第9章 「最悪のエアポート・ランウェイ」 第2話
成田の大理石を駆けるハイエンド・バトル! 狂犬がハッキングした常務の決済と、強制されたテイクオフ。
「祥子さんをバカンスに行かせてあげてください!」
絶望的なトラブルを前に会社へ引き返そうとする麻木祥子の手から、鮮やかにスマホを強奪した高橋麻里。
ブランドの命運を懸けた大火消しを前にして始まったのは、成田空港の出発ロビーを舞台にした、前代未聞の「美女二人の猛ダッシュ」だった。ロエベのトレンチコートを翻し、ジミーチュウで床を蹴る祥子と、7センチの厚底サンダルで驚異の逃走劇を見せる麻里。
ようやくスマホを奪い返した祥子だったが、受話器の向こうの岩口常務が下した決断は、あまりにも想定外のものだった。狂犬のエゴイズムにすべてを委ね、ゲートの向こうの熱帯へと強制的に押し出されるマネージャー。理不尽な等価交換の先で、祥子のプロとしての勘が、ある「確信」を捉え始める――。
祥子の目は、一瞬にして冷徹なトップマネージャーのそれに変わった。
「視察は明日から、大津を私の代わりにシンガポールへ飛ばせます。常務、デザイン部の和美と生産管理を緊急招集してください、私が一時間半で戻って――」
そこまで言いかけた時だった。
「ちょっと貸して!」
横から伸びてきたサクラピンクの袖が、祥子の手からスマホを鮮やかに奪い取った。麻里だ。
「ちょっと、麻里!? 何するのよ!」
麻里は「ミュウミュウ」のヒールを響かせながら後退りし、スマホを耳に当てて叫んだ。
「岩口常務!? 麻里です! あの、秋色のミニスカの件、私と大津さんで何とかします! だから、祥子さんを予定通りシンガポールのバカンスに行かせてあげてください!」
「あんた、狂ったの!? 返しなさい!」
成田空港の出発ロビー。ハイエンドなファッションに身を包んだ二人の美女が、大真面目な顔をして猛ダッシュを開始した。
「ロエベ」のトレンチコートの裾を翻し、ジミーチュウのスリッポンで床を蹴る祥子。対する麻里は、7センチのプラットフォームサンダルという極悪な足元でありながら、驚異的なバランス感覚で大理石の上を逃げ回る。すれ違う旅客たちが、何事かと目を丸くして二人を見つめていた。
「もしもし、岩口さん!? 祥子さんは最近働きすぎなんです! 毒の飲みすぎで顔色も悪いし、ここは若手の『生々しいエゴイズム』に任せてくださいっ!」
ついに祥子が麻里をパーテーションの隅に追い詰め、プロレスさながらの体勢でスマホを奪い返した。
「……はぁ、はぁ、すみません常務、取り乱しました! 今の戯言は忘れてください、すぐに――」
『いや……祥子君』
岩口の声は、なぜか先ほどとは違う、妙に腑に落ちたようなトーンに変わっていた。
『高橋君の言う通りかもしれない。彼女のあの、すべてのフローを力ずくで突破するエゴイズムと、大津の堅実さがあれば、和美や生産部をねじ伏せられるかもしれん。何より、これは常務命令だ。君は予定通り東南アジアを回り、シンガポールで英気を養ってこい。こっちの戦場は、あの狂犬たちに預ける。以上だ!』
ブツッ、と通話が切れた。
ツーツーという非情な電子音が響くなか、祥子は呆然と立ち尽くしていた。保安検査場のゲートからは、無情にも祥子の乗る便の最終搭乗アナウンスが流れ始めている。
目の前には、スマホを奪われたことなどケロリと忘れ、両手を合わせて「いってらっしゃーい!」と最高にピュアな、世界で一番無邪気な笑顔を浮かべている高橋麻里。
「……あんたねぇ」
祥子は「トムフォード」のボルドーの唇をギリ……と噛み締めた。理不尽極まりない。私はマネージャーで、あの子は部下のはずなのに、なぜ私は今、強制的に飛行機に押し込まれようとしているのか。
しかし、祥子のプロとしての勘が告げていた。あの小悪魔が、大津を顎で使い、偏屈な和美を籠絡し、生産部門に無理難題を突きつけて、あの「秋色ミニスカート」を泥臭く、しかし最高にファッショナブルに仕立て上げる姿が、鮮明に予感できたのだ。
「……待ってなさいよ、高橋麻里」
祥子はサングラスをかけ直し、極上のバカンスへと向かう男前の足取りで、保安検査場のゲートへと歩き出した。
「二ヶ月後、私が戻ってきた時……そのミニスカートの下に、また私の私物が紛れ込んでいたら、今度こそコンプライアンスの枠を超えて、あんたをクビにするからね!」
背後から響く「祥子さん、お土産はシンガポールの高級シルクがいいな〜!」という鈴の鳴るような声を、祥子は完全に無視した。
成田の滑走路を蹴って飛び立つ機内。女たちの、あまりにも生々しく、どこまでもファッショナブルな戦争は、国境さえも越えて、さらなる狂騒のシーズンへと突入しようとしていた。
「お土産は高級シルクがいいな〜!」。鈴の鳴るような声を背に、女たちの戦争は国境を越える。
自分が部下で、あの子が上司だったかしら――?
保安検査場のゲートへと歩きながら、理不尽極まりない現実に「トムフォード」のボルドーの唇をギリ……と噛み締める祥子。
だが、その胸中には、あの小悪魔が生真面目な大津を顎で使い、偏屈な和美を籠絡し、生産部門の分厚い壁を力ずくでこじ開けて、あの「秋色ミニスカート」を最高にファッショナブルに仕立て上げる姿が鮮明に予感されていた。これこそが、高橋麻里という致死量の毒が持つ、狂気的なまでの破壊力とクリエイションの真骨頂。
「二ヶ月後、戻ってきた時……そのミニスカートの下に、また私の私物が紛れ込んでいたら、今度こそクビにするからね!」
サングラスの奥で不敵な笑みを浮かべ、祥子はついに機上の人となる。
託された東京の戦場、そしてシンガポールで待ち受けるであろうさらなるカオスの予感。女たちの生々しくも華麗な戦争は、いよいよ熱帯のクルーズへと加速していく――!




