第11章 「天国と地獄のヘッドハント」 第1話
凱旋のメガヒットがもたらした最年少の栄冠。だが、欲望が秒単位で渦巻くモードの最前線に、安息の夜など1ミクロンも存在しない。
シンガポールの熱帯夜で掴み取ったヴィンテージジャケットを武器に、麻木祥子はついに「クリエイティブ・ダイレクター」の座へ登り詰めた。しかし、グローバル展開を狙うブランドの背後には、知的財産権とコンプライアンスという巨大な法規の暗雲が立ち込める。
リスクを恐れる重役たちを冷徹なプレゼンでねじ伏せ、現地の天才デザイナー・ルーカスを丸ごと「監禁」するヘッドハント計画をブチ上げた祥子。その特大のミッションを託すのは、やはりあの狂犬・高橋麻里と、胃に穴のあく思いで彼女を支える大津マネージャーだった。
準エース・駒田の結婚式でヴァージンロードを逆走しかけたという、前代未聞の奇行の余韻も冷めやらぬまま、再び常夏の楽園へと強制送還される小悪魔。エコノミークラスの機内から、世界を巻き込むファッショナブルで生々しいヘッドハントの戦争が、今まさに幕を開ける――!
その秋、「beauté discrète」が放った【秋色フェミニン・ミニスカート】のキャンペーンは、日本のリアルクローズ界の歴史を塗り替えるほどの大成功を収めた。ピンチをチャンスに変えたシンガポールハントの余韻は、冷めるどころか巨大なマネーの渦となってオフィスに還元されていた。
その功績を認められ、祥子は最年少で「クリエイティブ・ダイレクター」の座へと登り詰めていた。しかし、アパレルとは秒単位で「次」を貪欲に求められる残酷な世界だ。昇格の美酒に浸る時間など、1ミクロンもありはしなかった。
ダイレクターの席となった祥子のデスクの上には、あのシンガポールの熱帯夜、ハジ・レーンの路地裏で手に入れた「ルーカス」のヴィンテージ・リメイクジャケットが、怪しい光を放ちながら鎮座している。
伝統的な東南アジアのシルクとケミカルウォッシュのデニムを融合させた、あの破壊的なまでの「生々しいエゴイズム」。これをブランドの次なる世界展開の「核」にしたい。ライアン個人とはスポットでの契約を交わしたものの、ビンテージ生地の商標権、現地のサプライチェーンの不透明さ、そして意匠権の法的なクリアランス……。グローバル展開を目論む大企業としては、あまりにもグレーで面倒なリスクが山積みだった。
「――ですから、現地のインディーズ・デザイナーからアイデアを買い叩くような形になれば、コンプライアンス的にも、プレスの見せ方的にも非常に危険な橋を叩くことになります」
品川の本社、ガラス張りのエグゼクティブルーム。重役たちが並ぶ経営会議の席で、祥子は一歩も引かずにプレゼンを行っていた。今日の彼女は、ダイレクターとしての威厳を誇示する「セリーヌ」のシャープな黒のタキシードジャケットに、潔い白のシルクシャツ。耳元には「ボッテガ・ヴェネタ」の硬質なゴールドのジオメトリックピアスが輝き、唇の「トムフォード」のボルドーは、役員たちの気圧されるような視線を冷徹に撥ね返していた。
「しかし祥子君、我が社の新しい柱として、このアジアン・モードは絶対に外せん。かと言って、法的なリスクを抱えたまま突き進むわけにもいかんだろう」
常務へと昇格し、ますます仕立てのいい(しかし明らかに腹の出た)スーツに身を包んだ岩口が、苦虫を噛み潰したような顔で贅沢なペンを回す。会議室を支配する、重苦しい沈黙。リスクは取りたくないが、儲かる果実は欲しい――老人たちの生温い保身の空気が、部屋を満たしていく。
その淀んだ空気を切り裂いたのは、一番の若輩者である祥子の、容赦のない一言だった。
「――なら、ルーカスそのものを、丸ごと我が社に引っ張ればいいだけのことです」
役員たちが一斉に顔を上げた。
「彼をインハウスのデザイナーとして『beauté discrète』の海外拠点長に据え、ブランドごと吸収する。そうすれば、クリアランスの問題はすべて我が社の法務のコントロール下に置けます」
一瞬の静寂の後、それまで黙って葉巻の煙を眺めていた老社長が、ニヤリと浅黒い顔を綻ばせた。
「さすが麻木君、ただの着せ替え人形のデザイナーやないな。本物の商売人や。企画部で燻ぶらせておかなくて正解だった」
社長のその一言で、風向きは完全に決まった。岩口常務は慌てて姿勢を正すと、まるで自分が最初から思いついていたかのように、大声を張り上げた。
「そうだ! まさに私の言いたかったこともそれだ、麻木ダイレクター! 至急、そのルーカスの身上調査を行い、スカウトに動きなさい! 彼を我が社に監禁してでも、その才能を発展させるんだ。いいね!?」
「……御意に。常務のご指示通り、速やかに進めます」
祥子は完璧なビジネススマイルの仮面を貼り付け、大人の対応で頭を下げた。これくらいのタヌキの化かし合いは、今の彼女にとっては朝飯前だった。
調査会社の仕事は冷酷なまでに早かった。
ルーカスの素行、過去の契約、資金繰り――。すべてにおいてスカウト可能であり、むしろ彼自身も、自分の牙を世界に羽ばたかせるための巨大な資本を求めているという報告書が届いた。
問題は、「誰を現地に行かせるか」だった。
ルーカスとの強力なコネクションを持っているのは、言うまでもなく高橋麻里だ。しかし、あの野生児を海外へ単独で解き放てば、どんな国際問題や胃痙攣もののトラブルを引き起こすか分かったものではない。
祥子は、一通りの覚悟を決め、ダイレクター室に大津マネージャーと麻里を呼び出した。ドアを開けて入ってきた麻里の顔を見た瞬間、祥子は先週の「大惨事」を思い出して、こめかみがピキリと鳴るのを止められなかった。
あの、準エース・駒田の結婚式。社内ファンも多かった塩顔イケメンの晴れ舞台で、麻里は「失恋の当てつけ」と言わんばかりの、あまりにもコケティッシュで罪深き「ヴァレンティノ」の真っ赤な総レースミニドレスで現れた。そして、新郎新婦が誓いのキスを交わそうとしたその瞬間――。
ドレスの裾を翻し、映画『卒業』のダスティン・ホフマンよろしく、教会の重い扉をバン!と蹴り開けて、「駒田さぁぁん!!」と号泣しながらヴァージンロードを逆走しかけたのだ。
列席していた岩口常務が泡を吹いて倒れ、大津がプロレスのタックルさながらの体勢で麻里の腰をホールドして引きずり出し、祥子が完璧なポーカーフェイスで「……新婦の旧友による、感動的なサプライズ演出でございます」と引き攣った笑顔で祝辞を読み繋いだ、あの地獄の15分間。
教会の奇行を忘れた反省ポーズと、最年少ダイレクターが放つ「冷酷なエコノミー」。
準エース・駒田の結婚式でヴァージンロードを逆走しかけた地獄の15分間を、完全に脳内デリートしたかのような瑞々しい笑顔で現れた高橋麻里。「ミュウミュウ」のプレッピースタイルで必死の“反省”を装う小悪魔に、麻木祥子は冷徹なトップとしての現実を突きつける。
今回のヘッドハントは完全なる実務出張――常連のバカンスモードを粉砕する「エコノミークラス」での強制送還。胃に穴のあく思いで麻里の首根っこを掴み、成田から飛び立つ大津マネージャー。
二人が東京を離れた瞬間、ダイレクター室を包んだのは、奇妙なほどに絶対的な静寂だった。コンプラ大破の爆撃音がない空白のなか、祥子の心に去来する、あの劇薬への奇妙な渇望。そして、傷だらけのヒールで踊り続ける女たちの戦争は、エコノミーのシートから次なるカオスの幕を開ける――!




