第12章 「暗号を解くマスターと、10年前の六本木」第2話
漆黒のカウンターに蘇る、10年前の狂おしい朝の残像。完璧なダイレクターの仮面の下に隠された、剥き出しの挫折と再生の記億
誰にも明かしていない聖域「The Cipher」で、マスターと対峙する麻木祥子。グラスの中で溶けゆく丸氷の音とともに、彼女の意識は、まだ何者でもなく、ファッションの荒野で血を流していた20代のあの日へと逆流する。
業界の理不尽な洗礼を浴び、プライドをズタズタに引き裂かれて六本木の夜の底を彷徨っていた若い日の祥子。居場所を失い、雨に濡れたヒールで立ち尽くす彼女の前に差し出された、一杯の「暗号」と静寂の空間――それこそが、冷徹なトップマネージャー・麻木祥子を誕生させた原点だった。
過去の傷跡を愛おしむように振り返る祥子。しかしその頃、エコノミーでシンガポールへと強制送還されたはずの高橋麻里から、東京の静寂を木っ端微塵に爆破する、最悪で最高にファッショナブルな緊急連絡が届こうとしていた――!
10年前。祥子は渋谷の気鋭のアパレルメーカーで、寝る間も惜しんでヒットを飛ばし続ける「やり手デザイナー」だった。怖いもの知らずで、尖っていて、自分の才能だけが世界のすべてだと信じていた若き日の祥子。
そんな彼女が、同じ会社の直属の上司である「部長」と激しい恋に落ちたのは、必然だったのかもしれない。大人の男の余裕と、アパレル界を生き抜く強さに、祥子は身も心も溺れていった。
しかし、その恋の結末は、あまりにも陳腐で、あまりにも残酷な破滅だった。彼は独身だと偽っていたが、実際には家庭を持つ男だった。すべてが公になり、社内での地位も、積み上げてきたデザインのキャリアも、何より一途に注いできたプライドも、すべてが泥を塗られて崩壊した。男は保身のために祥子を切り捨て、彼女は着の身着のままで会社を追われた。
六本木の繁華街、夜が明ける寸前の、あの白々とした冷たい空気。ハイヒールは片方折れ、ボロボロに引き裂かれたクリエイティビティの死骸を引きずるようにして、祥子はセンター街の路地裏のコンクリートにへたり込んでいた。涙すら出ず、呼吸の仕方も忘れ、このままスクラップになって消えてしまいたいと本気で願っていたその時。
「お嬢さん。綺麗な服が泣いていますよ」
差し出されたのは、仕立てのいい真っ白なハンカチと、温かいコートだった。それが、当時渋谷の喧騒から少し離れた場所でバーを営んでいた、若き日のマスターだった。マスターは、崩壊しかけていた祥子を店へと連れて帰り、何も聞かずに、ただ一杯の温かいミルクと、静寂を与えてくれた。
『服は、心を隠す鎧にもなれば、新しく生まれ変わるための皮膚にもなる。あなたには、まだその皮膚を創り出す指先がある』
その渋く、温かい言葉に、祥子はどれほど救われただろう。あの日、渋谷の明け方でマスターに拾われなければ、今の「クリエイティブ・ダイレクター・麻木祥子」は存在していなかった。
「あの日、マスターが私の壊れた皮膚を縫い合わせてくれたから、私は今、こうしてモードの戦場で戦えているのよ」
祥子は追憶から戻り、愛おしそうにグラスを揺らした。
「光栄です。ですが、それを手繰り寄せたのは、あなたの強さだ」
マスターの渋い笑顔を見るだけで、祥子は日頃の激しい喧騒を綺麗に忘れることができた。……そう、あの日以外は。
ふと、祥子の脳裏に、別のトラウマが強烈にフラッシュバックした。
忘れもしない、2年前の新人歓迎会の夜。数年ぶりにこの「The Cipher」でゆっくりと心の鎧を脱ぎ、一人静かに極上のウイスキーに浸っていたまさにその時、祥子のスマホがけたたましく鳴り響いたのだ。
『麻布警察署ですが、高橋麻里さんの身元引受人の麻木さんでしょうか? 彼女、六本木のバーでテキーラを煽って、他のお客様に暴れておりまして……』
祥子は思わず頭を振った。
(いけない、いけない……! 今夜ここだけでは、あの娘のことは完全に忘れるのよ)
せっかくの聖域にまで、あの野生児の「生々しいエゴイズム」の影が侵入してくることに、祥子は心の中で激しく毒づいた。離れていてもなお、自分の平穏を脅かすあの小悪魔は、本当に解けない最悪の暗号だ。
「どうしました? 祥子さん。少し、眉間にシワが寄っていますが」
マスターが心配そうに覗き込む。
「なんでもないわ、マスター。ただ……東京から遠く離れたシンガポールで、今頃私の大切なマネージャーが、狂犬の噛み付き攻撃に遭っていないか、少しだけ心配になったの」
「ふふ、あなたをそこまで惑わせる存在がいるとは。その暗号も、いつか解けるといいですね」
祥子は苦笑し、トムフォードのボルドーの唇を再びグラスへと預けた。今夜だけは、あの狂犬を忘れて、ただの一人の女に戻ろう。
しかし、祥子のプロとしての勘は知っていた。海を越えたシンガポールで、今まさに大津が泣きを見ながらも、あの麻里の破壊的なエゴイズムが、我が社を揺るがす特大のヘッドハントを成功させようとしていることを。
静まり返った六本木の深淵で、ヒロインたちの、美しくも生々しい戦争の足音が、静かに、しかし確実に響いていた。
10年前の雨が上がった東京の夜空に、シンガポールから轟く狂犬のウェイクアップ・コール!
己の原点である「The Cipher」の夜に浸り、完璧なまでの精神的デトックスを遂げたはずの祥子。だが、そんなダイレクターの絶対的な静寂を切り裂いたのは、やはりスマホの画面で禍々しく振動する「高橋麻里」の名前だった。
エコノミーの乾燥に耐えかねて現地に乗り込んだはずの小悪魔と、すでにキャパシティを超えて息絶え絶えの大津マネージャー。天才デザイナー・ルーカスのヘッドハント交渉は、麻里の規格外の「生々しいエゴイズム」によって、またしても法務の想定を遥かに超越したカオスのランウェイへと突入していた。
過去の因縁を抱き締め、再び冷徹なボルドーの唇を引き締める祥子。東京の裏路地から熱帯のストリートへ、女たちのプライドを賭けたハイエンドな戦争は、すべてを巻き込んでさらなる狂騒のシーズンへと加速していく!




