第10章 「シンガポール・カオス・ランウェイ」第1話
熱帯の湿度に蒸される強行軍と、東京から届く規格外の勝鬨。
バンコクの縫製工場を這うように回るトップマネージャー・麻木祥子の元へ舞い込んだのは、あの成田で大博打を打った狂犬が巻き起こした、前代未聞の“大番狂わせ”の凶報――否、吉報だった。
砂漠のサボテンより冷酷な天才・和美をわずか一日で籠絡し、ブランドの命運を握る【秋色フェミニン・ミニスカート】の承認を力ずくで毟り取った高橋麻里。
人たらしのオーラでオフィスをハッキングし、不可能を可能に変えた小悪魔の快進撃に安堵する祥子だったが、生真面目なエース・大津の口から語られた「イケメン準エースへのマンツーマンのフォロー」という言葉に、美しきダイレクターの背筋が凍りつく。
組織のエアポケットで火がついた、新たな恋の暴走と特大のトラブルの予感。
極上のバカンスの地・シンガポールを目前に、熱帯の風をさらに妖しく、カオスに狂わせる新章の幕が上がる――!
東南アジアを巡る市場視察は、息をつく暇もない強行軍だった。タイの湿度に蒸されながら、バンコク郊外の提携縫製工場や染色加工場を這うように回る。現地マネージャーとのシビアなコスト折衝、仕上がりのクオリティチェック。分刻みのタスクをこなしながらも、祥子が数時間おきに日本の本社と暗号のような緊急連絡を繰り返していた理由は、ただ一つ。
あの成田空港で大博打を打ったトラブルメーカー、高橋麻里の動向だった。
視察の合間、車中やホテルで企画部の生真面目なエース・大津からかかってくる国際電話が、現地の唯一の情報源だった。
『……祥子マネージャー、驚かないで聞いてください。高橋、あれから本当に凄いんですよ』
受話器の向こうの大津の声は、疲弊しきってはいたが、どこか興奮を孕んでいた。
「凄いって……何をしたのよ。まさか和美のマルジェラのシャツを引きちぎるような暴挙に出たんじゃないでしょうね?」
『まさか。でも、ある意味それ以上です。あの偏屈な和美チーフの懐に朝一番で突っ込んでいって、新作カンプの“生々しいエゴイズム”の成功を盾に、一日で【秋色フェミニン・ミニスカート】の割り込み承認を力ずくで毟り取ってきたんです。どんな手を使ったのか、和美チーフも「あの狂犬に吠え立てられると脳のキャパが死ぬ」って、最後は笑いながらサインしてました』
祥子は額を押さえた。あの砂漠のサボテンより冷酷な和美を、たった一日で説き伏せる?
「……信じられない。それで、一番のボトルネックだった生産部や宣伝部との調整は?」
『それもバッチリです。入社2年目の新人がやる動きじゃないですよ。企画部の自分より何年も先輩のスタッフたちを、あの人たらしのオーラとウインクだけで完全に手懐けて、何日も徹夜の突貫作業に付き合わせての弾丸割り込み完了です。もう大丈夫です。企画は完全に軌道に乗りました』
「そう……。大津君、本当にお疲れ様。あなたにストッパーをお願いして正解だったわ」
祥子はホッと胸を撫で下ろした。だが、プロフェッショナルとしての安堵の直後、ある引っかかりが脳裏をよぎる。
「……ところで、あの致命的なミスをやらかした駒田君はどうなったの? 誰にでもミスはあるんだから、あまり自分を責めないようにって私から伝えておいて。彼はほら、我が社には数少ない真面目な男性スタッフだし……」
『ああ、駒田なら大丈夫ですよ。高橋が四六時中、マンツーマンでフォローに回ってますから』
「フォロー……?」
その言葉を聞いた瞬間、祥子の背筋にゾワリと嫌な予感が走った。駒田といえば、社内でも一、二を争う塩顔のスタイリッシュなイケメンである。
「ちょっと大津君、フォローって具体的にどういう――」
『あ、すみません、生産部から呼び出しが! では、シンガポールでのバカンス、楽しんでください!』
ツーツーと切れた通信の音。祥子の胸に、バンコクの熱気とは違う、嫌な汗がじわりと滲んだ。
タイでの過酷な任務を終え、祥子は旅の最終目的地であるシンガポールへと降り立った。ここからは完全なフリータイム。常務へと昇格した岩口からは「数年ぶりの大型休暇だ、これからのファッションのヒントを五感で貪欲に喰らってこい」と言われていた。言われずとも、感性とスピードが命のアパレル業界だ。極上のビーチとラグジュアリーなストリートで、すり減った審美眼を最高純度に磨き直す――そのはずだった。
チャンギ国際空港の絢爛豪華な入国ゲートをくぐり、冷房の効いた到着ロビーに出た、その瞬間。
「祥子!! こっちこっちーー!!」
熱帯の国特有の湿った空気を一瞬で跳ね返すような、鈴の鳴るような大音量の声。祥子は、危うく手にした「ロエベ」のパスポートケースを床に落として卒倒しそうになった。
目の前に立っていたのは、まばゆいシンガポールの朝光を100%味方につけて満面の笑顔で手を振る、高橋麻里だった。
今日の麻里は、常夏の島を意識した「ジャックムス」の鮮やかなカナリアイエローのクロップドキャミソールに、白のリネンワイドパンツ。足元は「プラダ」の厚底ラバーサンダルという、リゾートの主役を地で行く圧倒的なファッショニスタの佇まい。もちろん、耳元には大粒のバロックパールが、成田にいた時となに一つ変わらない生意気さで揺れている。
「嘘……でしょ……?」
異国の地で幕を開ける「シンガポール・ファッション・ウォーク」は、さらなるカオスの路地裏へと加速していく!




