第13章 「スタジオ・アナーキーと、ロペの地殻変動」 第2話
和美の偏屈な承認をもぎ取り、社内の正規工程へと滑り出したルーカスの世界戦略プロジェクト。緊迫の撮影を乗り越えた祥子は、緊張を解きほぐすべく、デザイン部と企画部の面々を引き連れて隠れ家カフェ「ロペ」へと繰り出した。
しかし、そこで祥子を待ち受けていたのは、ビジネスの数字でもプロジェクトの成否でもなく、あの野生児・高橋麻里が浮かべた、これまでのどんな失恋とも違う「本物の初恋」という名の特大の爆弾だった。
よりによって自分の聖域であるマスター・大澤康太に向けられた、あまりにも純情で破滅的なまなざし。完璧なダイレクターとしての仮面が剥ぎ取られそうなほどの違和感と胃痛を抱えながら、祥子の胸には、すべての境界線を大破させる狂騒の予感が冷たく突き刺さる――!
幸いにも、ライアンの尖りすぎたデザインワークは、デザイン部の絶対的ディレクターである和美の承認を無事に得ていた。砂漠のサボテンより偏屈な和美に、あの獰猛なストリート・エッセンスを納得させ、社内の正規工程へと乗せたのも、麻里の泥臭い根回し(という名の突撃)の成果だった。
ここからは、祥子の真骨頂だ。来年の新アイテムとして、世界中のサプライチェーンを巻き込む膨大な生産工程が動き始める。マネージャーからダイレクターへと至る、完璧なリレーのはずだった。
数日後の深夜。ライアンプロジェクトの第一段階クリアを労うため、祥子はデザイン部と企画部の連中を引き連れ、慰労会の二次会として、あの隠れ家カフェ「ロペ」のドアを押し開けていた。
店内には、和美や大津をはじめ、激務を終えたクリエイターたちが思い思いにグラスを傾け、喧騒の余韻を楽しんでいる。
漆塗りの重厚なカウンターの奥では、マスターの大澤康太が、いつもと変わらない穏やかな微笑みを浮かべ、手際よくチェイサーの水を配っていた。祥子は「ジミーチュウ」のヒールを休ませながら、ふと、カウンターの端に目をやった。
そこには、パウダーピンクのブルゾンを羽織った麻里が座っていた。いつもなら、誰彼構わずパーソナルスペースを大破させ、ウインクを振り撒き、世界のエゴイズムを一身に集めて大騒ぎするはずの女が、妙に大人しい。
麻里は大澤が差し出したグラスを受け取る時、その華奢な指先をわずかに震わせ、長い睫毛を伏せた。大澤が何気なく「高橋さん、今回も大活躍だったみたいですね」と声をかけると、麻里の白い頬が、まるでサクラピンクのカーディガンのように、じわりと赤く染まっていく。
その、計算高さを忘れたかのような、あまりにも「純情」で、あまりにも「不自然」な態度。
ストリートの猛獣を観察し続けてきた祥子のプロとしての、そして女としての勘が、最大級の警戒アラートを脳内で鳴り響かせた。
(……嘘でしょ?)
麻里の大澤に対する接し方に、祥子は、これまでのどの失恋前夜とも違う、決定的な「違和感」を察知してしまった。あの神宮の時も、教会のヴァージンロード逆走の時も、麻里の行動はどこか「エゴイズムの延長」だった。しかし今、目の前でマスターの差し出す水を見つめる麻里の瞳には、静かで、破滅的に深い、本物の「恋」の兆しが宿っているように見えた。
よりによって、私のオアシスのマスターに……!?
祥子は「トムフォード」のボルドーの唇を戦慄のあまり震わせ、激しい胃痛の予感に、そっと自分の腹部を抱きしめた。
ようやく社内工程に乗った世界戦略プロジェクト。その命運を握る狂犬が、最も手近で、最も危険な聖域の男に牙を抜かれようとしている。
女たちの、あまりにもファッショナブルで、あまりにも生々しい戦争は――祥子自身のプライベートの境界線をも巻き込み、史上最悪のキャパシティオーバーへと突き進もうとしていた。
計算高さを完全に忘れて頬を赤らめる小悪魔の姿に、トップマネージャーとしてのプロの勘が最大級のアラートを鳴らす。仕事のエゴイズムを越えて、最も手近で最も危険な聖域の男に牙を抜かれようとしている狂犬。
プロジェクトの命運を握る劇薬が暴走を始めた瞬間、東京の夜は、すべての因縁を飲み込むさらなるカオスへと突入する。神宮から六本木へ、傷だらけのヒールで駆け抜けた女たちの生々しい戦争は、ついに予測不能のクライマックスへ加速していく――!




