第10章 「シンガポール・カオス・ランウェイ」 第2話
巨大モール「ION Orchard」の大理石を叩くジミーチュウとミュウミュウのヒール音は、異国の地で交わされるハイエンドなファッショントークの宣戦布告だった。
伝統とモダンが交差する「Design Orchard」でプロの審美眼を研ぎ澄ますなか、事件は若者カルチャーが怪しく蠢く路地裏「Haji Lane」で勃発する。
午前0時前、シルクのルームウェアでくつろぐ祥子のスマホを震わせたのは、またしても男と意気投合したという麻里からの不穏な呼び出し音だった。
セリーヌのトレンチを直に羽織り、トムフォードのボルドーを閃かせて夜の街へ飛び出す祥子。
ネオンの闇の奥で待ち受けるのは、新たなトラブルか、それとも五感を揺るがすクリエイティブの狂宴か――!?
祥子の完璧に美しく整えられた「トムフォード」のボルドーの唇から、ようやくそれだけの言葉が漏れた。
「なんであんたがここにいるのよ!? 東京の戦場はどうしたの!?」
「えへへ、驚いた? だって、駒田さんの件、完全にフォローし終わったんだもーん! そしたら岩口常務がね、『高橋、よくやった。ご褒美にシンガポールへ飛んで、祥子の視察の手伝い(という名の荷物持ち)をしてこい』って、飛行機のチケット切ってくれたんですよぉ!」
麻里はまるで、表参道のオフィスで「ちょっと忘れ物したから、地下のプレスルームまで行ってきました」とでも言うような軽さで胸を張った。
(あの岩口の豚……! またこの小悪魔におねだりされて、鼻の下を伸ばして決済を回したのね……!)
何年も身を粉にしてキャリアウーマンをやってきて、ようやく勝ち取った数年ぶりの極上バカンス。そこに現れた史上最悪の居候。祥子は頭を抱え、深い、果てしない目眩に襲われた。
異国の地でこの野生児と派手なバトルを繰り広げても体力を消耗するだけだ。祥子はプロとしての理性を総動員して感情を殺し、麻里と共に空港からラグジュアリーな黒塗りのタクシーへと乗り込んだ。
向かったのは、マリーナエリアにそびえ立つ最高級ホテル。レセプションのカウンターで、祥子がスマートにチェックインの手続きを始めようとした時、フロントの女性スタッフが洗練された英語で微笑みかけてきた。
「祥子様、お部屋のご変更を承っております。当初ご予約いただいておりました、中層階のツインルームのシングルユース(1名利用)から、最高層階のプレジデンシャル・ツインルーム、お二人様でのご利用に変更されております」
祥子は、自分のビジネス英語のリスニング力が突如として崩壊したのかと思った。
「……エクスキューズ・ミー? 変更? 誰が?」
「はーい、私です!」横から麻里がパウダーピンクの「レディ ディオール」をカウンターにポンと置き、嬉しそうに割り込んできた。「祥子と同じ部屋で一週間お泊まりなんて、あの2年前の新人歓迎会の夜以来ですねっ! 楽しみ〜!」
「ちょっと、麻里……! あんた、会社の出張管理システムに不正アクセスでもしたの!?」
「人聞きが悪いなぁ! 常務にお願いして、差額は麻里の今季のインセンティブから引いといてくださいって、ちゃんと言いましたぁ!」
部屋に入ると、そこは全面ガラス張りの圧倒的なパノラマウィンドウから、シンガポール海峡の青い海が一望できる、文字通りのエグゼクティブ空間だった。しかし、祥子は全く落ち着かなかった。
「嬉しいな、祥子と一週間の外国旅行ねぇ! どこ行く?」
ベッドにダイブし、両足をバタバタさせている麻里。二人きりになった途端、完全に「上司」の肩書きをコンプライアンスごと大破させ、呼び捨ての友達トークにシフトしている。
「マリーナエリアのルーフトップバーでしょ、セントーサ島のビーチクラブでしょ、あ、それからエスニックタウンの可愛い雑貨屋さんも! ねぇ、どう回る?」
「……あのね、麻里。今日こそ上司と部下の、組織としてのケジメというものを――」
祥子がドスの利いた声で言いかけたその時、彼女のポケットの中でスマホが鳴り響いた。画面には『大津(主任)』の文字。
「はい、祥子です」
『あ、祥子マネージャー! 高橋は無事に着きましたか?』
「着いたわよ。今、私の目の前で会社のコンプラを木っ端微塵に破壊しながらベッドで跳ねてるわ。大津君、これは一体どういうこと?」
大津は受話器の向こうで、深くため息をついた。
『……実は、あれから大変だったんです。高橋のやつ、ミスした駒田を四六時中つきっきりで励まして、深夜まで一緒に資料を作っているうちに、あいつの母性本能か何かに火がついちゃったらしくて。完全に駒田に惚れちゃったんですよ』
「はあ!? 惚れた!?」祥子は思わずベッドの麻里を凝視した。麻里は窓の外の景色を見て、小さく口を尖らせている。
『ええ。それで、ミニスカの企画が完全に通った一昨日の夜、高橋が意を決して「麻里、駒田さんのこと好きになっちゃいましたぁ」って、オフィスのエントランスで告白したらしいんです。そしたら……』
「そしたら?」
『駒田のやつ、すっごく申し訳なさそうな顔して「ごめん高橋、俺、大学の時から付き合ってる彼女と、来月結婚するんだ」って。完全にフラれたんです』
祥子は絶句した。あの神宮の奥村に続き、まさかの二連続での失恋。しかも社内の準エース。
『仕事の調整に関しては、あいつは天才的なエゴイズムを発揮するんですけど、自分の恋愛となると驚くほどからっきしダメで。フラれた瞬間、オフィスの床に崩れ落ちて号泣して、業務が完全にストップしたんです。それを見かねた岩口常務が、「高橋、お前はもうここにいるな、シンガポールへ行って祥子の前で頭を冷やしてこい!」って……そういうわけなんです。マネージャー、どうか高橋のメンタルを、あの休暇中に立ち直らせてやってください……』
ツーツーと音が響くなか、祥子はゆっくりとスマホを耳から離した。
そういえば、ミスをやらかした駒田が、社内でもファンが多い端正な美男子だったことを失念していた。
(また失恋かよ……)
祥子は額を押さえたが、不思議と、怒りは湧いてこなかった。むしろ、深酒をして六本木の警察署に呼び出されたり、お気に入りのカフェにラグビー選手のような巨漢を拉致してくるよりは、こうして自分の目の届く範囲で大人しく落ち込んでくれている方が、よほど管理しやすい。
実務の書類仕事は壊滅的にできないし、公私の境界線は常にガタガタ、男を見る目も悲しいほどに無い。けれど、この女がひとたび動けば、死にかけていたプロジェクトが一瞬で息を吹き返し、停滞していたオフィスの空気がダイナマイトで爆破されたように活性化する。
午前0時のハジ・レーンで弾けたクリエイティブの狂宴。夜明けのストリートに刻まれる、新たなるモードの勲章。
怪しいネオンが蠢く路地裏で祥子を待ち受けていたのは、男絡みのトラブルではなく、伝統を獰猛に破壊するインディーズデザイナー・ルーカスとの熱いファッショントークだった。
英語で喋り倒す帰国子女の野生児に巻き込まれ、気づけばトレンチの袖を捲り上げてポートフォリオに鋭いアドバイスを飛ばしていた祥子。
手にしたのは、次期クルーズコレクションの強力な起爆剤となる、ヴィンテージ・タイシルクのリメイクジャケット。麻里に夜中に呼び出されるのは常に最悪の厄介事と決まっていたはずが、この夜だけは、二人の審美眼がシンガポールの夜空を鮮やかにハッキングしてみせた。
「友達として、最高級のハーブティー飲ませてくださいねっ!」
すべての境界線を笑顔で大破させていく小悪魔の腕の温もりを感じながら、祥子は深いボルドーの唇を綻ばせる。
神宮から海を越え、熱帯の太陽に照らされた女たちの生々しくもファッショナブルな戦争は、いよいよ世界を揺るがす新シーズンへと突入する――!




