第5章 「雨上がりのサロメ」 第2話
暴かれる深夜のトレンチコートの記憶――。
泥酔したフリの裏で、小悪魔の瞳はすべてを記録していた。
完璧なトップマネージャーとして、湧き上がる激昂を冷徹な仮面で押し殺す祥子。
しかし、麻里が提示した「新しいデザイン画」に刻まれていたのは、あの屈辱と緊迫に満ちた金曜深夜の、祥子自身の秘められた姿そのものだった。
上司のプライベートを貪欲なファッショニスタの感性でハッキングし、クリエイションの生贄へと昇華させる怪物の片鱗。
オフィスの西日とエアコンの風がいたずらに翻すセージグリーンの裾、その奥で妖しく光を放つイタリア製の純白――ついに、言い逃れのできない「決定的な証拠」が白日の下に晒される!
ビジネスの特大の勝利と、女としてのプライベートの完全なる敗北。
引き裂かれる理性の境界線上で、女たちの生々しくもファッショナブルな戦争が、今ふたたび加速する――。
「だから! あなたと私は友達じゃないの。私はあなたの『上司』。そこを勘違いしないでちょうだい」
祥子は声を潜めながらも、ドスの利いたトーンでしっかりと釘を刺した。しかし、麻里は理解できないと言いたげに、長い睫毛をパチパチさせてきょとんとした表情を浮かべた。その無垢なまでの鈍感さは、もはや一種の兵器だった。
「ま、それはいいとして。チーフから『ロペ』の話を聞き出せたんだから、今度麻里も連れていってくださいよ。あのかっこいいマスター、紹介してほしいな、ね?」
「……和美が、あなたにそんなことを教えるはずがないわ。あいつ、身内以外には砂漠のサボテンより冷酷なんだから。何か聞き間違いじゃないの?」
「え~? ちゃんと教えてくれましたよ? 『祥子がいつもボルドーの口紅をグラスにつけて、くだを巻いてる店だ』って」
祥子のこめかみに、激しい怒りと羞恥の青筋がピキリと浮かんだ。(あの裏切り者のデザイナーめ、今度マルジェラの変形シャツの襟元を限界まで締め上げてやる……!)心の中で血の誓いを立てながら、祥子は目の前の小悪魔を凝視した。
「……信じられない。あの和美をどうやって籠絡したのよ」
祥子が本気の戦慄を覚えながら呟くと、麻里は心底不思議そうに、世界で一番純粋なものを見るような目で祥子を見つめた。
「え? どうやってって……普通にお話ししただけですよ? 世の中に、仲良くなれない相手なんかいるんですか?」
その瞬間、祥子は目眩を覚えた。
(いる。目の前にいるわよ……! 私はあなたと仲良くするつもりは毛頭ない!)
しかし、麻里にとってはそれが「世界の真理」なのだ。どんなに壁を作ろうが、どんなにコンプライアンスの線を引こうが、彼女の圧倒的な人たらしのオーラと「生々しいエゴイズム」は、すべての障壁を無効化してしまう。あの偏屈な和美すら、麻里にとっては「ちょっと口の悪い、お洒落なお姉さん」程度に解釈され、一瞬で懐に飛び込まれてしまったのだ。
「……もういいわ、デスクに戻りなさい。これ以上は時間の無駄よ」
「はーい、じゃあ『ロペ』、楽しみにしてますね!」
麻里は満面の笑みを浮かべ、くるりと背を向けた。
その瞬間、フレンチリネンのセージグリーンの裾がふわりと翻る。
歩行の拍子に、バックオープンワンピースのサイドのスリットから、インナーの隙間がわずかに覗いた。
そこに見えたのは、彼女が好むファンシーなガーリーショーツではなかった。
――西日を浴びて妖しく光沢を放つ、極上の、オフホワイトのイタリア製シルク。
麻里は、今まさに、祥子のクローゼットから奪った「最高の一枚」をその滑らかな肌に纏い、表参道のオフィスを我が物顔で闊歩しているのだ。
(あの子……確信犯だわ。私が気づくのを、完全に楽しんでる……!)
これが、高橋麻里という女の真骨頂。
祥子は、デスクの下で「ジミーチュウ」の7センチヒールを無音で硬い床に押し付けながら、深く、果てしない頭痛に襲われるのを堪えるしかなかった。
しかし、この時の祥子はまだ知る由もなかった。
この麻里の「ロペに行きたい」というおねだりが、単なる口約束などではなく、数日後のあの憂鬱な雨の夜、乃木坂の地下で、球界の若きスターをも巻き込んだ「最悪で最高の狂騒劇」へと直結しているということを――。
翻るセージグリーンの裾、その奥で妖しく光を放つイタリア製の純白。
確信犯的な挑発を残して去っていく麻里の背中を睨みつけ、祥子は限界まで奥歯を噛み締めていた。
ビジネスでの勝利と、女としてのプライベートの完全なる敗北。この理不尽な等価交換を、プロフェッショナルとしての理性が辛うじて「大成功の予感」へと昇華させる。
――だが、戦争はまだ終わらない。
支払わせる利子は、ブランドの売上だけでは足りない。
女たちの執念が表参道の空気をヒリつかせるなか、舞台は6月の執拗な雨に濡れる、乃木坂の隠れ家「ロペ」へと引き継がれていく。そこは完璧に築かれたはずの祥子の聖域。まさか、あの小悪魔の牙が、すでにそこまで迫っているとも知らずに――。




