終章 「永遠のランウェイ、あるいは私たちの生々しいエゴイズム」
シンガポールと六本木を巻き込んだ狂騒の果てに、日本のリアルクローズ界の頂点へと手をかけた「beauté discrète」。表参道のオフィスは、相変わらずキャパシティを狂わせるような新しいシーズンへの熱気と、愛しいトラブルメーカーたちの怒号で満ちていた。
サンローランの構築的なタキシードに身を包み、すべてを統べるクリエイティブ・ダイレクターとなった麻木祥子。彼女の掌の上で、麻里とルーカスは予測不能な愛の勝利を掴み取ろうとしていた。国境も境界線もなぎ倒し、女たちの生々しいエゴイズムが最高潮に達する、伝説のキャットウォークの幕が上がる――!
数年後。
「beauté discrète」の表参道オフィスは、前代未聞の活気と、脳のキャパシティを狂わせるような新しい狂騒のシーズンを同時に迎えていた。
「ちょっと、ルーカス! 今季のルックブック、このデニムの切り替えじゃ私の『生々しいエゴイズム』が15パーセントは足りないわ! もっとこう、バチバチに牙を剥くようなエッジをちょうだい!」
「No, 麻里! お前のエゴに合わせすぎたら、全体のモードなバランスが完全に崩壊する! ボスの祥子がNOと言ったらどうするんだ!」
企画部マネージャーへと昇格し、相変わらず「ミュウミュウ」の最新作の変形セットアップを我が物顔で着こなす麻里の、鈴を転がすような怒声。そして、チーフデザイナーに就任したルーカスの、ドレッドヘアを激しく揺らしながら放つマシンガン英語が、今日もフロアのパーソナルスペースを大破させていく。その横では、すっかり白髪交じりになった大津が「また始まった……」と言わんばかりに胃薬を飲み、すっかり自信をつけた秋村咲良が和美とニヤニヤしながら新作のパターンを引いていた。
ガラス張りのクリエイティブ・ダイレクター室。麻木祥子は、完璧にマニキュアが施された指先で最高級のハーブティーを口に含みながら、その喧騒をBGM代わりに、デスクに置かれた新しいクルーズコレクションの最終承認書類に滑らかなタッチで万年筆のサインを走らせていた。
今日の祥子は、ダイレクターとしての頂点を体現する「サンローラン」の構築的な黒のタキシードジャケットに、眩い白のシルクシャツ。耳元では「ボッテガ・ヴェネタ」の大ぶりのゴールドピアスが知的な光を放ち、その「トムフォード」の深いボルドーの唇には、すべてを統べる者にしか許されない不敵な笑みが浮かんでいる。
あの混沌とした六本木とシンガポールの夜を越え、彼女たちはついに、日本のリアルクローズ界の頂点へと手をかけていた。
そして迎えた、「beauté discrète」の定例新作発表会。都内最高峰のイベントホールを完全貸し切りで行われたそのキャットウォークは、国内外の有力プレスやセレブリティ、そしてあの百貨店の重鎮・三浦さえもが固唾をのんで見守る、今シーズン最大の注目イベントだった。
重低音のモダン・ジャズと鋭いデジタルビートが融合したBGMが鳴り響くなか、ランウェイを一流のトップモデルたちが滑るように歩いていく。
祥子が全体のバランスを緻密にコントロールした、洗練極まるモードなスタイリング。和美が仕掛けた、構築的でエッジの効いた黒のヒットファッション。そして、デザイン部の若きエースとなった咲良の、繊細でエモーショナルな意欲作が次々とフロアを魅了していく。会場の熱気が最高潮に達したその時、演出がガラリと切り替わった。
今夜の、そして新生ブランドの最大の目玉――「ルーカス・コレクション」のイベントタイムだ。
伝統的なアジアンシルクと、退廃的なケミカルウォッシュデニムが火花を散らす、圧倒的なアナーキー・モード。モデルたちが次々とランウェイをハッキングしていくなか、その最後に、ひときわキャットウォークが派手な、圧倒的なオーラを放つモデルが現れた。
失恋の悲劇をすべて美貌のエネルギーへと昇華させ、一点の滲みもないマスカラで世界を睨みつけるその姿に、会場全体が息を呑む。
『――さあ、ルーカス・コレクションの最後を飾るのは、「beauté discrète」の社員モデル、麻里高橋……』
MCの熱狂的なアナウンスが響き渡り、フラッシュライトが集中した瞬間、そのキャットウォークの中央で、女は悪びれもせず先端でポーズをとりウインクを飛ばす。
ショーの司令塔、アナウンス室で祥子はアナウンサーに耳打ちする。
『そして、――今日から、麻里・デ・ソウザ…』
そのアナウンサーの声に背を向けてランウエイの出発点に戻った、麻里が振り返り例のまったくたくらみのない笑顔。
鈴の鳴るような大音量が会場を包み、麻里はパウダーピンクのネイルを施した両手を、舞台の袖に向かって大きく広げた。
まばゆい光のなかから照れくさそうに、しかし誇らしげに姿を現したのは、泥だらけの夜を共にしたドレッドヘアの男――ルーカス・デ・ソウザだった。麻里は当然のようにルーカスの腕にすり寄り、大粒のバロックパールを揺らして胸を張る。そして舞台の袖に招くように大きく手を広げた。
『―― 皆様、ご紹介します! 我がブランドの至宝、天才デザイナーのルーカス・デ・ソウザ! そしてお分かりでしょう、今壇上で彼を迎えたのは、コンセプト・デザイン・ラボのエースであり、彼の最愛の妻となった麻里・ルーカス!』
あのシンガポールのハジ・レーンの夜、そして六本木の「The Cipher」での大破劇の裏で、猛獣はついに、自分を命がけで救い出したストリートの才能を力ずくで「生け捕り」にしていたのだ。
割れんばかりの歓声と、嵐のような拍手がグランドボールルームを揺るがしていく。これ以上ない、生々しいまでのエゴイズムの、そして愛の完全勝利だった。
眩いフラッシュの光が届かない舞台の袖、暗がりのなかで、祥子はグラスのシャンパンを静かに傾けながら、ボルドーの唇をゆっくりと綻ばせて、ひとり「ほくそ笑んで」いた。
「まったく……相変わらずコンプラ意識ゼロの、とんでもない公私混同ね。発表会のランウェイを自分の結婚報告の場にするなんて、世界中であなたくらいのものよ」
そう言って祥子は舌を出した。和美もウインクする。祥子の胸を満たしたのは、かつてないほど深く、そして心地よい「征服感」だった。
あのきままな野生児がどれだけ吠えようが、どれだけ予測不能な地殻変動を起こそうが、結局のところ、そのすべての狂騒は、この私の掌の上で踊っている。
そして、それをブランドの爆発的な富へと変換し、彼女たちの居場所を守り続けているのは、クリエイティブ・ダイレクターであるこの麻木祥子なのだから。
「……おめでとう、麻里。最高のキャットウォークだったわよ。……私の、最高の友達」
和美が去った後、誰も聞いていない舞台袖で、祥子は静かにグラスを掲げた。ふと、ステージの上でルーカスと抱き合って笑う麻里の、鮮やかなドレスの裾に目がいく。
――そういえば、あの急ごしらえのウエディング・モードのドレスの下、あの子は今、一体どこのどんなショーツを穿いているのかしら。まさか、私のクローゼットからまた何か消えてはいないでしょうね。
祥子は「ジミーチュウ」のヒールをコツ、と高く鳴らし、夜の街に沈まない不敵な笑みを浮かべて歩き出した。女たちのファッショナブルで、あまりにも生々しく、どこまでも美しい戦争のランウェイは、これからも、国境も境界線もすべてをなぎ倒しながら、どこまでも果てしなく続いていくのだから。
あ、それからあの「シルエットのワイドスラックス」捨てなきゃ。
あの子のあてもなく 呼び出す電話が
ソファのうえで鳴る メロディつづいてる
わたしのともだちは 青山あたりの
どこかのカフェで 飲んでる姿うかぶ
広尾の街の空 六本木抜けて
夜更けのタクシー 青山墓地あたり
アノコは店の中 名前をいわなきゃわからない
どっち曲がる どこへいく あのこはいつもきままな女
神宮の球場 ライトも消えて
灯りにたむろする クラブハウスの前
二人のマスターが 話聞いてくれ なぐさめる
きっと醒める 夢を見る あのこはいつもきままな女
ネオンも消えた街 六本木抜けて
夜更けのタクシー 外苑通りあたり
アノコは夢の中 本音をいわなきゃわからない
どっち曲がる どこへいく あのこはいつもきままな女
A.A
ランウェイの真ん中で結婚を報告するというコンプラ意識ゼロの暴挙すら、ブランドの圧倒的な富とエネルギーへと変換してしまう小悪魔・麻里。そのすべての狂騒を掌の上で鮮やかに泳がせ、不敵に微笑む最高峰のダイレクター・麻木祥子。
かつての泥だらけの記憶も、引き裂かれた過去の呪縛も、すべては彼女たちを輝かせるための美しいプロローグに過ぎない。「私の、たった一人の、大切な友達」へ捧げた静かな乾杯の向こう側で、女たちのファッショナブルで美しい戦争のランウェイは、終わりなき伝説のシーズンへと――どこまでも果てしなく続いていく!




