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第3話 死地への行軍

 旅立ちの日というものは、もう少し華やかなものだと思っていた。


 少なくとも、荷馬車の車輪が軋む音と、寝不足の男たちの不機嫌そうな顔に囲まれて始まるものではない。


 アルトは、そんなことを考えながら荷台の脇に立っていた。


 目の前には、食料の箱が三つ。水樽が四つ。予備の武具に、天幕、調理道具、その他もろもろ。


 そして、それらを眺めている自分。


 ……うん。帰りたい。


 まだ出発してもいないのに、すでに帰りたかった。

 灰塵の谷。


 数年前、アルトが初めて目を覚ました場所であり、今もなお彼の記憶に残り続けている場所だった。


 もっとも、今の彼にとって重要なのは、過去の感傷に浸ることではない。


 報酬をもらうこと。


 契約に従って働くこと。


 そして、できるだけ無事に帰ること。


 以上。


 余計なことはしない。それが彼の人生方針だった。


「アルト。いつまで荷物を眺めている」


 声をかけてきたのは、武闘家のガロムだった。


「確認しているんです」


「何を?」


「この荷物を、どうやって運ぶつもりなのかを」


「馬車で運ぶに決まってるだろ」


「ええ。そうですね。私もそう思います」


 アルトは笑顔でうなずいた。


 ガロムは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに興味を失ったらしい。肩に担いだ武器を直し、仲間のところへ戻っていった。


 アルトはその背中を見送ってから、もう一度荷台に目を向ける。


 水樽の位置が偏っている。食料箱は取り出しにくい場所に積まれ、天幕の留め具も緩い。


 これでは、途中で荷物を取り出すたびに積み直す羽目になる。


 旅慣れていない者がやりがちな失敗だった。


 もっとも、目の前にいる三人は、旅慣れていないわけではない。


 ただ、荷物を管理する必要がなかったのだろう。


 勇者ファニルは前方で地図を確認している。ガロムは武具の手入れに余念がない。賢者アースはというと、出発前だというのに目を閉じていた。


 おそらく、全員が自分の役目を果たしているつもりなのだ。


 だからこそ、誰も荷物のことを気にしていない。


「ファニル様。ひとつ、提案がございます」


「何?」


 呼びかけに、ファニルが顔を上げた。


「荷物の配置を少し変えたほうがよろしいかと。水樽を車軸に近づけ、食料箱を取り出しやすい位置へ。天幕の固定もやり直したいのですが」


「出発前に?」


「はい。今なら数分で済みます」


「その数分で何が変わるの?」


 アルトは言葉に詰まった。


 変わることはいくらでもある。


 荷崩れを防げる。荷物の出し入れが早くなる。馬への負担も減る。道が悪くなったとき、積み直す手間も省ける。


 だが、それを一つずつ説明している時間があるかといえば、微妙だった。


「……道中の負担が減ります」


「それなら、問題が起きてから考えればいいわ」


 ファニルは地図に視線を戻した。


「あなたを雇ったのは、荷物を眺めてもらうためではないの。必要なときに、必要な仕事をしてちょうだい」


「承知しました」


 アルトは頭を下げた。


 言い返すことはできた。


 けれど、彼女の言葉にも一理ある。出発前の準備をすべてやり直せば、確かに時間はかかる。


 問題は、その時間を惜しんだ結果、何が起こるかだ。


 ……まあ、いい。


 契約上、彼の仕事は一行の管理と補助だ。命令に逆らってまで荷物を積み直すことではない。


 アルトは水樽の留め具だけを確認し、残りはそのままにした。


 この判断が、あとになって少しばかり悔やまれることになる。


     *


 昼を過ぎた頃、一行は街道を外れ、谷へ向かう山道に入っていた。


 道幅は狭く、ところどころに崩れた岩が転がっている。


「この先を抜ければ、予定より早く谷へ着ける」


 先頭を歩くファニルが言った。


「ただし、足場が悪い。馬車は慎重に進めろ」


「承知しました」


 御者が手綱を握り直す。


 アルトは馬車の後方を歩きながら、道の様子を観察していた。


 嫌な道だ。


 傾斜があるうえ、雨水が流れた跡が残っている。地面の表面は乾いていても、その下が緩んでいる可能性があった。


 さらに悪いことに、道は谷側へわずかに傾いている。


「恐れながら、もう少し速度を落としたほうがよろしいかと」


「またか?」


 ガロムが振り返った。


「今度は何だ。石でも転がっているのか?」


「石なら、まだ対処できます」


「じゃあ何が問題なんだよ」


「地面です」


「……地面?」


 ガロムは足元を見た。


 アルトも見た。


 当然ながら、地面は地面だった。


 説明が足りない。


 自分でもそう思う。


「荷台の重量が片側に寄っています。このまま傾斜を進めば、車輪に負担がかかるかと」


「ここまで問題なく来たじゃないか」


「ええ。今までは」


「アルト」


 ファニルの声が飛んできた。


「危険があるというなら、根拠を示して。何となく不安だという話なら、今は聞いていられないわ」


 アルトは口を閉じた。


 根拠はある。


 けれど、彼女たちが納得するだけの説明を、すぐに組み立てられなかった。


 そもそも、なぜ自分が説明に失敗しただけで、馬車がそのまま進んでいくのだろう。


 いや、違う。


 相手に伝わらなかったのなら、伝え方にも責任がある。


 かつての自分なら、そう考えた。


 今の自分も、そう考えるべきなのだろう。


「……申し訳ありません。先ほどの警告は撤回いたしませんが、説明が不十分でした」


「そう」


 ファニルはそれだけ答えた。


 馬車は進み続けた。


 そして、その数分後。


 鈍い音がした。


 車輪が岩に乗り上げたのだ。


 馬車が大きく傾き、荷台の上で木箱が滑った。御者が慌てて手綱を引き、馬がいななく。


「止めろ!」


 ガロムの声が響いた。


 遅かった。


 片側に寄っていた水樽が、固定具ごとずれた。


 荷台の縁にぶつかり、一本が転がり落ちる。


 斜面を跳ね、岩に当たり、蓋が外れた。


 水が流れ出していく。


 アルトは思わず手を伸ばしたが、届くはずもなかった。


 水樽はそのまま岩陰へ消えていった。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


「……一本、失ったか」


 アースが目を開け、静かに言った。


「残りは三本です。予定の行程なら、帰路まで持たせるには節約が必要になります」


 アルトは荷台を見た。


 ずれた木箱。緩んだ固定具。片側へ寄った荷物。


 予想していたことが起きただけだ。


 なのに、胸の奥が妙に重かった。


「すみません」


 口から出たのは、それだった。


 ファニルが彼を見る。


「あなたが謝ることではないわ。積み荷を決めたのは私たちよ」


「ですが、私は事前に気づいていました」


「それでも、私たちを止められなかった」


 厳しい言葉だった。


 けれど、間違ってはいなかった。


 アルトはうつむいた。


 前世では、部下の報告を聞き逃したことなどほとんどなかった。情報が足りなければ問い直し、危険があれば理由を確かめた。


 だが、今は違う。


 自分の言葉を聞くかどうかは、相手が決める。


 正しいことを知っているだけでは、何も変えられない。


「……以後は、具体的な危険と、その対策をまとめて報告します」


 ファニルはすぐには答えなかった。


「そうしてちょうだい」


 それだけだった。


 信頼が生まれたわけではない。


 少なくとも、アルトにはそう思えた。


     *


 荷物を積み直す作業は、予想以上に時間がかかった。


 水樽を車軸に近づけ、食料箱を左右に分ける。固定具を締め直し、残った水をどう配分するか決める。


 アルトは作業を指示したが、何もかもを一人でできるわけではなかった。


 重い箱を持ち上げようとして、腰に嫌な痛みが走った。


「おい、無理するな」


 ガロムが箱を取り上げた。


「その身体で持ち上げるな。箱ごと潰れるぞ」


「箱は無事でしょうが、私の尊厳が潰れますね」


「まだそんな口が利けるなら大丈夫だな」


 ガロムは笑った。


 アルトも、つられて少しだけ笑った。


 こういうところは、嫌いではない。


 ただし、重い荷物を持ってくれることと、彼の意見を聞いてくれることは別らしい。


 その後、彼らは予定より遅れて山道を進んだ。


 途中、アースが何度か道端の石を調べたが、特に何も言わなかった。


 やがて、谷の入口が見えた。


 灰色の岩肌。風に舞う細かな砂塵。遠くに広がる、かつての戦場。


 アルトの足が止まった。


 覚えている。


 正確には、景色のすべてを覚えているわけではない。


 あの日は泥にまみれ、血と土の匂いがして、まともに周囲を見る余裕などなかった。


 それでも、谷へ吹き込む風の向きだけは、妙に記憶に残っていた。


 ここで、自分は死んだ。


 いや、死んだのはアルトという青年で、今ここにいるのは、その身体を借りたサマエルだ。


 そう考えることにも、最近は慣れてしまった。


「どうしたの?」


 ファニルが尋ねた。


「いえ。少し、風が気になりまして」


「風?」


「谷の奥から吹いています。砂塵がこちらへ流れてくるので、野営地は少し離したほうがよろしいかと」


 ファニルは谷を見た。


「理由は?」


「風下に砂がたまりやすく、夜間に視界が悪くなる可能性があります。それに、谷の入口は風が集中します。火を使う場所としても適していません」


 今度は、具体的に説明した。


 ファニルは少し考え、アースへ視線を向けた。


「賢者様はどう思われますか?」


「悪くない判断じゃな。少なくとも、あの入口で一晩過ごす理由はない」


「分かりました。少し離れた場所に陣を張りましょう」


 アルトは内心で息を吐いた。


 伝わった。


 それだけのことなのに、肩の力が抜けた。


 もっとも、褒められたわけではない。


 当たり前のことを、当たり前に判断しただけだ。


 ……それでいい。


 そう思っていたときだった。


 風に乗って、小さな音が聞こえた。


 硬いものが、岩に触れるような音。


 アルトは谷の斜面へ目を向けた。


 岩肌の一部が、不自然に黒ずんでいる。


 周囲の石とは違う。表面が滑らかで、光を受けても鈍く沈んで見えた。


 近づいて、指先で触れる。


 冷たい。


 だが、石の表面は妙に平らだった。


 自然に削られたものではない。


「何か見つけたのか?」


 ガロムが背後から尋ねた。


「いえ。まだ、何とも」


 アルトは立ち上がった。


 その黒い跡を、どこかで見たことがある気がした。


 胸に空いた、あの傷。


 遠くから放たれた、高熱の魔術。


 記憶の中で、二つの形が重なりかける。


 しかし、確証はなかった。


 ここは戦場だ。魔術の痕跡など、いくらでも残っている。


 たまたま似ているだけかもしれない。


 それでも。


 アルトは、もう一度だけ黒い岩を振り返った。


 ここへ戻ってくることになるとは思っていなかった。


 まして、自分を殺した何者かの手掛かりを探すために。


「アルト、行くわよ」


「はい。ただいま」


 扇を腰の位置で押さえ、彼は仲間のあとを追った。


 扇の骨が、歩くたびに衣服の内側で小さく鳴る。


 報酬として受け取った、魔力を増幅するだけの奇妙な道具。


 普通の冒険者なら、わざわざ選ばない代物だ。


 だが、今のアルトには必要だった。


 力がない。


 魔力も少ない。


 だからこそ、使えるものは使う。


 ただ、それだけだ。


 谷の風が吹き抜ける。


 アルトは顔を上げた。


 まずは仕事をする。


 それから、生きて帰る。


 真相を探るのは、そのあとでも遅くはない。


 少なくとも、今の彼はそう信じることにした。

 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


 第3話は、アルトが勇者一行に加わって初めての遠征でした。


 せっかく知識があっても、相手に伝わらなければ意味がない。今回は、そんなアルトの弱点が少し見えた回になったと思います。


 本人としては、危険を予測した時点で仕事をしたつもりだったのかもしれません。でも、仲間からすれば、理由も対策も十分に分からない忠告です。


 アルトも、まだこの一行のことをよく知りません。


 ファニルたちも、彼を信頼する理由を持っていません。


 だから、これから少しずつ、お互いを知っていくことになるのでしょう。


 そして、灰塵の谷。


 アルトがこの場所で何を見つけるのか。そもそも、彼を襲ったのは誰だったのか。


 まだ答えは出ません。


 焦らず、ひとつずつ追いかけていこうと思います。


 次回も、どうぞよろしくお願いします。

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