第14章 「きままな女たちのランウェイ」
ロペのマスター・大澤の優しさに触れ、身勝手な初恋の果てに盛大に玉砕した高橋麻里。そして、彼女の失恋の尻拭いをするように六本木の路地裏で泥だらけになったインディーズデザイナーのルーカス。
麻里のエゴイズムが巻き起こした地殻変動は、海を越え、祥子の絶対に侵されたくない聖域「The Cipher」の境界線さえも完全に決壊させていた。二人のマスター、そして二人のデザイナーが交錯する深夜のバー。
夜明け前の東京を舞台に、トレンチコードのベルトをきつく締め直し、ジミーチュウのヒールを鳴らして「厄介なバカ娘」を迎えに行く、トップマネージャー・麻木祥子の孤独で鮮やかな夜が始まる――!
神宮外苑周りの、深夜のネオンが消えかけた街を、祥子は彷徨っていた。狂犬・高橋麻里が引き起こした「ロペの地殻変動」。確信を持って足を踏み入れたカフェ「ロペ」に、すでに麻里の姿はなかった。残されていたのは、ただ静かに店の片付けをしているマスターの大澤康太だけだった。
「麻里とは? どうなったの」
祥子の張り詰めた問いに、大澤は困ったように微笑み、事の顛末を白状した。麻里から真っ直ぐな好意を寄せられていたこと。しかし大澤には、すでに大切な妻がいること。それを告げられた瞬間、麻里がまたしても失恋の衝撃で大破し、金曜の六本木へとヤケ酒を煽りにとび出していったこと――。
さらに最悪なことに、麻里に振られて同じく六本木で荒れていたルーカスが、裏通りでチンピラに絡まれている(いや、正確には麻里のほうが絡んでいたのかもしれない)彼女を発見し、泥だらけになりながら救い出したのだという。
夜中の捜索に疲れ果てた祥子は、日赤通りの坂道でようやく捕まえたタクシーのシートに深く身体を沈めた。窓の外、都会特有の赤白く光る怪しい雲が流れていく。
「……青山墓地、どっち曲がりますか?」
運転手の形式的な問いかけが、遠くで響く。祥子は虚ろな目で都会の夜景を眺めながら、頭の中で、最近ラジオから流れていた妙に耳に残る「はやり歌」のメロディを、音もなく口ずさんでいた。
あの子のあてもなく 呼び出す電話が
ソファのうえで鳴る メロディつづいてる
わたしのともだちは 青山あたりの
どこかのカフェで 飲んでる姿うかぶ
広尾の街の空 六本木抜けて
夜更けのタクシー 青山墓地あたり
アノコは店の中 名前をいわなきゃわからない
どっち曲がる どこへいく あのこはいつもきままな女
神宮の球場 ライトも消えて
灯りにたむろする クラブハウスの前
二人のマスターが 話聞いてくれ なぐさめる
きっと醒める 夢を見る あのこはいつもきままな女
ネオンも消えた街 六本木抜けて
夜更けのタクシー 外苑通りあたり
アノコは夢の中 本音をいわなきゃわからない
どっち曲がる どこへいく あのこはいつもきままな女
「……本当に、どこまで私を振り回せば気が済むのよ。今度はロペのマスターかよ」
祥子は「トムフォード」のボルドーの唇を噛み締め、最後に残された、しかし最もあってほしくない場所の名前を告げた。
「……六本木の裏通りにある、バー『The Cipher』へ行ってください」
ドアを押し開けた瞬間、祥子は自分の目を疑った。そこは彼女の絶対に侵されたくない「聖域」のはずだった。硬質でノーブルな静寂が支配するはずのバー。しかし今、その美しい漆黒のボックス席には、きらびやかな「ミュウミュウ」のニットを泥だらけにした高橋麻里が、無防備に転がっていた。
その傍らには、やはり服を泥で汚したドレッドヘアのルーカス。そして、いつもは暗号を解くようにクールに佇んでいる「The Cipher」のマスターが、あの大澤康太と同じように、ひどく困惑した顔でチェイサーの水を差し出していた。
二人のマスター、そして二人のデザイナー。麻里のエゴイズムが巻き起こした地殻変動は、海を越え、祥子の公私の境界線さえも完全に決壊させて、この狭いバーの空間にすべて集結していたのだ。
「祥子さん……!」
ルーカスが驚いたように顔を上げた。祥子は「セリーヌ」のトレンチコートのベルトをきゅっと締め直し、ジミーチュウの7センチヒールをコツ、と硬く鳴らして泥だらけの女に近づいた。
「大丈夫ですよ、祥子さん。怪我は何もありません。ただ……せっかくの綺麗な服が台無しなだけです」
バーのマスターが、苦笑しながら真っ白なハンカチをルーカスに手渡している。10年前、自分を救ってくれたあの時と同じハンカチだ。
「……わかったわ。私がこのバカ娘を連れて帰る」
祥子はため息を吐き出し、ルーカスとマスターに頭を下げると、麻里の華奢な身体を抱き起こした。
夜明け前の外苑通り。滑り込んできたタクシーのリアシートに、麻里を滑り込ませる。横に倒れ込み、完全に夢の中へと旅立とうとしているトラブルメーカー。マスカラは滲み、あれほど計算高かったガーリーな顔は台無しだが、その寝顔は驚くほど無邪気で、透明だった。
仕事をさせれば壊滅的、コンプラ意識はゼロ、男を見る目は悲しいほどに無い。だけど、他人の私物ショーツを盗んでまで自分を輝かせようとしたあの圧倒的な「生々しいエゴイズム」が、死にかけていたブランドを救い、新しい時代を連れてきたのは紛れもない事実だった。
祥子は、イタリア製のシンプルなシルクショーツを穿いた自分の足元を見つめ、それから、隣で泥だらけになって眠る野生児の頭を、そっと引き寄せた。
「……あんたは本当に、手がかかるんだから」
夜の街に沈まない深いボルドーの唇が、誰も聞いていない車内で、小さく、優しく囁いた。
「だけどね。あなたは……私の、たった一人の、大切な友達よ」
その言葉が届いたのか。麻里の閉じた瞼の奥で、満足そうな、世界で一番きままな笑みが、ふわりと綻んだような気がした。
夜明け前の外苑通りを走るタクシーのリアシート。マスカラを滲ませ、無防備な寝息を立てるトラブルメーカーの横顔には、あの圧倒的な「生々しいエゴイズム」と、紛れもない輝きが宿っていた。
他人の私物ショーツを盗み、コンプライアンスを木っ端微塵に大破させながらも、死にかけていたブランドを救い、新しい時代を連れてきた唯一無二の小悪魔。
「私の、たった一人の、大切な友達よ」――深いボルドーの唇が紡いだその優しい告白は、完璧なダイレクターの仮面の裏に隠された、確かな絆の証だった。東京の夜に沈まない女たちのファッショナブルな戦争は、次なる伝説のシーズンへと美しく加速していく!




