第15章 「シルエットのワイドスラックスの帰還」 第4話
宿敵との決着をつけ、バー「The Cipher」のカウンターに腰掛けた麻木祥子。彼女の身体を包むのは、かつて壁に掛けられていた、あの「シルエットのワイドスラックス」だった。
クリーニングされた美しいラインと、ジョニーが差し出す乳白色のカクテル「ホワイト・レディ」が、過去の呪縛を完全に洗い流していく。誰のもものでもない、純粋な一人の美しい女性へと戻った彼女を待ち受けていたのは、やはりあの「きままな悪魔たち」からの終わりなきトラブルの電話だった――!
金曜日の深夜。六本木のバー「The Cipher」の重厚なドアを、祥子は静かに押し開けた。今夜の彼女は、「ヘルムート ラング」のストイックな黒のノーカラージャケットに、あの10年間壁に掛けられていた「シルエットのワイドスラックス」を穿いていた。
裾の泥のシミは、クリーニングできれいに落とされ、ハイウエストからストンと落ちる美しいラインは、今の彼女の揺るぎない自信を体現するように凛と佇んでいる。
「おかえりなさい、祥子さん。……おや、そのスラックス、ついに壁から下ろしたんですね」
カウンターの奥から、優しい目をしたマスターのジョニーが微笑んだ。
「ええ。もう、ただの綺麗な服に戻してあげようと思って」
祥子はカウチソファではなく、カウンターのハイスツールに深く腰掛けた。
ジョニーは何も言わず、手際よくシェイカーを振った。美しい乳白色の液体が、流麗なカッティングのショートグラスに注がれる。
「『ホワイト・レディ』。――過去の呪縛を解き放ち、誰のものでもない、純粋な一人の美しい女性へ」
差し出されたグラスを手に取り、一口含む。レモンの鮮烈な酸味と、コアントローの凛とした甘みが、祥子の身体を心地よく満たしていく。
10年前の泥臭い記憶は、もう彼女を縛る鎖ではない。それは、今の隙のない彼女を創り上げた、ただの美しいプロローグに過ぎなかった。
その時、静寂を切り裂くように、カウンターの上でスマホが激しく跳ねた。画面に表示されたのは――『麻里』。
「もしもし、祥子さ〜ん! 大変ですぅ! 咲良さんが『ろぺ』のマスターの前で飲みすぎて、ヨウジのシャツのボタン飛ばして泣いてます! 今すぐ来てくださ〜い!」
背後からは、和美の爆笑する声と、大澤マスターの困惑した苦笑いが漏れ聞こえてくる。
「……本当に、あの子たちはいつも気ままなんだから」
祥子はため息を吐きながらも、ホワイト・レディをグッと喉に流し込んだ。そして、夜の街に沈まない深いボルドーの唇で、確信に満ちた、この上なく不敵な笑みを浮かべた。
明日になれば、また青山のオフィスで、あの生々しい戦争が始まる。けれど、今の麻木祥子には、それを楽しむだけの圧倒的な自由と、強さがある。
(待ってなさいよ、私の可愛い悪魔たち)
祥子はグラスをそっと置くと、ジミーチュウのヒールを響かせ、新しい夜の街へと踏み出していった。
過去の呪縛を脱ぎ捨て、誰のものでもない誇り高き一人の女として新たな夜へ踏み出した麻木祥子。ジミーチュウのヒールを響かせ、彼女が向かう先には、相変わらずコンプラ意識ゼロで暴走する愛しい悪魔たちが待っている。
国境も境界線も、過去の因縁もすべてなぎ倒しながら、女たちのファッショナブルで生々しい戦争のランウェイは、これからも果てしなく続いていく。東京の夜に沈まない美しいダイレクターの伝説は、さらなる眩いシーズンへと美しく加速していく




