第12章 「暗号を解くマスターと、10年前の六本木」 第1話
狂犬のいない絶対的な静寂と、六本木の裏路地で美しく牙を隠す「暗号」の聖域。
高橋麻里が再び大津を伴ってシンガポールへ旅立ったその日、最年少クリエイティブ・ダイレクターとなった麻木祥子には、奇跡のようであり不気味ですらある「空白の時間」が訪れていた。
コンプラ大破の爆撃音から解放された彼女が、ハイブランドの武装を少しだけ解いて足を踏み入れたのは、誰にも教えていない隠れ家バー「The Cipher」。
緻密に計算されたモノクロームの空間で、トムフォードのボルドーを閃かせながらグラスを傾ける祥子。そんな彼女に、仕立てのいいベストをまとったマスターが静かに問いかける。「今夜のあなたに、解けない謎はありますか」と。
数式では解けない野生の難問(小悪魔)に思いを馳せるなか、丸氷の繊細な響きとともに、祥子の意識は10年前のあの狂おしい朝の記憶へと引き戻されていく――。
高橋麻里が再び大津を伴ってシンガポールへ旅立ったその日、麻木祥子の世界には、奇跡のようであり、どこか不気味ですらある「絶対的な静寂」が訪れていた。
狂犬の遠吠えも、予測不能なコンプライアンス大破の爆撃音もない。最年少でクリエイティブ・ダイレクターの座に登り詰めた祥子にとって、それは久しぶりに手に入れた、己の輪郭を取り戻すための空白の時間だった。
六本木のけたたましいネオンと、欲望が渦巻く喧騒をすり抜け、一本裏の細い路地へ入る。湿った夜気の中に、ひっそりと佇む重厚なマホガニーのドアが見えた。看板にはただ、無機質でソリッドなフォントで「The Cipher」とだけ刻まれている。
サイファー――すなわち「暗号」、あるいは「ゼロ」。
ドアを押し開けると、外界の雑音が嘘のように遮断され、硬質な静寂が耳を包んだ。店内は、まるで光と影が緻密に計算されたモノクロームの映画のようだった。
磨き上げられた漆黒のバーカウンターは、深い琥珀色のウイスキーグラスを鏡のように美しく映し出している。天井からのスポットライトは極限まで絞られ、バーテンダーの手元と、ゲストのグラスだけをドラマチックに浮かび上がらせていた。壁面に並ぶ無数のボトルは、影の奥で静かに呼吸しているように見える。
わずかに漂う高級な葉巻の残り香と、カスク(樽)の芳醇な香り。BGMは、空間の隙間を埋めるような、極低音のモダン・ジャズが微かに流れるのみだ。
今日の祥子は、戦友であるハイブランドの武装を少しだけ解いていた。「セリーヌ」の滑らかなカシミアの黒タートルネックに、ラフでありながら完璧なカッティングのバギーデニム。しかし、唇に引かれた「トムフォード」のボルドーだけは、彼女が今や一企業のクリエイティブを司るトップであるという矜持を、静かに主張している。
カウンターの向こう側には、非の打ち所がないほど仕立てのいいベストをまとったバーテンダー、そしてその奥に、この店の主である渋い佇まいのマスターが立っていた。彼らの一連の所作には、一切の無駄がない。氷を削るナイフの音、シェイカーが冷えていくかすかな金属音。
「今夜のあなたに、解けない謎はありますか」
差し出されたグラスの中で、丸氷がチリン、と繊細な音を立てて揺れる。
「……相変わらず、詩的なお迎えね、マスター」
祥子は不敵に微笑み、ボルドーの唇をグラスに寄せた。ここ「The Cipher」は、祥子にとって本当の聖域だった。お気に入りのカフェ「ロペ」のマスターである大澤康太にも、職人気質の和美にも教えていない、誰にも邪魔されない隠れ家。マスターも、彼女の仕事がアパレルであることは察していても、具体的なブランド名や役職は決して深く詮索しない。それがこの店と祥子との、心地よい「暗号」だった。
「風の噂で聞きましたよ。大いなる『昇進』を遂げられたとか。おめでとうございます、祥子さん」
マスターが、オークの壁の影から深い低音の声を響かせた。
「解けない謎……そうね。私の周りには、どんな数式を使っても解けない、野生の難問が転がっているわ」
祥子は小さく首を振った。脳裏に、カナリアイエローのキャミソールを揺らして笑う、あのトラブルメーカーの顔が一瞬だけ過る。
「あなたのハートも、すっかり綺麗に繕えましたね」
マスターは、祥子の身に纏う空気と、微塵のブレもない佇まいを見つめながら、優しく目を細めた。
「ありがとう、マスター。あの時……私の命を助けてくれたのは、あなただもの」
「僕が?……私はただ、居場所を失った夜の一杯を差し出しただけですよ」
他に来客はいない。壁のオークの木目を眺めていると、祥子の記憶は、10年前のあの狂おしい朝へと引き戻されていった――。
「私の命を助けてくれたのは、あなただもの」――漆黒のカウンターで手渡された、10年前の夜の鍵。
お気に入りの「ロペ」のマスターにも、職人気質の和美にも決して明かしていない聖域で、祥子が口にした衝撃の過去。今の完璧で冷徹なトップマネージャーが誕生する前、居場所を失った夜の底で彼女を救い上げたのは、この「The Cipher」のマスターだった。
東京とシンガポール、海を越えたファッショナブルなヘッドハントの戦争が裏で動き出すなか、六本木の深い影の奥から浮かび上がる麻木祥子の原点。
磨き上げられた審美眼と、傷だらけのヒールに隠された壮絶な過去の因縁とは――? 謎が深まるなか、物語はついに彼女のキャリアを決定づけた「10年前の六本木」の深淵へ、さらなる加速を見せる!




