50 竜宮城
EEC16で、竜宮に行くのに、亀に乗る必要は無い。
配信後最初のイベントで、竜宮のゲートは解放済みだ。旅人は、ゲートを使い、NPCは、魚人族でなければ、転送陣を使う。
けれど、もう一つ方法がある。
今、クレハたちが乗っている船は、竜宮のオトヒメからの好意で提供されたもので、何と、とぷん、と水中に沈むと、そのまま、海中を進み始めた。
勿論、甲板にいるのは魚人族だけで、クレハやバーン、陸上で暮らす種族は皆、船室に籠っている。さすが、ゲームの世界、と言うべきか、水が侵入してくる事もなく、呼吸が苦しくなる事もない。
そう言えば、とクレハは今になって思い出す。
竜宮でオトヒメとお茶する時も、特に意識したことは無かったが、地上と同じ様に過ごしていた。
船は、竜宮城の前庭に錨を下ろした。
待っていたエイが曳く御所車が、船室との間のドアの真横に付けられる。
クレハとバーンが乗り込み、魚人族の竜宮使がバトラーとアンを乗せると、エイはヒレを優雅に羽ばたかせて、ふわりと浮き上がり、竜宮城の入り口を潜りぬけた。
初めて、これを見た時のクレハの感想は、『これで何故、水が入って来ない?』だったが、この御所車は、転送陣を使わない訪問者を迎える方法の中でも最上級のもてなしだ。
御所車は、竜宮内をふわりふわりと進み、奥殿の前で停まった。
「いらっしゃい、クレハ」
巨大な両開きの扉の前に、この竜宮の主オトヒメが立っていた。その両肩から、クレハが以前に贈ったデザートモス・エリサンのキヌで織り、ル・ルーがエンチャントした領巾がゆらゆらと揺れている。
「ヒメ様」
思わず飛び出したクレハにギョッとして伸ばしたバーンの手は、一瞬でずぶ濡れになり、水圧に押し負けた。叩きつけられる勢いで体全体も前のめりになる。
「あらあらまあまあ」
腕の中に飛び込んで来たクレハに目を丸くしたオトヒメだが、別の意味でバーンも目を丸くした。
『なんで普通に動いてるんだ。おまけに濡れてねぇ』
ぐっしょりと濡れ、ジンジンと痛む腕を見つめて、バーンはつぶやいた。ここは海の底、普通に地上に暮らす生き物では、息も出来ないし、まず、水圧に耐えられない筈だ。
同行していた竜宮使たちがバトラーとアンを一人一人を抱え、呆然とするバーンにも手を伸ばす。彼はかなり抵抗したが、結局担がれるようにして、御所車から引き出された。思い切り息を吸い込む。
竜宮使の持つ三叉の槍・トライデントが淡い光を放ち、そのまま、オトヒメの前に連れていかれた。
「はい、許します」
オトヒメの太い指が、バーンの額をぐりぐりと押す。
「いて、いてて」
思わず声が出て、バーンは慌てて口を押さえた。溜めていた空気がこぽりと逃げて行く。
けれど、不思議な事に息苦しくは無かった。
「ヒメ様〜、アンちゃんが〜、バトラーが〜」
「はいはい。星王様から聞いてるわ。大変だったわね。大丈夫よ。多分」
「多分、ってぇ〜」
「まあまあ、こんな所で立ち話をしている時間が勿体無いわ。王はいらしているのよ。ほらほら、泣いていないで、しっかりなさい。二人の未来は貴女にかかっているのだから。王をちゃんと説得しないといけないのでしょう?」
「うう、うん」
グスグスと泣くクレハにも驚いたが、
「おっかさん?」
それを慰めるオトヒメにも、バーンは驚いていた。
オトヒメは、波打つ珊瑚色の巻き毛に真珠の肌、深海の青の瞳の絶世の美女。
なのだが、
なのだが。他国の一介の傭兵ギルド長が、気軽に会える人物ではないのだが、
オトヒメ様は、母なる海の女王に相応しい、文字通り、語源的意味で、懐が深い女性だった。
バーンが思わず、長い間、夢幻傭兵団の食堂を仕切っていた恰幅の良いおばちゃんを思い出してしまう程に。
「俺の理想が・・・」
繊細で嫋やかな人魚姫のイメージがガラガラと音を立てて崩れる。
「どうかしまして?」
その瞬間、しっかり視線を合わせてきたオトヒメにバーンは戦慄し、慌てて思考を切り替える。
「あ、いえ、お初にお目にかかります。シデリアン国で傭兵ギルド長を勤めておりますバーンと申します。ところで、先程の額の、あれは一体?」
「鱗を付けてあげたのよ。ちょっとやそっとじゃ外れないように、少ーし、強めに押し付けたけれど。その鱗がついている間は、海の中でも地上と同じ様に動き事が出来ますよ。でも、獣人化したら、外れてしまうかもしれないから、気をつけてね」
「はい?」
間の抜けた返事になってしまい、慌てて開きかけた口を閉じる。
「それは・・・、ありがとう存じます。しかし、ノースヴィラ女男爵は?」
うっすらと口元に微笑みを浮かべるだけで、オトヒメはクレハを促して、奥殿内部に進んだ。
「先ずは、着替えてらっしゃいな。ここはもう安全だから、武装の必要は無いでしょ。その間に、バトラーとアンを王に近づける事はしないから」
「でも・・・、はい」
よしよしと頭を撫でられて、クレハは、急に恥ずかしくなった。
いい年をして何をしているのだ。久しぶりに人前で泣いてしまった。
オトヒメは、万年を生きると言う霊亀族の魚人だ。
母なる海を体現する容姿は包容力に溢れ、神代の時代から蓄積された知識を持ちながら、決して驕らず穏やかな人柄、それでいて茶目っけもある。けれど、嵐や津波を引き起こし、大陸をも沈ませることができる力も有していた。
そんなオトヒメだが、クレハにとっては祖母の様な存在だった。
掛け値なしに、甘えて良い存在。
海の支配者、万年を生きる霊亀族にとって失礼かもしれないが、初対面の時から、オトヒメはクレハに甘かった。
クレハ、いや、この場合は紅葉か。紅葉にとって、祖母とは、絶対的な紅葉の味方だった。母親は、決して毒親では無かったが、我の強い人で、自分の思うように娘を育てた。それは、愛情故だったのかもしれないが、”あなたが心配だから”とか、”あなたの為を思って言ってるの”と言われると、子供の頃、いや、成人してからも紅葉には、母親に逆らう事に、後ろめたい気持ちが常に付き纏っていた。
その母親も、亡くなって随分経つ。
そんな幼い頃の紅葉にとって、祖母は知らぬ間に、自分を守るための逃げ場になってくれていたのだろう。
決して、母親を否定はしない。けれど、紅葉の事も否定しなかった。
ただ、抱きしめて、頭を撫でて、どんな拙い、辻褄の合わない話でも辛抱強く聞いてくれる人だった。
恐らく、祖母がいたから、紅葉は、母親の指し示す方向に人生を進みながらも、ふとしたきっかけを掴んで、巣立つことが出来たのだろうと思う。
竜宮のオトヒメには、そんな祖母を思わせる何かがあった。
「はああ〜」
深く、深くため息をついて、クレハは、武装を解いた。
額当てを外すと、額の中央に隠れていた模様が現れる。
水中でのみ、目に見えるように浮かび上がる、オトヒメの守護が込められた花菱亀甲、二重の六角形の中に紅葉の葉がデザインされている。それは、初めて竜宮を訪れた際に、オトヒメに施してもらったものだ。バトラーとアンの額には、普通の亀甲紋が描かれている。バーンに与えられた鱗が、その時限りのアイテムなのに対し、クレハたちのそれは、半永久的に消えることはない。それは、竜宮における特別待遇を意味する。
因みに、初回のGWイベントで、海底監獄の脱獄騒動で、竜宮を訪れた旅人たちには、水の中でも活動できる様に魔法の飴が配布されていた。当然、現地人であるクレハやバーンにとって、魔力で作られたその飴はあまり体に良い物ではない。
プレーヤーである旅人と異なり、インベントリを持たないクレハは、ゴソゴソと自分に与えられた一室で、一旦、ログアウトし、再度ログインする。
便利なことに、クレハの泣いた顔はすっきりとしており、くたびれていた衣装も綺麗に整っている。
「はあ、こう言う所、本当に便利」
よし、と気合を入れて、扉を開けると、外にはオトヒメの侍女が控えていて、クレハはすぐに彼女の元に案内された。
「おせーよ」
そして、当然、傲岸不遜な星王が、その場にはいて、部屋の隅に大きな体を縮めるように、バーンが座っていた。




