↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
22/34

第10章 「シンガポール・カオス・ランウェイ」 第3話

熱帯の太陽が照らし出す、二人の長く美しいシルエット。海を越えたストリートで交わされた、確かなクリエイションの手応え。


午前0時のハジ・レーンで手に入れた、ヴィンテージ・タイシルクのリメイクジャケットという至高のピース。ビジネスとしての特大の収穫を手に、東京の和美へ国際空輸の手配を急ぐ祥子だったが、隣を歩く高橋麻里は、相変わらずコンプラ意識ゼロの笑顔で「友達」としての甘えを炸裂させる。


公私のラインをどこまでも厳格に引きたい洗練のマネージャーと、そのすべての城壁を笑顔で木っ端微塵に破壊していく天性の小悪魔。

タイの泥臭い工場視察から始まった熱帯の強行軍は、終わってみれば二人の審美眼の完全なる勝利へと昇華されていた。


しかし、異国の青い空に響くジミーチュウのヒール音は、これでおしまいではない。

東京、神宮、そしてシンガポール――場所を変え、形を変え、傷だらけのヒールで踊る女たちのファッショナブルで、あまりにも生々しい戦争は、さらなるモードの深淵へと加速していく!

 窓際で、くったくのない表情のまま、異国のエメラルドグリーンの海をじっと見つめている麻里の横顔を、祥子はほんの少しだけ、本当にミリ単位だけ、「可愛い」と思ってしまった。

 翌日から、二人の「シンガポール・ファッション・ウォーク」が始まった。失恋したとは到底思えない、麻里の凄まじい衣替えの物量。祥子のライバルとして、あるいは謎の同居人として、二人はシンガポールのストリートで無言のファッショントークの火花を散らした。もちろん、祥子はあくまで「私は上司、あの子は部下」というスタンスを崩さないが。

 世界的なハイブランドがひしめく巨大ショッピングモール「ION Orchard(アイオン・オーチャー)」の大理石の床を、祥子は「ジミーチュウ」のヒールで、麻里は「ミュウミュウ」のサンダルでカツカツと鳴らしながら歩く。すれ違う現地のセレブリティや外国人観光客たちが、モードの極みのような祥子と、フレンチリゾートの具現化のような麻里のコンビを、何度も振り返って見ていた。

 次世代のローカルクリエイターが集まる「Design Orchard(デザイン・オーチャード)」では、現地の伝統的なプラナカン文化をモダンに昇華させたテキスタイルに、二人のプロとしての目が同時に光る。


「やっぱり凄いね、祥子。東京のプレスルームに籠もってたら、この色彩感覚は絶対に見つからないや」


 麻里の瞳が、失恋の陰りを完全に吹き飛ばしたような純粋な輝きを取り戻していく。祥子はその言葉をあえて無視し、クールに次のハンガーを手に取ったが、胸の奥では、次期トレンドの確かな手応えを感じていた。


 そして、滞在三日目の夜。

 事件は、若者カルチャーとエッジの効いたショップが路地裏にひしめく、エキゾチックなストリート「Haji Lane(ハジ・レーン)」で起きた。

 世界各国のストリートアートが壁一面に描かれ、ビンテージショップやオープンエアのバーが怪しいネオンを放つ街。歩き疲れた祥子が「私は一度ホテルに戻って、ラウンジでハーブティーでも飲むわ」と告げたのに対し、麻里は「麻里、もう少しこの路地の奥を見てまわりたい!」と言い残し、人混みの奥へと消えていった。


 それから数時間後。夜も更けた午前0時前。ホテルの部屋でシルクのルームウェアに身を包み、ハーブティーをすすっていた祥子のスマホが、不穏なメロディを鳴り響かせた。

 画面の表示は、もちろん『麻里』。嫌な予感しかしない。5年前のあの六本木の夜、梅雨の嵐の夜の「ろぺ」の記憶が、フラッシュバックのように脳裏をよぎる。


「……もしもし、麻里? 今どこにいるの」


『あ、祥子ぉ! なんかさ、すっごく素敵な男の子と意気投合しちゃって、今、ハジ・レーンの奥のバーで最高にエモいカクテル飲んでるの! 祥子もすぐ来て! 住所送るから!』


ブツッ、と通話が切れた。


「……あの、バカ娘……!!」


 祥子は短いため息を吐き出すと、ソファから弾かれたように立ち上がった。「セリーヌ」のネイビートレンチをルームウェアの上に直に羽織り、ベルトをきつく結ぶ。玄関で「ジミーチュウ」のヒールに素足を滑り込ませ、鏡も見ずに「トムフォード」のボルドーを唇に滑らせる。

夜のシンガポールに沈まない、隙のないアパレルマネージャーの姿が、一瞬で復活した。


 タクシーを飛ばしてハジ・レーンの路地裏へ滑り込む。異国の熱帯夜のなか、ネオンが妖しく光るオープンテラスのバー。そこに、麻里の姿はあった。

 そして、彼女の隣で身振り手振りを交えながら熱く語り合っていたのは、ドレッドヘアをラフにまとめた、現地の若い男性だった。


「麻里! いい加減にしなさい、ここは外国なのよ――」


祥子が割って入ろうとした瞬間、麻里がパッと顔を輝かせた。


「あ、祥子! 遅いよ! 紹介するね、彼の名前はルーカス。ここの路地裏でインディーズのビンテージ・リメイクブランドをやってるデザイナーなの!」祥子は紹介された青年が麻里のはまるイケメンタイプでもないことにまず安心する。ただ会った瞬間から

祥子の感性を呼び起こした。


 ルーカスと呼ばれた青年は、祥子の隙のないスタイリングを一目見るなり、その鋭い目を見開いた。


「……Wow. ジル・サンダーの構築性と、東京のリアルクローズの完璧な融合だ。素晴らしいエッジだね、君が彼女の上司(ボス)かい?」


 そこからの時間は、祥子にとって、全く予想だにしない「クリエイティブの狂宴」となった。麻里は、祥子が密かに驚くほどの流暢な英語で(あの野生児は、実は帰国子女だったことを祥子は今さら思い出した)、ライアンと現地のアンダーグラウンドなファッショントレンドについて、激しいディスカッションを交わしていたのだ。


 「今のグローバルなトレンドは綺麗すぎる。もっと、ストリートの壁画(グラフィティ)にあるような、破壊的で『生々しいエゴイズム』が必要なのよ!」


 と、麻里が熱弁を振るう。

 伝統的なアジアのシルクを、あえてケミカルウォッシュのデニムと切り替えるライアンのリメイク手法。モードのルールをあえて破壊する、その獰猛なまでのエネルギー。

麻里に夜中に呼び出されるのは、常に最悪のトラブルと決まっていたが、この夜だけは違った。祥子もまた、気づけばトレンチコートの袖を捲り上げ、ルーカスの持ってきたポートフォリオのルーズルックを指差し、英語で鋭いアドバイスを飛ばしていた。

 ハジ・レーンの路地裏に、夜明け前の涼やかな風が吹き抜ける。ネオンの明かりが薄れ、東の空がうっすらと紫がかった琥珀色に染まり始める頃、祥子と麻里はライアンのバーを後にした。

二人の手には、ライアンが「東京のクールなボスと、最高のミューズへ」と破格の条件で譲ってくれた、ヴィンテージのタイシルクをパッチワークしたリメイクジャケットのサンプルが握られている。次期クルーズコレクションの、これ以上ない強力な起爆剤(ピース)だった。


「……はぁ。まさかシンガポールにまできて、こんな泥臭いストリートハントに付き合わされるなんてね」

 

 祥子は「ロエベ」のトレンチコートの襟元を正しながら、呆れたように、しかし確かな興奮を孕んだ声で呟いた。足元では、「ジミーチュウ」のヒールが、異国の硬いアスファルトをコツ、コツ、と心地よく叩いている。


 「ねえ祥子、麻里の言った通りだったでしょ? 最高のインスピレーション、見つかっちゃいましたねぇ!」


 隣を歩く麻里は、一晩中英語で喋り倒したとは思えないほど瑞々しい笑顔で、カナリアイエローのキャミソールを揺らしている。パウダーピンクの「レディ ディオール」を品なく振り回しながら歩く姿は、やっぱりどこからどう見ても、コンプラ意識ゼロの野生児だった。


「……今回は、ビジネスとしての収穫があったから不問にするわ。でもね麻里、次から夜中に私を呼び出すときは、せめて事前に企画書を提出しなさい」


「え〜! そんなの『生々しいエゴイズム』が死んじゃいますよぉ!」


 麻里はケラケラと鈴を転がすように笑うと、当然のように祥子の腕にその華奢な身体をすり寄せてきた。

 昇り始めた熱帯の太陽が、二人のシルエットを長く、美しくストリートに映し出す。公私のラインを引こうと躍起になる洗練のマネージャーと、そのすべての境界線を笑顔で大破させていく天性の小悪魔。

東京、神宮、そして海を越えたシンガポール。場所がどこであろうと、女たちのファッショナブルで、あまりにも生々しい戦争のランウェイは、どこまでも果てしなく続いていく。


「さあ、ホテルに戻るわよ。シャワーを浴びたら、すぐに東京の和美にこのサンプルを国際文面で送るわ」


「はーい! あ、その前にホテルのラウンジで、祥子のおごりで最高級のハーブティー飲ませてくださいねっ、友達として!」


 祥子はサングラスをかけ直し、深いボルドーの唇を少しだけ綻ばせると、異国の青い空に向かって、ヒールの音を一層高く響かせた。


異国の青空へと高く響くジミーチュウの残響。熱帯のカオス・ランウェイを制した二人が、次なる戦場へと視線を据える。


ヴィンテージのタイシルクジャケットという最大の戦利品を掴み取り、コンプラ破りの野生児・高橋麻里との「シンガポール・ファッション・ウォーク」は幕を閉じた。ビジネスの収穫を盾にしながらも、深いボルドーの唇に不敵な笑みを浮かべる祥子。その胸には、組織の境界線をどれだけ踏み荒らされても拒みきれない、厄介なミューズへの確かな信頼が芽生え始めていた。


だが、女たちのファッショナブルで、あまりにも生々しい戦争に終着駅など存在しない。

失恋の泥沼さえも極上のクリエイションへと変換し、国境さえも軽々と飛び越えた狂犬とトップマネージャーの進撃。


次なるシーズン、表参道のオフィスを舞台に待ち受けるのは、さらなるメガヒットへの狂騒か、それとも過去の因縁を呼び覚ます新たな嵐か――。傷だらけのヒールで踊り続ける女たちのハイエンドな闘争は、ここからさらなる次元へと加速していく!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。