第13章 「スタジオ・アナーキーと、ロペの地殻変動」 第1話
東京とシンガポールを股にかけた激しいヘッドハント作戦を制し、ついに天才デザイナー・ルーカスを「beauté discrète」のインハウスへ迎え入れた麻木祥子。最年少ダイレクターとして順風満帆に見える彼女だったが、モードの戦場に安息の地など存在しない。
次期クルーズコレクションのメインビジュアル撮影現場――そこは、ルーカスの妥協なきこだわりと、外部スタッフの戸惑いが交錯する、文字通りの「アナーキー(無政府状態)」なスタジオだった。モデルですら表現しきれない野性的なグルーヴに直面し、ついにあの狂犬・高橋麻里が驚愕の行動に出る。
プロとしての理性と管理職としての誇りの間で揺れる祥子。そして、撮影の喧騒の裏で、祥子の聖域であるあの隠れ家カフェ「ロペ」へと忍び寄る、予想外の「恋の地殻変動」。ハイエンドなクリエイションの裏側で、女たちの生々しいエゴイズムが、再び予測不能なカオスの引き金を引く――!
都内近郊の巨大な撮影スタジオは、張り詰めた緊張感と、飛び交う怒号で満たされていた。「beauté discrète」の次期クルーズコレクション、そのメインビジュアルの撮影現場。
緊迫の源泉は、シンガポールからインハウス・デザイナーとして正式にヘッドハントされた、ルーカスだった。
「No, no, no! 違う、そんなコンサバなポーズじゃ、僕の服のソウルが死んでしまう!」
ドレッドヘアを激しく揺らしながら、ルーカスがカメラマンの横で頭を抱えて叫ぶ。スタジオの中央、バックペーパーの前では、有名事務所から呼び寄せたトップモデルが、ルーカスのデザインした「タイシルクとケミカルデニムのハイブリッド・ドレス」を纏って立ち尽くしていた。伝統とストリートの破壊的な融合。そのエッジが鋭すぎて、百戦錬磨のモデルですら、ルーカスの求める野生的なグルーヴを表現しきれずにいるのだ。現場の外部スタッフたちの間に、不穏な空気が広がり始める。
「――だったら、私がやってみるわ!」
スタジオの重い遮音扉を蹴り開けるようにして、その女は現れた。衣装ラックの陰から飛び出してきた高橋麻里は、すでにモデル用として用意されていた、もう一着の「露出満点」なルーカスのデザインを完璧に身に纏っていた。胸元が大胆にカッティングされ、太ももの最深部までスリットが入ったアシンメトリーのアジアン・モード。
「ちょっと、高橋さん!?」
怪訝な顔をするスタイリストや外部スタッフたちを一瞥し、撮影の進行管理を務める大津マネージャーが、深く、しかし慣れっこになった諦めの溜息をつきながら無言で頷いた。「行ってこい」という合図だ。
スタジオの一番外側、機材の影に佇む麻木祥子は、完璧にマニキュアが施された指先で額を押さえ、胃のあたりに走る鈍痛を必死に我慢していた。
「トムフォード」のボルドーの唇を真一文字に結び、ダイレクターとしての冷静さを保つ。
(若い子に任せるのも、今の私の役目……。我慢よ、祥子。これも管理職の抱擁力というものよ……)
心の中で呪文のように唱える祥子の目の前で、麻里とルーカスは、マシンガンのような早口の英語で激しく言い合いを始めた。
「ルーカス、あなたの服はもっとエゴイスティックに歩くべきよ!」
「分かってる! 麻里、お前のその生意気な角度だ、そのままレンズを睨め!」
それにしても、何という破壊的なデザイン。そして、麻里のあの布地の面積を無視した格好は一体何なのか。しかし、カメラのフラッシュが連続してスタジオを白く染めた瞬間、祥子は認めざるを得なかった。
モデルを差し置いて自分が主役に躍り出るという、相変わらずコンプラ意識ゼロのバカをやっている。だが、レンズの向こうで牙を剥く麻里の姿には、ブランドの「新しい波」となる圧倒的なエネルギーが確かに宿っていた。
(……あいつも、やる時はやるじゃない)
祥子の唇が、誰にも気づかれないほど微かに、優しい微笑みの形に綻んだ。自分の私物ショーツを盗むような野生児に、ここまで大きなバカをやらせておけるだけの度量が、今の自分にはある。その確かなキャリアの成熟が、祥子に奇妙な充実感を与えていた。
しかし、華やかなスタジオの熱気が冷め、表参道のダイレクター室に戻った瞬間、祥子は現実に引き戻された。
デスクの上には、文字通り業務が錯綜し、書類の山がうねりを上げていた。アパレルの世界は打率の世界だ。シンガポールハントのような大ヒットの裏には、莫大なコストをかけながらも時代の速度に置いていかれた失敗作の死屍累々が転がっている。
社長や岩口常務へ提出する、冷酷な「プロジェクト撤退稟議書」の束に、祥子は淡々と万年筆でサインを走らせる。
そして何より、祥子の胸をざわつかせているのは、今後の「ルーカスデザインに麻里を絡ませるリスク」だった。あの野生児の爆発力は、常に「失恋」という最悪のトリガーによって駆動してきた。神宮の奥村陸、社内の駒田。仕事では天才的なエゴイズムを発揮するくせに、男を見る目は壊滅的で、一度恋に落ちればすべてを道連れにして大破する。
(あの子が……あの子が恋に落ちさえしなければ、このプロジェクトは安全に世界へ飛べるのだけど)
祥子は冷えたハーブティーを飲み干し、カルティエの時計を見つめた。
ルーカスの尖りすぎた要求を自らの肉体と圧倒的な存在感でねじ伏せ、スタジオの空気を一瞬で支配してみせた高橋麻里。モデルを食うほどの破壊的なその姿は、ブランドの未来を照らす新たな「生々しいエゴイズム」の証明だった。
だが、大ヒットの裏で次々と積み上がる稟議書と、崩壊していく公私の境界線。束の間の休息にと逃げ込んだカフェ「ロペ」で祥子が見たのは、あの小悪魔が隠し持っていた、あまりにもピュアで破滅的な「初恋」の予兆だった。
マスター大澤康太を巻き込んだ地殻変動は、祥子の完璧に計算された日常を容赦なく揺さぶり始める。次期プロジェクトの命運と狂犬の暴走が交差する中、物語はいよいよ、六本木の夜の路地裏へと向かう最高潮のカオスへと加速していく!




