの子が入社してうちに配属されて以来振り回されぱなし」
「そういって、実はその子が好きなんじゃない?もち友達として?」
祥子は頭がくらくらする。酔った。
「世界で一番嫌いなやつよ」
和美の話を聞き、あいつ(麻里)がただの小悪魔しゃないと気が付く祥子。この隣の妥協のない「氷の女」を動かしたのが信じられない。同期であるが和美と一緒にこの店に來る仲になるのに十年以上かかったのよ。そして隣の女をじっと見る祥子であった。




