第8章「孤独という名のホワイト・レディ」 第1話
悪魔を退けた夜の、密やかな聖域。完璧なトップマネージャーの鎧を脱ぎ捨て、一人の女へと立ち返る。
品川の喧騒を後にした麻木祥子が向かったのは、誰にも知られていない六本木のバー「The Cipher」。
そこは、小悪魔・麻里の牙も届かない、彼女が完全に一人の女になれる唯一の別天地だった。
カクテル「エル・ディアブロ」の妖艶な甘みと、すべてを察するマスター・ジョニーの優しい眼差しが、張り詰めていた祥子の身体を心地よく解きほぐしていく。
しかし、グラスの底へと沈み込む意識は、忘れたはずの「かつての記憶の澱」――信じていた人間からの裏切り、大人の男の盤上の駒に過ぎなかったと知ったあの激しい雨の夜、そして広尾の部屋の壁に掛けられたままの、泥のシミがついたワイドスラックスの呪縛へとフラッシュバックしていく。
孤独と自由、そして消えない過去の影。美しきダイレクターの魂の深淵に触れる、孤独という名の夜が幕を開ける――。
祥子はグラスをそっと置き、夜の街に沈まない深いボルドーの唇で、確信に満ちた不敵な笑みを浮かべた。六本木のバー「The Cipher」は祥子が完全に一人の女になれる場所。誰にも知られていない。あのレセプションパーティーが無事終わって祥子は一息つく。麻里がいない・・・という最大の喜びに浸れる別天地。
カウンターの奥から、体格の良い、けれど驚くほど優しい目をしたマスターのジョニーが、静かな声で微笑みかけた。祥子がこの店に通い詰めるようになって数年、彼は彼女の具体的な会社名や役職を知らない。だが、彼女の纏う空気の微細な変化だけで、その心境を完璧に察知してみせる男だった。
ジョニーは、手際よくロンググラスを準備し、美しい琥珀色と赤紫が混ざり合う液体を注いだ。
「『エル・ディアブロ(悪魔)』……悪魔を退けた勇敢な女性への、密やかな賛辞です」
差し出されたグラスを手に取り、一口含む。カシスの妖艶な甘みと、ジンジャーエールのはじけるような刺激的なキレ。喉を焼くテキーラの熱さが、張り詰めていた身体の芯を心地よく解きほぐしていく。
「悪魔、ね……。本当に、とんでもない悪魔に振り回されたわ」
自嘲気味に呟きながら、祥子は「トムフォード」のボルドーの唇をグラスの縁に滑らせた。頭に浮かぶのは、真っ赤なドレスを翻してレセプションの主役に返り咲いた麻里の姿。あの子は今頃、三浦や岩口たちをその天性の人たらしオーラで骨抜きにしていることだろう。
「だけどね、ジョニー。その悪魔を輝かせて、最後に笑うのが私の仕事なのよ」
「さすがですね。でも、少し張り詰めすぎだ」
ジョニーは優しく目を細め、静かにグラスを磨き始めた。カウンターに流れる気だるいジャズを聴きながら、祥子の意識は、カクテルの底へ沈み込んでいくように、かつての記憶の澱へとフラッシュバックしていった。
麻木祥子は、最初から今のような冷徹なマネジメントのプロだったわけではない。かつては、寝る間も惜しんでデザイン画を描き、自分の感性だけを信じて突き進む純粋な「創り手」だった。若くして才能を認められ、時代の寵児ともてはやされた時期もある。世界は自分のクリエイションを中心に回っていると、本気で信じていたのだ。
だが、栄光と挫折は常に表裏一体だった。信じていた人間からの予期せぬ裏切り。自分が実力でもぎ取ったと信じていたキャリアが、実はある大人の男の「盤上の駒」に過ぎなかったと知った、あの激しい雨の夜――。
プライドも、情熱も、すべてを引きちぎられた状態で走り抜けた青山のぬかるんだ路地裏。あの夜、裾に消えない泥のシミを作ったハイウエストのワイドスラックス。
それこそが、今も広尾の部屋の壁に掛けられたまま、彼女を無言で縛り続けている「呪縛」の正体だった。
あの日を境に、祥子は純粋なデザイナーとしてのペンを捨てた。誰かの庇護の元で踊らされる人形になるくらいなら、自らがこの冷酷なファッション業界のルールブックになってやる。「beauté discrète」に移籍し、泥を這うようにして数字を叩き上げ、今のダイレクターの地位を築いたのは、その執念だけが理由だった。
壁のスラックスを片付けられないのは、まだ、あの過去の結末に自分自身で納得がいっていないからなのかもしれない。
「……祥子さん。過去の影は、もう十分にあなたを強くしたはずですよ」
ジョニーの穏やかな声に、祥子はハッと我に返った。いつの間にか「エル・ディアブロ」のグラスは空になっていた。ジョニーは彼女の心の揺らぎを透視したかのように、次に流麗なカッティングのショートグラスを差し出した。
シェイカーから注がれたのは、淡く霞がかった、完璧に美しい乳白色の液体。
「『ホワイト・レディ』。――誰のものでもない、純粋な一人の女性へ」
ジン、コアントロー、そしてフレッシュレモンジュース。世界中で愛されるその傑作シティカクテルは、シャープで洗練された口当たりでありながら、どこか凛とした気品を崩さない。
「誰のものでもない、か……」
一口含むと、レモンの鮮烈な酸味とオレンジキュラソーの気品ある甘みが、祥子の口内に広がった。すべての肩書きや過去の因縁から解き放たれ、ただの「麻木祥子」という美しい個に立ち返らせてくれる、マスターからの無言の祝福。
「今まで、本当に頑張ってきましたね。今夜くらいは、その重い責任を下ろして、ご自身の完全な勝利に酔いしれてください」
「ありがとう、ジョニー。生き返るわ」
祥子は微笑んだ。過去の謎も、クローゼットの奥の傷も、まだ完全には癒えていない。けれど、あの泥を忘れないからこそ、今の隙のない自分がいる。そして今、目の前には、かつての自分のように危うく、けれど圧倒的なエネルギーで泥を跳ね飛ばしながら突き進む、高橋麻里という厄介な光がいるのだ。
(私のシルクショーツを穿いたまま、世界を揺るがすトレンドを作った小悪魔……)
麻里の無邪気な笑顔を思い出し、祥子はホワイト・レディを喉に流し込んだ。
今夜は私の勝ち。あの泥臭い失恋劇からあの子を引きずり出し、最高のランウェイを歩かせたのは、他でもないこの私だ。
すべての肩書きを洗い流す、純白の一杯。過去の泥を忘れないからこそ、今の隙のない私がいる。
ジョニーから差し出された、淡く霞がかった乳白色のカクテル「ホワイト・レディ」。
すべての重責から解き放たれ、ただの「麻木祥子」という美しい個へと立ち返らせてくれるその傑作は、孤独を愛し、泥を這うようにしてキャリアを築き上げてきた彼女への、無言の祝福だった。
かつての自分のように危うく、けれど圧倒的なエネルギーで泥を跳ね飛ばしながら突き進む高橋麻里。
自分のシルクショーツを穿いたまま世界を揺るがすトレンドを作ったあの小悪魔を、失恋の泥沼から引きずり出して最高のランウェイを歩かせたのは、他でもない自分なのだという確固たる勝利の余韻。
夜の街に沈まない深いボルドーの唇に不敵な笑みを浮かべ、祥子はホワイト・レディを喉に流し込む。
過去の謎もクローゼットの奥の傷も、まだ完全には癒えていない。けれど、この孤独で自由な夜がある限り、彼女の進むランウェイに恐れるものなど何一つないのだ――。




