第11章 「天国と地獄のヘッドハント」 第2話
教会の奇行を忘れた反省ポーズと、最年少ダイレクターが放つ「冷酷なエコノミー」。
準エース・駒田の結婚式でヴァージンロードを逆走しかけた地獄の15分間を、完全に脳内デリートしたかのような瑞々しい笑顔で現れた高橋麻里。「ミュウミュウ」のプレッピースタイルで必死の“反省”を装う小悪魔に、麻木祥子は冷徹なトップとしての現実を突きつける。
今回のヘッドハントは完全なる実務出張――常連のバカンスモードを粉砕する「エコノミークラス」での強制送還。胃に穴のあく思いで麻里の首根っこを掴み、成田から飛び立つ大津マネージャー。
二人が東京を離れた瞬間、ダイレクター室を包んだのは、奇妙なほどに絶対的な静寂だった。コンプラ大破の爆撃音がない空白のなか、祥子の心に去来する、あの劇薬への奇妙な渇望。そして、傷だらけのヒールで踊り続ける女たちの戦争は、エコノミーのシートから次なるカオスの幕を開ける――!
「お呼びでしょうか、麻木ダイレクター」
大津マネージャーは、あの結婚式以来、完全に白髪が増えたような疲弊した顔で一礼した。
「祥子さん、ひさしぶり〜! 偉くなって席が遠くなっちゃって、麻里、寂しかったですぅ!」
隣の麻里は、あの教会の奇行など完全に記憶からデリートしたかのような、瑞々しい笑顔を輝かせている。今日の彼女は、「ミュウミュウ」のネイビーのプレッピースタイルなニットに、白のプリーツミニスカート。足元はクラシカルなローファーに白ソックスという、お茶目な「反省ポーズ」を装った確実な計算高さが見え隠れしていた。
(人前で“祥子さん”と言い換えただけ、まだマシね……)
祥子はハーブティーを一口すすり、声を整えた。なぜだか、この小悪魔を前にすると、どれだけ役職が上がろうが、自分の声がわずかに上ずってしまうのが悔しくてならない。
「……ほかでもないわ。あのシンガポールのルーカスを、我が社のインハウス・デザイナーとして正式にヘッドハントすることが決定しました」
祥子は硬質なクリアファイルをデスクにコン、と置いた。
「身辺調査と契約の骨子は、法務の手によって全て済ませてあります。大津マネージャー、そして高橋さん。あなたたち二人に、再びシンガポールへ飛び、このミッションを完遂することを命じます」
「わぁぁい! またシンガポール! ルーカスに会える!」
案の定、麻里はパールのピアスを揺らして飛び上がった。常夏の島への再訪に、完全に目がきらきらしたバカンスモードに切り替わっている。
「いいこと、高橋さん。勘違いしないで」
祥子はトムフォードの唇を尖らせ、ドスの利いた声で釘を刺した。
「ライアンとまともに連絡が取れるのがあなたしかいないから、同行を許すだけよ。現地でのタフな交渉、契約書のサイン、法的なハンドリングはすべて、大津マネージャーの指示に従うこと。あなたの役割は、あくまでルーカスの懐を温める“通訳”と“ミューズ”に徹することよ。分かった?」
「はーい! 大津先輩の言うことなら、なんでも聞きま〜す!」
麻里はいたずらっぽく大津にウインクを投げかけた。大津は「勘弁してください……」と心の中で血を吐くような顔で書類を抱きしめている。
「それから」祥子は冷徹なトップとしてのトドメを刺した。「今回は実務出張よ。あのバカンスの時のような贅沢は一切認められません。常務の決済だけど、飛行機も、現地のホテルも、すべてビジネスライクな『エコノミー』ですからね」
「え〜っ! エコノミー!? お肌が乾燥しちゃう〜!」
文句を垂れる麻里の背中を、大津が「行くぞ高橋、パスポートの確認だ」と首根っこを掴むようにして部屋から連れ出していった。
二人が成田から飛び立った後、ダイレクター室に残された祥子は、ひどく複雑な溜息を吐き出した。
窓の外、表参道の洗練された街並みを眺めながら、自分の胸の奥にある妙な空虚さに気づく。
高橋麻里という女が近くにいると、コンプラは崩壊し、自分の私物ショーツは盗まれ、毎晩のように致死量の毒を飲まされて胃がキリキリと痛む。けれど――あの子が遠く離れた異国にいると、今度は一体どんな爆弾を破裂させ、どんな狂騒を巻き起こして帰ってくるのか、気になって心が1秒も休まらないのだ。
あの野生児の「生々しいエゴイズム」は、すでに「beauté discrète」というブランドの、そして麻木祥子という女のキャリアの、決して切り離せない劇薬になってしまっている。
「……全く。今回ばかりは、大津君を泣かせるようなトラブルだけは起こさないで頂戴よ」
祥子は「ジミーチュウ」のヒールをコツ、と鳴らし、手元の「カルティエ」の時計を確認した。東京とシンガポール。海を越えたファッショナブルで、あまりにも生々しいヘッドハントの戦争は、今まさに、エコノミークラスの機内から次の幕を開けようとしていた。
狂犬が去ったオフィスに訪れた絶対的な静寂と、トップマネージャーの武装を解く隠れ家「The Cipher」。
高橋麻里と大津をエコノミークラスでシンガポールへ送り出し、数年ぶりに己の輪郭を取り戻す空白の時間を得た麻木祥子。彼女がハイブランドの武装を少しだけ解き、トムフォードのボルドーだけを閃かせて足を踏み入れたのは、誰にも明かしていない六本木のディープな聖域だった。
計算された光と影、グラスの中でチリンと鳴る丸氷。無駄のない所作で極上の一杯を差し出すマスターの言葉が、祥子の記憶のトリガーを引く。
「あの時……私の命を助けてくれたのは、あなただもの」
華やかなモードの階段を駆け上がるダイレクターが、胸の奥底に秘めていた10年前の狂おしい朝の記憶。果たして、今の完璧な彼女を作り上げた「六本木の夜の謎」とは――? 過去の因縁と現在が交錯する、緊迫の第12章へといよいよ物語は突入する!




