第9章 「最悪のエアポート・ランウェイ」 第1話
春の朝光に踊るサクラピンクの影。完璧なエアポート・ルックを切り裂く、不穏な鈴の音。
東南アジアの市場視察、そしてその後に待つシンガポールでの極上バカンス。
前年の大仕事の報酬として約束された「ご褒美」を胸に、麻木祥子はロエベのレザートレンチに身を包み、成田空港の出発ロビーへと降り立った。
すべては完璧、あとは飛び立つだけ――そう確信した刹那、大理石を叩く不自然なヒールの音が響き渡る。そこにいたのは、空港の見送りというシチュエーションを無視した主役級のフレンチカジュアルで満面の笑顔を浮かべる高橋麻里だった。
煙たがる大津を鮮やかに厄介払いし、再び祥子のパーソナルスペースへと侵入してくる小悪魔。しかし、その無邪気な「友達」トークに敗北感を煽られる祥子のポケットで、スマホが不吉な咆哮を上げ始める。それは、今季のメガヒット候補が窒息死しかけているという、岩口常務からの破滅的な凶報だった――。
翌年の春。表参道に吹き抜ける風が暖かさを帯びる頃、「beauté discrète」は前年の大ヒットの余韻を残しながらも、早くも次なるシーズンへと舵を切っていた。
高橋麻里は、あの失恋の悲劇すらも肥やしにして一段と打たれ強くなり、社内でも一目置かれる存在になっていた。とはいえ、マネージャーである祥子から見れば、その動きはまだまだ発展途上。
「あの子がどれだけヒットを飛ばそうが、私の掌の上で踊っているに過ぎないわ」
デスクでハーブティーをすすりながら、祥子は密かに己のプライドを保っていた。
そんな祥子に、思わぬ「ご褒美」がもたらされる。東南アジアの主要都市を巡る市場視察。そしてそのミッションが一区切りついた後は、シンガポールでの極上のバカンスが待っているのだ。前年のレセプションで麻里の失踪事件を完璧に揉み消し、プロジェクトを大成功に導いた祥子への、常務へと昇格した岩口からの「温情」であり、正当な報酬だった。
成田空港、第一ターミナル。国際線の出発ロビーは、旅情と喧騒が入り混じる独特の熱気に包まれていた。今日の祥子は、長時間のフライトを計算しながらも、トップマネージャーとしての威厳を1ミリも崩さない「完璧なエアポート・ルック」で身を包んでいる。
「ロエベ」のしなやかなサンドカラーのレザートレンチコートに、インナーは「セリーヌ」の極上の白Tシャツ。ボトムスは美脚ラインを描くスウェット風のニットパンツ。足元は、機内での快適さを考慮しつつも、メゾンの矜持を忘れない「ジミーチュウ」のビジュー付きスリッポンだ。もちろん、唇には「トムフォード」のボルドーが、凛とした光沢を放っている。
スマートに搭乗手続きを済ませ、保安検査場へと向かおうとした、その時だった。大理石の床に、カツ、カツ、カチャ……と、どこか不自然にハネるような、しかし聞き覚えのありすぎるヒールの音が響いた。
「祥子さーーん! いってらっしゃーーい!」
振り返った祥子は、思わず「ロエベ」のトートバッグを落としそうになった。春の朝光を浴びて、満面の笑みで手を振っているのは、高橋麻里だった。
今日の麻里は、「ミュウミュウ」のデニムミニスカートに、ざっくりとしたクロップド丈のサクラピンクのカーディガン。足元は白いソックスに、7センチヒールのパテントプラットフォームサンダル。相変わらず、空港への見送りというシチュエーションを完全に無視した、主役級のフレンチカジュアルだった。
「ちょっと、麻里!? なんであんたがここにいるのよ。今日、ブランドのMDに関する大事なミッションがあったはずでしょう!」
祥子はサングラスをずらし、鋭い視線を向けた。しかし麻里は、バロックパールのピアスを揺らしながら、悪びれもせずに胸を張る。
「大丈夫ですよぅ! 大津さんから『ここは俺に任せて、高橋は行ってこい!』って、熱く背中を押されましたから!」
大津。それは、麻里のあまりの暴走ぶりに手を焼いた祥子が、彼女の教育係(という名のストッパー)としてつけた、企画部の生真面目で手堅いエースである。
「本当に? あの大津君がそんな簡単にあなたをリリースするはずがないわ……」
「本当ですってば! 『高橋、お前がオフィスにいると周りの男子の血圧が上がって業務に支障が出るから、大人しく祥子マネージャーの見送りに行って、そのまま直帰しろ』って!」
(……それ、ただの厄介払いじゃないのよ)
祥子は喉まで出かかった頭痛を、短い溜息とともに飲み込んだ。本当に、この女は全人類を自分の都合のいいように解釈する天才だ。私は絶対に騙されない、と祥子は改めて心に誓う。
「だって、大事な友達が二ヶ月も海外に行っちゃうんですよ? 麻里が成田まで飛ばなくて、誰が見送るんですかぁ」
麻里は純粋そのものの瞳で、祥子の腕にすり寄ってきた。あの「ショーツ事件」と「泥酔復讐劇」の夜以来、麻里は事あるごとに祥子を「友達」と呼ぶ。公私のラインを厳格に引きたい祥子にとって、それを正面から否定しきれない空気を作られていること自体が、最高に不本意で、最高に敗北感を煽られる事実だった。
――その時、祥子のポケットの中で、スマホが文字通り激しく震えた。画面に表示されたのは『岩口常務』の名前。嫌な予感が、背筋を冷たく駆け抜ける。
「はい、祥子です」
『……祥子君か。非常に、非常にまずい事態になった』
スピーカーから漏れる岩口の声は、いつもの傲慢さを完全に失い、信じられないほど引き攣っていた。その一言で、祥子の頭の中のシンガポールの青い海が、一瞬でコンクリート色の現実に引き戻される。
『秋の最大商戦の目玉、君の肝いりだった【秋色フェミニン・ミニスカート】の企画だが……組織のエアポケットに落ちていた。企画部準エースの駒田の致命的なミスだ。縦割り組織の弊害が最悪の形で出た』
岩口の焦燥に満ちた説明を要約すると、事態は破滅的だった。駒田の連絡ミスにより、クリエイティブ・商品開発部門の最終GOサイン(承認)が未取得のまま放置されていた。つまり、ブランドの今季のシーズンコンセプトとの方向性の擦り合わせすら、クリエイティブディレクターやチーフデザイナーの和美との間で議論すらされていない。当然、その後に続くはずの「生産・調達部門」も、この企画の存在すら、話すら聞いていないというのだ。
発売まで数ヶ月。今からデザインを修正し、素材を調達し、ラインを確保する。それはアパレル業界において、不可能を意味するタイムスケジュールだった。社運を賭けたメガヒット候補が、書類の束の底で窒息死しかけている。
「……わかりました。すぐに、今すぐ会社に引き返します!」
青い海からコンクリート色の現実へ。タイムリミット寸前の成田で、最悪のスクランブルが幕を開ける。
組織のエアポケットに落ち、商品開発部門の承認すら未取得のまま放置されていた【秋色フェミニン・ミニスカート】。
発売まで数ヶ月、今からの軌道修正はアパレル業界において不可能を意味する絶望のタイムスケジュールだった。
「すぐに会社に引き返します!」
脳裏に広がっていたシンガポールの美しい景色を一瞬で消し去り、冷徹なトップマネージャーの仮面を被り直す祥子。だが、そんな彼女の緊迫感をあざ笑うかのように、サクラピンクの袖が遮二無二に伸びてくる。
スマホを奪い、岩口常務に向かって・・・




