プロローグ
「ようやく手に入れた『自分を透明に戻す時間』を、あの女の気ままで切り裂かれた――」
39歳、大人の女性としての余裕と、その裏にある言葉にならない焦燥。
広尾の部屋から、深夜の六本木、青山墓地へ。まるで名曲の歌詞をなぞるように滑り出すタクシーの中で、主人公・祥子の胸に去来する怒りと、どこか哀しい「諦め」の正体とは?
華やかな都会に生きる誰もが抱く“孤独”と“絆”の狭間で揺れる、極上のシティー・サスペンス。
あなたもきっと、この夜の同行者に。
深夜の東京を滑るタクシーのシートで、麻木祥子は深くため息をついた。「セリーヌ」のネイビーのトレンチコート。フロントのボタンは留めず、ベルトだけを無造作に、けれどちぎれんばかりにきつく結んでいる。シルクのルームウェアの上に直に羽織ったその姿は、端から見れば都会の夜をハシゴする奔放な美女のそれだが、彼女の胸中は怒りと、それ以上の「またか」という諦めで占められていた。
鏡も見ずに唇へ滑らせた「トムフォード」のボルドーが、ネオンの残る車窓に映って怪しく光る。それが、39歳のクリエイティブ・ダイレクターである彼女が、深夜に突如呼び出された戦場へ赴くための「鎧」だった。
カーラジオから、少し前にヒットしたシティーポップが微かな音量で流れている。その歌詞が、あまりにも今と重なりすぎて、祥子は自嘲気味に口元を歪めた。
アノコのあてもなく
呼び出す電話が
ソファのうえでなる
メロディつづいてる
わたしのともだちは
青山あたりの
どこかのカフェで
飲んでる姿うかぶ
広尾の街の空
六本木抜けて
夜更けのタクシー
青山墓地あたり
アノコは店の中
名前をいわなきゃわからない
どっち曲がる どこへいく
あのこはいつもきままな女
「……本当に、きままな女」
祥子は、数十分前まで自分がいた広尾の部屋を思い出す。ようやく「自分を透明に戻す時間」を手に入れたはずだったのだ。あの忌々しいスマホのバイブレーションが、静寂を切り裂くまでは。
『麻里』
――待ってなさいよ、麻里。
深夜の青山墓地をかすめ、ヘッドライトが虚無的な闇を切り裂いていく。車窓を流れるネオンを眺めながら、麻木祥子はきつく結んだトレンチコートのベルトにそっと手を置いた。
なぜ、39歳にもなったクリエイティブ・ダイレクターの私が、金曜日の貴重なプライベートタイムを捨てて、シルクのルームウェアにセリーヌを羽織っただけの歪な姿で、夜の街へと駆り立てられているのか。
すべては、あの高橋麻里という厄介な小悪魔のせいだ。
今思えば、私と彼女の奇妙な狂騒曲は、夜更けのタクシーのエンジン音と窓に映るネオンまでかき回す。




