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第7章「深紅のサロメ」 第2話

失恋のどん底に沈んだ怪物。完璧なトップマネージャーが仕掛ける、命懸けの“完全なる復活の復讐劇”――。


聖域「ロペ」の片隅で、プライドも美貌もぐしゃぐしゃにして号泣する高橋麻里。

牙を抜かれた小悪魔を前に、麻木祥子が下した決断は・・・


狙うは、品川のグランドボールルーム。冷え切ったレセプション会場の空気を一変させる、起死回生の一手。

涙のマスカラを拭い去り、失恋の悲劇さえも圧倒的なエネルギーへと変換したとき、少女の皮を被った怪物の「生々しいエゴイズム」が、真紅のベアトップドレスを纏って完全復活を遂げる。


ビジネスの特大の逆転勝利の裏で、女たちのファッショナブルで、あまりにも生々しい戦争は、さらなる美しき混沌へと加速していく――!


 まだ開店前の、重厚な漆塗りのドア。女の勘は、恐ろしいほど正確にその場所を示していた。暗がりのなかに佇むカフェ「ロペ」。祥子が足を踏み入れると、案の定、店の最奥のカウンターで、へべれけになった高橋麻里が、パウダーピンクの「ミュウミュウ」のブルゾンをぐしゃぐしゃにして号泣していた。


 マスターの大澤康太が、見たこともないほど困惑した顔で、そっとチェイサーの水を差し出している。


「いやあ、祥子さん……。どっかの店で相当煽ってきたみたいで。うちでは水しか飲ませてないんですがね。まあ、今日ばかりは放っておいてあげたほうがいいかもしれない。人間の涙の量にも、限界がありますから」


 大澤の優しい言葉を、祥子は冷徹に遮った。


「そんなわけにいかないのよ、今夜は、あの子の数千万円、数億円が動いたお祝いの席なの!」


 鬼と化した祥子は、ハイヒールの音を激しく響かせながら麻里に近づくと、その華奢な身体を両腕で無理やり抱き起こした。


「立ちなさい、麻里! 行くわよ!」

「いやぁあ! 祥子さぁん……! 陸くんが、陸くんがぁ……!」


 マスカラもアイラインも完全に崩壊し、タレントかモデルのような美貌が台無しになった麻里を、祥子は文字通り引きずるようにしてタクシーのシートへと押し込んだ。

 品川のホテルへ直行するのではない。祥子がタクシーを向かわせたのは、青山の自社オフィスだった。

無人のメイク室。祥子は急遽呼び出して待機させていたお抱えのヘアメイクアップアーティストの前に、

ボロボロの麻里を突き出した。

 

 「15分で仕上げて。ベースからやり直し。今夜のテーマは『完全なる復活の復讐劇』よ」


 鏡の前、冷たい水分を含んだコットンで顔を拭われながら、麻里は生気を失った瞳で、掠れた声を絞り出した。


「祥子……私、もう無理……。みんな私のこと、笑うに決まってる。プライベートも仕事も、全部めちゃくちゃ……」

「何言ってるの」


 パチン、と静まり返ったメイク室に、乾いた、しかし容赦のない音が響いた。

祥子の完璧にマニキュアが施された手が、麻里の白い頬を正確に捉えていた。麻里が驚愕して目を見開く。祥子はその顔を両手で固定し、至近距離で、そのボルドーの唇を彼女の耳元へと寄せた。

 「あのね、麻里。勘違いしないで。あんたは仕事も壊滅的にできないし、コンプラ意識もゼロの野生児よ。だけど、他人の私物ショーツを盗んでまで自分を輝かせる、あの圧倒的な『生々しいエゴイズム』はどこへ行ったのよ? 怖いもの知らずの高橋麻里が、男一人にフラれたくらいで逃げ出すなんて、私が許さない」


 祥子は、麻里の瞳の奥にある小さな火種をじっと見つめた。


「あんたはね、私の……、この『ボーテ・ディスクレット』の、一番厄介で、一番大事な、友達よ。こんなところで不細工に負けてんじゃないわよ」


 泣き腫らした麻里の瞳に、一瞬、あの計算高くて妖しい光がバチリと灯った。麻里は小さく、しかし確実に顔を上げた。


「……鬼。祥子さん、本当の鬼ですね……」


「最高の褒め言葉として受け取っておくわ。さあ、口紅を引きなさい」


「祥子が私のこと、初めて友達と言ってくれた」麻里の顔が笑顔に変わった。


 その言葉は祥子は聞かなかったことにした。


 品川のグランドボールルーム。会場の空気は、完全に冷え切っていた。和美と咲良という、根暗と職人気質を絵に描いたようなクリエイターコンビによる場繋ぎは、はっきり言って限界を迎えていた。百貨店の大物マネージャー・三浦は退屈そうにグラスを傾け、あくびを噛み殺している。岩口は苛立ちから何度も時計を確認していた。


 その時、会場の重厚なマホガニーのダブルドアが、内側から勢いよく押し開けられた。眩いばかりのフラッシュライトのなかに現れたのは――完璧なドレスアップを遂げた、高橋麻里だった。

 纏っているのは、まだプレスにも公開されていない、自社ブランドの次期クルーズコレクションの真っ赤なシルクサテンのベアトップドレス。失恋の痛手など微塵も感じさせない、むしろその悲劇をエネルギーに変換したかのような、圧倒的なオーラと瑞々しい艶っぽさ。マスカラは一点の滲みもなく、その瞳は、他人の視線を吸い寄せるブラックホールのように輝いていた。


「みなさ〜ん! 遅れてごめんなさぁい! ちょっと極秘の新作のフィッティングに手間取っちゃって!」


 鈴の鳴るような声が響き渡った瞬間、会場の空気が文字通り一変した。麻里は我が物顔でランウェイを歩くように三浦の元へと歩み寄り、一瞬で彼の懐に飛び込んで破顔させた。退屈していた重鎮たちが、彼女の一挙手一投足に魅了され、拍手と歓声が巻き起こる。これこそが、高橋麻里という女の真骨頂。どんな障壁も無効化する、生々しいまでのエゴイズムの勝利だった。


 会場の壁際、完璧に仕上がったその狂騒を見届けながら、祥子は「ジミーチュウ」のヒールをコツ、と床に鳴らした。隣に歩み寄ってきた和美が、黒縁眼鏡の奥の目を細めてニヤリと笑う。


「やるじゃない、祥子。あの狂犬を、よくあの短時間で仕込んできたわね」

「当然よ。私はマネージャーだもの」


 祥子はグラスのシャンパンを口に含みながら、ふと、ステージの上でスポットライトを浴びて笑う麻里の、ドレスの裾に目をやった。


 ――そういえば、あの急ごしらえのクルーズコレクションのドレスの下、あの子は今、一体どこのどんなショーツを穿いているのかしら。

 

 祥子は小さくため息をつき、それから、夜の街に沈まない深いボルドーの唇で、不敵な笑みを浮かべた。女たちのファッショナブルで、あまりにも生々しい戦争は、まだ始まったばかりなのだから。


真っ赤なシルクサテンが夜を焦がす。悲劇を最高のドレスコードに変えた、小悪魔の完全なる宣戦布告。


崩壊寸前だった品川のランウェイを、一瞬で自らの独壇場へと変えてみせた高橋麻里。

重鎮たちを骨抜きにするその圧倒的な輝きは、祥子が放ったビンタと、生まれて初めて口にした「友達」という呪文によって覚醒した、最凶のエゴイズムの証明だった。


危機を乗り越え、不敵な笑みを浮かべる祥子。だが、その視線はスポットライトを浴びる麻里のドレスの裾へと向けられる。

――「そのドレスの下、あんたは今、一体どこのどんなショーツを穿いているのかしら」


支払わせる利子は、ブランドの売上だけでは決して足りない。

傷だらけのヒールで踊る女たちの生々しい戦争は、孤独と自由を愛する六本木の隠れ家、そして祥子の秘められた「過去の呪縛」が眠る次章へと、さらに妖しく、深くハッキングを始めていく――!


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