第2章「女たちのランウエイの始まり」 第1話
5年前のあの日、あの『ショーツ事件』の週明けから始まった、二人の女の激烈な戦い。思い返せば、あの完璧に晴れ渡った月曜日の朝こそが、すべての幕開けだったのだ――。
二人の女のこの激烈な戦いは、5年前に、祥子が麻里を自分のマンションに泊めた翌週の月曜日から始まります。
青山の路地裏に佇む、コンクリート打ちっぱなしのデザイナーズビル。ガラスとアイアンが調和したその美しい建物の2階から5階までを占有するのが、新進気鋭の総合アパレルメーカー「beauté discrète」の本社。
月曜日の朝、青山一丁目駅から湧き出す通勤の群衆のなかでも、ひときわ周囲の視線を集める女がいた。祥子である。
その佇まいは、モードでありながら圧倒的にノーブル。金曜深夜のあの泥臭い狂騒と、警察署へのお迎えという屈辱的なトラブルを完全にリセットしたかのように、彼女は完璧な「戦闘服」を纏っていた。
身に包んでいるのは、今季の自社ブランドのアイコンでもある、地厚なウールギャバジンのセットアップ。カラーは潔いほどの漆黒だ。マニッシュなダブルブレストのジャケットは、あえてボタンを留めずに肩にさらりと掛け、インナーには極上のシルクデシンで作られた比翼仕立てのノースリーブブラウスを合わせている。首元まで美しく詰まったオフホワイトの襟が、彼女の冷徹なまでの知性を引き立てていた。
ボトムは、歩くたびに流麗なラインを描くフルレングスのワイドパンツ。その裾から覗く「ジミーチュウ」のポインテッドトゥのフラットローファーが、硬質なアスファルトを叩いて、コツ、コツ、と硬く冷徹な音を響かせる。
手元には無駄な装飾を削ぎ落とした「セリーヌ」のスクエアトート。朝の光が差し込む青山の歩道でサングラスを外したその目元には、「トムフォード」の深いボルドーのリップが、今朝は凛としたオフィス仕様のトーンで端正に引き締まっていた。
4Fの会社の企画を統括するコンセプト・デザイン・ラボ。
「おはようございます」
すれ違う部下たちに短く、硬質な声をかけながらオフィスへ滑り込んでいく姿は、まさにトレンドの最先端を率いるトップマネージャーそのもの。
しかしその胸の内は、クローゼットで発見してしまった「ファンシーショーツ泥棒」への怒りと、自分のシルクショーツが今どこにあるのかという、上司としての尊厳を揺るがす疑問で煮えくり返っていた。
――それから、ちょうど一時間後。
午前10時を回り、少し落ち着きを取り戻した同じ青山のストリートを、まるで自分のランウェイであるかのように優雅に歩いてくる女がいた。高橋麻里だ。
金曜にあれだけ泥酔し、警察沙汰を起こして祥子を引っ張り回した張本人とは思えない。その肌は驚くほど瑞々しく、放つオーラはどこまでも華やかで無邪気だった。
彼女が選んだのは、彼女のキャラクターをそのまま体現したような、大人のフレンチガーリースタイル。柔らかなエクリュ(生成り)色のベースに、繊細なネイビーのトワル・ド・ジュイ柄が全面に施されたコットンのティアードワンピース。歩くたびにふんわりとドラマチックに広がる裾が、すれ違う男たちの視線を面白いように吸い寄せていく。
その上に羽織っているのは、サックスブルーのツイード生地で作られたクロップド丈のコンパクトなジャケット。袖口を無造作にロールアップし、コンサバになりすぎない絶妙なヌケ感を演出している。
手元にはパウダーピンクのミニサイズの「レディ ディオール」。足元は、真っ白なソックスに5センチヒールのエナメルメリージェーンを合わせ、少女のような愛らしさと20代の艶っぽさを同居させていた。
ゆるく巻いたロングヘアをシルクのリボンでハーフアップにし、耳元には大粒のバロックパールが揺れる。
「あ、おはよーございます!」
我が社の誇るフレックスタイム制をフルに活用した時間での優雅な出勤。皆が仕事に没頭しているオフィスの空気など微塵も気にしていないような、太陽のように悪びれない笑顔だった。
ガラス張りのオフィス。デスクでパソコンに向かう祥子の視線が、書類の端から、ゆっくりと入り口の麻里へと向けられる。
(まさか……あのワンピースの下に、私のイタリア製シルクを穿いているんじゃないでしょうね……?)
そんなコンプライアンスの限界を突破した疑念が頭をよぎるが、さすがに全社員の前で
「あんた、私のショーツ盗んだわね!」
と問い詰めるわけにはいかない。
デスクのパーテーション越しに、麻里がこちらへ向かって歩いてくる。その足取りには、罪悪感の欠片もない。
「祥子、先週の金曜日は本当にありがとう」
まず上司を呼び捨てにすることで祥子は狂わされる。上目遣いで微笑む麻里の瞳には、純粋な感謝の色など微塵もなかった。かと言って、泥酔して警察沙汰になり、上司を夜中に呼び出したことを恥じ入るような気配もない。むしろ、何か決定的な「秘密」を共有している者特有の、計算高い光がその奥で妖しく揺れている。
「それで、祥子の部屋であの、壁につるしてあるワイドスラックス。何かのおまじないですか?」
(こいつ上司を下の名で呼び捨て!・・・これが帰国子女?)
「しかもなんか泥で汚れてるし」麻里は祥子の険しい表情を全く気にする様子はない。祥子はショーツのことはまだしも、麻里にワイドスラックスの話をされたのは逆鱗にふれたようなもの。麻里は深い事情も知らずに言ってるだけだろうが、それでも祥子はますます不機嫌になる。
「でも楽しかった祥子のお部屋見せてもらって」まったく悪気がない無邪気な笑顔。
(……この女、まさか楽しんでる?)
背筋に走る不穏な予感を、祥子はプロフェッショナルとしての理性が辛うじて押し留めた。
「……まぁ、いいわ。今週は例の案件の仕上げだから、切り替えてちょうだい」
(このパンツ泥棒!)という怒号は、喉の奥で強引に飲み込んだ。
「それと私はね、あなたの上司!呼び捨ては許さないわ」これだけははっきり教育しなければ。
「え!ダメなんですか。せっかくマンションに泊めてもらってお友達になれたと思ったのに」
悲しい顔になり、そして無垢な笑顔になって大きな目で不思議そうに祥子をのぞき込む。魔法にかけられたような気持になった祥子は忙しくもあり。
「少なくとも二人きりの時だけにしてね」と妥協した。とりあえず。
「わかった、祥子。気をつけるね」麻里は周りに聞こえないように囁いた。顔は満面の笑み。普通はマネージャーとして新入りに呼び捨てにされた時点でぶち切れるところ(実際にそんな新人は存在しなかったが)、なんか魔法をかけられたような気分の祥子だった。
「高木君!新人の麻里さんに手伝ってもらって」
祥子は首を振って追い払った。
「あ、はーい! 了解です!」
デスクを並べる2年目の先輩・高木が、待ってましたとばかりに声を弾ませる。麻里は「よろしくお願いしますね」
と可憐に微笑みながら高木の席へと向かうが、その去り際、一瞬だけ振り返って祥子に満面の笑顔でウインクをしてみせた。(……あのワンピース、今すぐここで引きちぎってやろうか)
祥子のこめかみに青筋が浮かぶ。しかし、今日の彼女には、私怨でコンプライアンスを大破させる時間など1分たりとも残されていなかった。
実際、月曜日のスケジュールは分刻みだ。すぐに次の予定である開発室長とのミーティングのため、祥子は手早く資料を抱えて席を立った。
会議室へ向かう廊下の手前、ふとオフィスを振り返る。視線の先では、麻里がすでに高木と信じられないほどの至近距離で書類を覗き込み、すっかり親密な空気を作り出していた。高木の顔は早くもデレデレに緩んでいる。
コツ、とヒールの音をいつもより鋭く響かせながら、祥子は胸の内で激しい苛立ちの炎を燃え上がらせるのだった。
昼はアタッシュドプレス(広報代行)会社の営業マンとのタイトなビジネスランチ、午後は戻るなり山積みにされたスタッフからの報告と相談の処理。分刻みのスケジュールを文字通り這うようにしてこなし、祥子がようやく一息ついたのは、オフィスに夕闇が迫る頃だった。ふと高木のデスクに目をやると、彼の姿も、そして麻里の姿もない。
(高木君がついていながら、まさかまた何かやらかしているんじゃ……)
一瞬の不安が脳裏をよぎったが、高木は社内でもまじめで、手堅い仕事ぶりに定評のある男だ。
「まあ、彼がついているなら大丈夫か」と自分に言い聞かせ、祥子は夜の戦闘服に着替えるべく、次の戦場へと向かった。
「高木がついているなら、ひとまずは安心ね……」
夕闇が迫るオフィスを後にしながら、祥子は自分にそう言い聞かせていた。しかし、その僅かな油断こそが、彼女の最大の誤算だったのだ。
これから向かうのは、ブランドの命運を握る百貨店重役との極めてシリアスな会食の席。
プライベートの苛立ちを完璧なプロの微笑みで覆い隠し、夜の戦場へと足を踏み入れた祥子だったが、そこで待ち受けていたのは、昼間のオフィスでの不穏な予感を遥かに超越した「最悪で最高の裏切り」だった。




