第1章「シルエットのワイドスラックス」 第1話
「自分を透明に戻す時間」は、1本の電話で打ち砕かれた――。
華やかなアパレル業界の最前線で戦う39歳ダイレクターが、深夜の東京へ「鎧」を纏って駆け出す。
広尾の自宅で、ようやく激務の一日を終えたクリエイティブ・ダイレクターの麻木祥子。お気に入りのオレンジ・ワインを片手に、自分を解放する極上のプライベートタイムを過ごしていたその瞬間、静寂を切り裂くようにスマホが鳴り響く。
画面に映ったのは、トラブルメーカーでありながら不思議な魅力を放つ部下「麻里」の名前だった。
泥酔した麻里からの不穏な電話をきっかけに、祥子はシルクのルームウェアの上にセリーヌのトレンチコートを羽織り、トムフォードのボルドーを唇に引いて、深夜の街へと出撃する――。
金曜日の深夜になろうかという時間。広尾の日赤通りから少し奥に入ったオフィスの喧騒はとうに遠のき、都心の一角にある彼女の私室には、微かな加湿器の稼働音だけが寂しく落ちていた。
玄関のたたきには、今日一日彼女を最前線で戦わせてくれた黒のピンヒールが、主を失って少しだけ乱れた角度で並んでいる。
「……疲れた」
誰に言うでもなく呟いた声は、間接照明の柔らかな光に吸い込まれて消えた。
麻木祥子、39歳。単なるマネージャーからクリエイティブ・ダイレクターへと肩書きが変わり、求められるクリエイションの質も、背負う数字の重圧も跳ね上がった。ブランドのコンセプト設計、商品企画の監修、マーケティング、店舗やWebサイトのビジュアル管理まで、すべてが彼女の双肩に懸かっている。
リビングのローテーブルには、来期の秋冬コレクションのインスピレーションボードと、何枚ものウールのスワッチ(生地見本)が散らばったままだ。普段の几帳面な祥子ならすぐに片付けるはずだが、今夜ばかりはそれに触れる気力すら湧かなかった。
ふと壁に目をやる。
そこには、少し色褪せた、ハイウエストからストンと落ちる美しいシルエットのワイドスラックスが掛けられていた。祥子がこの部屋に転居した時から、ずっとそこにある。裾に少しだけ泥の付いたスラックス。それこそが、今日までの祥子を支え続けたエネルギーの源だった。
ダイレクターに昇格した日、
「もうそろそろ、これを片付けてもいいのかな……」
そう呟いたこともあったが、結局、それは今も変わらずそこにある。キッチンへ向かい、よく冷えたオレンジ・ワインをグラスに注いだ。水滴のついた華奢なステムを指の間に挟みながら、毛足の長いラグが敷かれた愛用のカウチソファへと深く身を沈める。
カルダモンとシダーウッドをブレンドした重厚なルームフレグランスの香りが、深呼吸とともに肺の奥底まで満たされていく。一口含んだワインの複雑な酸味と渋みが、乾いた喉を心地よく刺激した。
窓の外では、まだ眠らない東京の夜景がオレンジ色の瞬きを続けている。華やかなアパレル業界の最前線で「時代の空気」を創り出す彼女にとって、こうして誰の目も気にせず、自分自身を透明な状態に戻す週末の夜更けこそが、最も贅沢で、欠かせない時間だった。
グラスの底で揺れる液体をぼんやりと見つめながら、彼女はもう一度小さく息を吐き、ようやく長い一日の終わりを身体の底から受け入れた。
――その静寂を切り裂くように、ソファの上でスマホが跳ね、メロディが鳴り響いた。
画面に表示された名前を見て、祥子は思わず天を仰ぐ。
『麻里』
時計の針はまもなく深夜。嫌な予感しかしない。
「……もしもし、麻里?」
「あのね、麻里ねぇ……」
案の定、酷く泥酔した声。背後からは重低音のクラブミュージックと、男たちの下品な笑い声が漏れ聞こえてくる。
「麻里? ちょっと、今どこにいるの――」
ブツッ、と不穏な音を立てて通話が切れた。すぐにかけ直したが、もう繋がらない。
「あの子は、本当にいつも気まま……」
祥子は頭を振った。高橋麻里は祥子の部下。20代後半になった今でもガーリー系のファッションで街を闊歩し、頭の中身までそれと同じ。容姿はアパレル会社の社員というより、出入りしている事務所のトップモデルと言ったほうがしっくりくる。
仕事は壊滅的にできない、と祥子は思っている。しかし、なぜか今、社内では祥子のライバル視さえされている。女優かモデルかというほど美人でスタイル抜群の部下。なぜか憎めない――そんな天性の人望のオーラだけで生き残っているような女だ。
そして、呆れるほどに恋多き女。今夜もどうせ、イケメンの男に振られてヤケ酒でも煽ったのだろう。
「本当に、手がかかるんだから……」
祥子は短いため息を吐き出すと、ソファから弾かれたように立ち上がった。「セリーヌ」のトレンチコートを手に取る。カシミア混のしなやかな生地は、深いネイビー。着ていたシルクのルームウェアの上にそれを直に羽織り、フロントのボタンは留めずに、ベルトだけを無造作に、きつく結んだ。
玄関で「ジミーチュウ」の7センチヒールに素足を滑り込ませる。
姿見の前で髪をさっと一つにまとめ、大ぶりのゴールドピアスを耳元で揺らした。メイクを直す時間などない。「トムフォード」のリップスティックを、鏡も見ずに唇へ滑らせる。選んだのは、夜の街に沈まない、それでいて品格を失わない深いボルドー。
鏡の中にいたのは、つい数分前まで疲れ目をこすっていた39歳のプライベートな姿ではない。どこからどう見ても、青山のトレンドを牽引する、隙のないアパレルダイレクターの姿だった。
「待ってなさいよ、麻里」
怒りと、それを上回る身内への保護欲を滲ませながら、カツ、カツ、と夜の廊下に小気味よいヒールの音を響かせ、祥子はエレベーターのボタンを強く押し込んだ。
日赤通りの坂道でタクシーを待つ。広尾の夜空は、都会特有の、雲が赤白く光る怪しい色を湛えていた。何台もの車が通り過ぎていく。ヘッドライトの光線が夜の闇に線を引くたび、祥子の頭は数年前の記憶へとフラッシュバックしていった。
「本当に、何年経ってもあの頃と変わらない……」
39歳にしてクリエイティブ・ダイレクターという重責を担う麻木祥子。彼女がまとう「セリーヌ」のトレンチや「トムフォード」のボルドーのリップは、単なるファッションではなく、戦う大人の女性の「鎧」そのものです。
そんな完璧な彼女の静寂を、容赦なくぶち壊す部下・高橋麻里。
一見、水と油のような二人ですが、祥子の心の中にある「怒りと、それを上回る身内への保護欲」という言葉に、彼女の不器用な優しさと姉御肌な本質が隠されています。
部屋に飾られた「裾に泥の付いたワイドスラックス」の謎
なぜ祥子は、文句を言いながらも深夜の街へ駆け出すのか?
深夜のタクシー、窓の外を流れる東京のネオン。祥子の脳裏に去来するのは、今やライバル(?)にまで急成長した麻里との、あまりにサイテーでサイコーな出会いの記憶でした。
物語はここから、二人の原点である「5年前のあの事件」へと時間を巻き戻します。




