第2章「女たちのランウエイの始まり」 第2話
舞台は夜の戦場へ――ブランドの命運を握る百貨店重役との、息詰まる会食の席。完璧なプロの微笑みを張り付けた祥子の前に、マーケティングダイレクターの岩口が突きつけてきた一枚の資料。そこに写し出されていたのは、一人の女性としての尊厳と、ダイレクターとしてのプライドを根底から揺るがす、あまりにも狂気的で鮮烈な光景だった。
夜――。
青山の一等地にある会員制の和食割烹。祥子は、マーケティングダイレクターの岩口、そして主要取引先である百貨店の重役をもてなす会食の席にいた。
岩口は40代半ばのやり手で、次期役員候補の筆頭と噂される男だ。実際、マーケターとしての手腕は確かだが、何より現社長の甥という強力なバックボーンを持っている。そのせいか、どこか他人を値踏みするような傲慢さが鼻につく男でもあった。
お互いの腹を探り合うような、緊張感のあるビジネス会話がひと段落した頃。相手の重役がお手洗いに立った時、岩口が、仕立ての良いスーツの内ポケットから、おもむろに四つ折りにされた上質なコート紙を取り出した。
「そう言えば祥子ちゃん。これはさっき上がったばかりの、君の新しい企画の試作刷り(カンプ)なんだがね……」
岩口から差し出されたその資料を手に取り、視線を落とした瞬間。祥子は、危うくその場で気を失いそうになった。そこに写っていたのは――高橋麻里。
今季の最重要プロモーションである、ブランドのメインビジュアルだった。一流のフォトグラファーが切り取った、陰影の深いライティング。その中心で麻里は、昼間の無邪気なフレンチガーリーとは180度違う、退廃的でエロティックな「大人の女」の表情を浮かべてカメラを凝視していた。
そして何より、祥子の心臓を完全に停止させたのは、そのスタイリングだ。麻里が身に纏っているのは、まだ発売前の新作ジャケット。そのボタンを大胆に肌蹴させた内側、彼女の白い滑らかな肌に吸い付くように収まっているのは……。
見覚えがありすぎる、イタリア製の高級シルクショーツ。間違いなく、今朝から祥子が麻里が持ち帰ったと疑っていた、彼女自身の私物だった。
「おや岩口さん、身内の内緒話はごめんだよ。私にもこっそり、その社内資料とやらを見せてくれないか?」
そう声をかけてきたのは、お手洗いから帰った、主要取引先である百貨店の大物マネージャー、三浦だった。酸いも甘いも噛み分けた、業界の重鎮である。
「いやあ三浦さん、そう言われちゃ弱いな。まだ門外不出のカンプですよ。ここだけのオフレコということで……」
岩口はわざとらしく頭を掻きながらも、待ってましたとばかりに資料を差し出す。自慢したくて仕方がなかったのが見え見えだった。
三浦は手元の箸を止め、差し出されたビジュアルにじっと見入った。数々のトレンドを見極めてきた販売のプロ中のプロ。その鋭い眼光が、カンプの一点に釘付けになる。張り詰めた沈黙のあと、三浦の箸が完全に置かれた。
「……ねえ岩口さん、祥子さん。このジャケット、うちの秋のプレタポルテの目玉として、ぜひ限定で仕掛けさせてもらえないだろうか」
「いやいや三浦さん、まだカンプの段階ですから。ねえ?」
岩口はそう言って祥子に同意を求めるような視線を送るが、その目は「もう一押しだ」とビジネスの勝利を確信してギラついている。
「いや、決定だ! 岩ちゃん、乾杯しよう」
三浦は破顔し、岩口のお猪口に並々と酒を注いだ。ただの慰労会だったはずの席が、一瞬にして数千万、数億円が動く特大のビジネスチャンスの場へと変貌していく。
祥子もまた、百戦錬磨のプロフェッショナルであり、大人の女だった。胸の中を嵐のように吹き荒れる
「なぜ私のショーツが公式ビジュアルに!?」という狂気じみた疑問を、完璧な営業スマイルの裏側に力ずくで封じ込める。
「それにしても、ボーテ・ディスクレットさんはさすがの審美眼ですね。このモデル、実に素晴らしい。これほど妖艶で、かつ気品のある最高の一枚を着こなせるなんて、超一流のモデルを起用されたお目が高い!」
三浦の心からの絶賛を浴びながら、微笑みを絶やさない祥子の脳裏には、先ほど見たビジュアルが鮮明に焼き付いていた。
(違う……。モデルじゃない、うちの新人……。そしてその『最高の一枚』は……私の、私物のショーツよ……!!)
背筋を凍らせるような戦慄と、あまりの理不尽さに、祥子は今度こそ、エレガントに失神しそうになるのを必死に堪えていた。
三浦の機嫌を損ねぬよう、そして目の前の特大のビジネスチャンスを確実に手中に収めるため、祥子は喉元まで出かかった悲鳴を飲み干した。
会食が終わり、お世辞と計算が飛び交う銀座の夜を後にしたとき、彼女の精神は限界を迎えていた。タクシーのシートに深く身を沈め、窓の外を流れるネオンを眺めながら、祥子は胸をかきむしるような怒りと屈辱に身悶えする。
――やっぱり、あの子が私のショーツを盗んだ!
――いつの間に、あの公式ビジュアルの撮影が行われたの?
ブランドにとっては「秋のプレタポルテの目玉」という最高の勝利。しかし、一人の女としては、最も秘めやかなプライベートを白日の下に晒された、最悪の敗北。
「絶対に許さない……」




