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第5章 「雨上がりのサロメ」 第1話

 束の間のオアシスを引き裂く、セージグリーンの突風。

狂犬・高橋麻里がデザイン部へ隔離され、ようやく訪れたトップダイレクター・麻木祥子の「透明な時間」。ジル・サンダーの深いネイビーに身を包み、完璧な理性の城壁を築いたはずの彼女の前に、初夏の陽光をすべて味方につけた小悪魔が再び現れる。

狙うは、女たちの秘められた聖域・乃木坂の「ロペ」。

氷の女・和美すら一瞬でハッキングした圧倒的な人たらしの毒が、オフィスに甘く危険な香りを引き連れて、いま再び祥子の領域へと侵入を始める――。


 梅雨の合間の、暴力的なまでの西日が表参道のガラスビルを焼き切ろうとしていた。夕暮れ時のオフィスは、初夏のビッグイベントに向けた熱気に支配されている。企画部マネージャーからダイレクターへと昇格した祥子のデスクには、分刻みのタスクがびっしりと書き込まれたスケジュール帳が開かれたままだ。

 だが、皮肉にもここ数日、彼女の精神衛生は極めて良好だった。和美の独断によって、あの問題児・高橋麻里が「秋村咲良×高橋麻里」の特設チームとしてデザイン部に事実上「隔離」されていたからだ。ガラスの向こうのアトリエで、咲良を振り回しながら何やらやっている麻里の姿を遠目に眺めるだけで済む時間は、祥子にとって砂漠で見つけた極上のオアシスだった。


「……よし、このノリシロならいけるわね」


 祥子は「カルティエ」のタンクの針に目を落とした。時刻は17時45分。ようやく自分の仕事に没頭できる、透明な時間が戻ってきた。今夜の彼女は、憂鬱な湿度をはねのけるような、極めてストイックな「構築的ミニマリズム」で身を包んでいる。

 纏っているのは、「ジル サンダー」のミッドナイトブルーのブラウス。シルク混のウール生地は、傾いた西日を受けて、まるで夜の海のように静かに艶めいていた。首元を完全に覆うストイックなハイネックと、計算されたアシンメトリーのカッティングが、内に秘めた疲れと苛立ちを冷徹に押し隠している。

 ボトムスは、自社ブランドのピンストライプ柄テーパードパンツ。硬質なセンタープレスが彼女のダイレクターとしての意地を示すように美しい直線を結び、足元では「ジミーチュウ」のピンヒールがピンと張り詰めた緊張感を保っていた。

 カツ、カツ、とキーボードを叩く規則正しい音だけが、彼女の領域を満たしていく。

――しかし、その静寂は、あまりにも唐突に、鈴の鳴るような甘い声によって破られた。


「祥子、ちょっと時間いい?」


 祥子はキーボードを叩く指をピタリと止めた。

ゆっくりと顔を上げると、そこには案の定、夏の光をすべて味方につけたような満面の笑顔で立つ麻里の姿があった。アパレル会社の社員というより、今すぐファッション誌の表紙を飾れそうな圧倒的なルックス。


 今日の麻里は、フレンチリネンで作られたセージグリーンのバックオープンワンピースを纏っていた。振り返れば、大きく開いた彼女の白い背中には、極細のスパゲッティストラップが危うげに交差しているのが見える。手元には「セリーヌ」のラフィア素材のカゴバッグ、足元は「クロエ」のウェッジソールサンダル。オフィスワークという概念を完全に無視した、地中海のリゾート感溢れる「計算された無防備さ」だった。


(この女……私が自分をどれほど警戒しているか、本気で気づいていないの?)


 祥子は喉まで出かかったため息を飲み込み、一瞬で「冷徹なプロフェッショナル」の仮面を装着した。


「ええ、何かしら。デザイン部の方の進捗はどう?」


 麻里はいたずらっぽく目を細めると、大粒のコンクパールが揺れる耳元を寄せ、フロアの部員たちが一心不乱に仕事をしているのを確認するように振り返った。そして、パーテーションの影に滑り込むようにして、驚くほど至近距離まで距離を詰めてきた。カルダモンとは違う、甘いバニラとジャスミンの香りが祥子の鼻腔をくすぐる。


「デザインじゃなくて、プライベートのお願いなんです。ねえ祥子、たまには麻里を誘ってよ。乃木坂のカフェのこと、チーフから聞いちゃいました」


 確信犯的な笑みを浮かべ、麻里は事もなげに言った。


「――っ!?」


 祥子は思わず背筋を正した。あの気難しい、社内一「氷の女」と恐れられる同期の顔が脳裏をよぎる。


「あら……あそこのチーフは、仕事とプライベートの境界線にうるさいことで有名よ。身内以外の人間には、お気に入りの店はおろか、私生活の話なんて一切しないはずだけど」


「知ってます。和美チーフ、同期の祥子とくらいしか、まともに外で飲まないんですよね?」


「あの――ちょっと待ちなさい。二人きりとはいえ、オフィスよ。呼び捨てにしないで。周りに友達か何かだと勘違いされたら困るわ」

 祥子は鋭い視線をフロアへと走らせた。スタッフたちは一見、パソコンに向かってトランス状態のように作業しているが、ここは女の城だ。壁に耳あり、パーテーションに目あり、である。


「だってみんなに知られても、麻里は全然いいですよ?」


 麻里はふんわりと小首を傾げ、パールのピアスを揺らした。その瞳には、自分の発言がどれほど組織のヒエラルキーを無視しているかという自覚が、1ミリも見当たらなかった。


利子をつけて返してもらうはずの純白は、あまりにも妖しく翻る。

スリットの奥で不敵に光る、イタリア製シルクショーツの確信犯的な残像。ビジネスの勝利と引き換えに、プライベートの最深部をハッキングされ続ける祥子の脳裏に、さらなる頭痛と大嵐の予感が去来する。

「ロペに行きたい」という麻里の無邪気なおねだりは、単なる気まぐれか、それとも次なる破滅への招待状か。舞台は、6月の執拗な雨に濡れる乃木坂の地下へ。球界の若きスターをも巻き込む、一夜の「最悪で最高の狂騒劇」へのカウントダウンが、いま静かに始まった――。


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