第1章「シルエットのワイドスラックス」 第2話
深夜のタクシー、窓外を流れる街灯の光に誘われるようにして、祥子の記憶は5年という時間を一気に巻き戻していく。
まだ「マネージャー」だった34歳の祥子と、新入社員として現れた高橋麻里。今やダイレクターとなった祥子の、ある意味での「戦い」の始まりでもあった、あの忘れられない夜の記憶――。
タクシーの窓を流れるネオンを見つめながら、祥子は苦い記憶の引き出しを開けていた。5年前の春。帰国子女として入社してきたのが、あの高橋麻里だった。
忘れもしない5月の半ば、彼女の歓迎会が開かれた夜のことだ。若手たちの一際賑やかな二次会を見送り、祥子は途中で鮮やかにエスケープした。
向かったのは、六本木の路地裏に潜むバー『The Cipher』。そこは祥子が「仕事の麻木祥子」という鎧を脱ぎ、脆い自分を静かに預けられる唯一の聖域だった。
「ジョニー、私さ」
「ん、どうしたの?」
カウンターの向こうで、体格の良さに似合わない優しい目をしたマスターのジョニーが、静かにグラスを磨きながら応じる。
「最近、あのこと……忘れてる時間があることに、ふと気づいたの」
壁に掛けられた、裾に泥のついたあのワイドスラックスのこと。心が張り裂けそうだったあの記憶が、日々の忙殺の中で少しずつ風化し始めている。それは、前へ進めている証拠でもあるはずだった。
「いいことじゃないですか。それはきっと――」
ジョニーが穏やかな微笑みを浮かべ、言葉を続けようとしたその瞬間、カウンターの上で祥子のスマホが容赦なく震えた。画面に表示されたのは、見覚えのない固定電話の番号。
一本の不穏なコールが、彼女を一瞬にして「一人の傷ついた女性」から、「敏腕マネージャー」の顔へと引き戻す。
『麻布警察署ですが……高橋麻里さんという方の上司の方で間違いないでしょうか?』
あの夜、警察署で身柄を引き取り、這う這うの体で自分のマンションへと連れ帰った。
ベランダから見上げた広尾の夜空は、ひどく白々としていた。
(なんで入社したばかりのガキの尻拭いを、私がプライベートを削ってまでしなきゃいけないのよ……)
ふつふつと湧き上がる憤慨を、冷たい夜風にぶつけるしかなかった。
聞けば、大学時代から付き合っていた彼氏に、入社早々別れを切り出されたのだという。地方から出てきて、環境の変化と失恋が同時に押し寄せた麻里にとって、あの歓迎会は最悪の起爆剤だったのだろう。
泥酔して泥のように眠る麻里の服を脱がせ、自分のトレーニングパンツを穿かせてベッドに放り込んだ。ため息をつきながらも、祥子の持ち前の責任感と、どこか放っておけない情が彼女を突き動かしていた。無防備で、おまけにモデル顔負けの容姿をした若い娘を、真夜中の街に放置して帰るほど、祥子の心は冷酷にはなれなかった。
翌土曜日。祥子は休日出勤のため、まだベッドの上で間抜けに口を開けて眠っている麻里を残し、部屋を出た。
『勝手に帰って。鍵は郵便ポストに入れておいて』
短い書き置きを枕元に残して。
そこまでは、まだ「上司の懐の深さ」で処理できる範疇だった。だが、その翌週に発覚した、あの忌々しい『ショーツ事件』を思い出すたび、祥子は今でも小さく舌打ちしたくなる。
自分のトレパンを穿かせたところまでは、確かな善意だった。しかし後日、クローゼットの引き出しを整理していた祥子は、血の気が引くのを感じた。愛用していたイタリア製のシンプルな、しかし最高級のシルクショーツが1枚、綺麗に消えていたのだ。
(何が悲しくて、部下の新入り娘が私の大事なシルクショーツを穿いて帰るなんて、コンプライアンス違反みたいな怪事件が起きてるのよ……!)
週明け、何事もなかったかのように出社してきた麻里の姿が脳裏をよぎる。タレントか女優のような抜群のスタイルに、悪びれない無邪気な笑顔。そのへんの男ならあのルックスと天然さに騙されても、女の城であるアパレル界を生き抜いてきた私は絶対に騙されないわ、と祥子は心を鬼にしたものだった。
「お客さん、青山墓地の手前、どっちに曲がります?」
運転手の突然の声に、祥子はハッと我に返った。
「……突き当たりを右にお願いします」
短く告げて、祥子は小さく息を吐き出した。思考の霧が晴れ、フロントガラスの向こうに、深夜の青山の静けさが広がっているのが見えた。
5年前のあの日、麻布署の冷たい空気の中で、まだ世間知らずな少女のようだった麻里を回収した夜。そして、あの忌々しくも不可解な『ショーツ事件』。
あの時、ただの「手のかかる新人」でしかなかったはずの麻里は、今や社内で自分を脅かすほどの存在としてランウェイを闊歩している。
(本当に、あの頃から何もかもが規格外の女だったわ……)
タクシーが目的地へ滑り込んでいく。祥子はトレンチコートの襟を少しだけ正し、スマホを握り直した。
今夜のトラブルを片付ければ、また数時間後には、容赦のない日がやってくる。




