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第1話:『灰塵(かいじん)に這う影、あるいは再生の典礼』

かつて神聖なる王の影として生き、最高峰の執事でありながら騎士団長としても戦乱を調停した伝説の男、サマエル。平和な世界での穏やかな大往生を遂げたはずの彼は、天の悪戯か、再び血臭逆巻く戦乱の世へと引き摺り下ろされた。目覚めた肉体は、魔力も筋力も平均以下の脆弱な少年、アルト。しかも彼は、目覚める直前に「何者かによる神速の魔術」で暗殺されていた——。最強の剣技も神聖刀も失った男が、生き残るためにプライドを捨て、底辺の雑用から格式高い所作と実務能力を再構築する。これは、戦いを嫌う元最強執事が、生きていくためのお金(約定報酬)と己の存在理由を求め、公認勇者パーティの裏方として世界を旅していく泥臭くも華麗なる戦記。

 昏(くら)き硝煙の臭いに、俺は意識の覚醒を迎えた。


「——……、……ッ!」


 喉を裂くような乾いた呼吸とともに、視界に飛び込んできたのは、赤黒く染まった泥土と、無数に転がる兵卒の骸(むくろ)であった。耳朶(じだ)を激しく打つのは、遠くで響く鉄と鉄の交錯音、そして生を断たれる者が上げる、獣じみた断末魔の数々。


 地獄。


 その二文字以外で形容しようのない、凄惨な戦場がそこにあった。引き千切られた軍旗が泥に塗れ、鉄錆と内臓の臭気が、肺腑(はいふ)を容赦なく掻き回す。上空を見上げれば、放たれた大魔術の名残か、引き裂かれた雲の隙間から、血のように赤い夕刻の光が不気味に地上を照らし出していた。


(またしても……この忌々しい血臭の地か…)


 俺は心の中で、声なき深いため息をついた。

 前世——サマエルと呼ばれていた頃。俺は王直属の最高峰の執事として、あるいは騎士団長として、主君の影に徹し、数多の戦乱を調停してきた。冷徹に戦況を支配し、国家の裏方として兵站(へいたん)を支え、時には自ら刃を振るって敵を討つ。そうしてようやく勝ち得た平和な世界で、私はただ静謐(せいひつ)な大往生のみを請い願い、事実、安らかな眠りについたはずだった。


 天の悪戯(いじわる)にしては、あまりに残酷(ざんこく)が過ぎる。なぜまた、このような戦の只中に引き戻されねばならないのか。


「くそ、身体が……動かねぇ……」


 己の四肢を動かそうとして、私は内なる戦慄(せんりつ)を禁じ得なかった。


 肉体が、あまりにも脆弱なのだ。指先一つを動かすのすら、鉛の塊を持ち上げるかのように重い。魔力の奔流(ほんりゅう)は涸れ果てた井戸の如く細く、筋力は平均的な兵卒の足元にも及ばない。ただの、線が細く頼りない、名もなき青年の肉体であった。


 名を、"アルト"というらしい。魂の底に、まるで燃え残った灰のように刻まれていた今世の記憶が、弱々しくそう告げていた。衣服の仕立てを見るに、傭兵団の末端か、あるいは徴用されたばかりの輜重兵(しちょうへい)といったところか。


(……いや、絶望している暇なんてないな)


 私は泥に顔を伏せたまま、鋭く短い呼吸を繰り返して、脳への酸素を確保した。サマエルとしての卓越した戦術眼と、数多の死体を検分してきた検死知識が、冷徹に己の状況を分析し始める。


 そこで私は、このアルトという少年が命を落とした「明確な痕跡」に目を留めた。


 胸元の衣服。そこには、外部からの物理的な斬撃による裂け目ではなく、内側から瞬時に焼け焦げ、繊維が丸く融解したような、奇妙な穴が残されていた。周辺の肉組織は一瞬で炭化している。


(これは……戦死ではない。間違いなく、精密極まる暗殺だ)


 きわめて高出力、かつ神速の遠距離魔術。これほどの芸当ができる者は、この南側世界、あるいは北側世界を探しても片手で数えるほどしかいない。衣服の融解の度合いと、一滴の血も周囲に飛び散っていないその異常な収束率からして、尋常な人間の魔術師の業(わざ)ではない。


 検死のロジックが弾き出す答えは一つ。この青年アルトは、戦乱の混沌に紛れ、誰にも気付かれないように遥か彼方から狙撃されたのだ。その一撃は、まるで最初からこの少年の心臓だけを正確に消し去るために放たれたかのように、冷酷で迷いがなかった。


(そうか!俺は転生したんじゃない、この世界の住民として、魂を引っ張り入れられた俺はこの身体としての、"生き返し"を受けたんだ!だがなぜ、これほど脆弱な青年が、真っ先に狙撃されねばならなかった? この青年は一体、誰を狙って術を紡ごうとしていたのだ……)


 動機も、その全貌も不明。青年が目指していた真の標的が何者であったのか、今の俺には知る由もない。だが、真実を追うには、まず生きてこの地を脱せねばならない。


 今のこの俺は、かつて概念すら切り裂いた最強の剣技『断王一閃(サマエル)』も、その身に宿した超神聖刀『雅楽』も持たぬ「ただの貧弱、"ザ・雑魚"」である。それが厳然たる事実だ。ならば、武器を拾って戦うなど愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)。


 俺は前世の隠密性と戦術眼のすべてを動員し、死体の振りをしながら、泥を舐めるようにして、ただひたすらに戦場を這いつくばった。敵兵の重い鉄靴の足音が近づけば呼吸を完全に止め、肉壁の隙間に身を潜める。金属の擦れる音、指揮官の怒号、それらすべてを逆算し、最も影の薄いルートを選び取る。そうして俺は、辛(かろ)うじてその呪われた戦地を生きて脱したのだった。     


 それから、数年の月日が流れた。


 かつての栄光も、最強の武力も、今の肉体には宿っていない。


 生き延びた俺は、己のプライドを完全に文字通りの塵(ちり)として捨て去った。元騎士団長だの、最高峰の執事だのという過去の肩書きは何の足しにもならない。流れ着いた辺境の商業都市で、私は最も小さく、不衛生な酒場の皿洗いから、今世のリスタートを始めた。


 劇場の雑用、馬小屋の清掃、深夜のドブ浚い——なんでもいい!誰もが鼻をつまみ、嫌がる底辺の労働を、俺は無表情に、しかし黙々と引き受け続けた。


 周囲の者たちは俺を「魔力無しの哀れな孤児」と呼び、安月給でこき使った。同僚の雑用係からは理不尽に突き飛ばされ、泥水をかけられることもあった。だが、俺にとってその環境すらも好都合だった。頭を下げ、影に徹することこそ、前世の裏方としての本領だからだ。


 目的は、ただ一つ。


 この脆弱な肉体でも完璧に機能する「無駄のない骨格の動かし方」と「極限の実務能力」を、一から再構築するためである。


 酒場の皿を一枚洗うにも、俺は全神経を集中させた。指先の角度、水の抵抗を最小限に抑える手首の返し、油分を拭い去る際の重心の移動、そして呼吸の最適化。何千、何万という皿を洗う過程で、俺は脆弱な筋肉に頼るのではなく、骨の噛み合わせと最小の反動で動く「完璧な肉体の操縦法」を血の滲むような努力で体得していった。


 こんなにも嫌がらずできたのは過去の俺が築き上げた、好奇心から湧き出た何事にでも"持続力"を持っていたからだろう。


 劇場の雑用で重い舞台資材を運ぶ際も同様だ。背骨を一本の強固な軸として通し、大地の反発力をそのまま腕へと伝える。周囲の屈強な男たちが息を切らし、顔を真っ赤にして運ぶ重量を、俺は細い青年の身体のまま、一滴の汗も流さずに、優雅に運んでみせた。人々はそれを「器用な小僧だ」と笑ったが、それが前世の戦闘技術を基礎とした「極小の身体操作」であることには誰も気づかない。


 さらに劇場の裏方仕事は、俺に多くのものをもたらした。貴族や大商人が出入りするその場所で、私は彼らの衣服の揺れ、言葉遣い、給仕が守るべき厳格な典礼を盗み見た。今の俺が、かつてのサマエルのような高級絹の衣服を纏う(まと)ことはできない。しかし、安物の麻服(あさふく)であっても、それを如何(いか)に美しく着こなし、如何(いか)なる角度で一礼を捧げるべきか。数年間の過酷な底辺生活は、私の脆弱(ぜいじゃく)な肉体に、王宮に侍る(はべる)にふさわしい「完璧な所作(しょさ)」を完全に叩き込んだ。


 すべては、再び「完璧なる裏方」として、生きていくためのお金(約定報酬)を稼ぐために。


 戦いたくはない。人を殺めるのも、殺められるのも、もう真っ平御免(まっぴらごめん)だ。だが、この残酷な世界で飢えずに、かつ誇り高く生きていくためには、正当な対価が必要となる。そのためには、一介の労働者ではなく、より高い報酬を約束された地位に就かねばならない。


 数年が経ち、少年のような肉体は引き締まった青年のそれへと近づいていた。


 安宿の、ひび割れた鏡の前に私は立つ。


 内在する魔力こそ、未だ一般人の最低値のままであったが、その立ち姿、肩の落ち方、視線の据え方には、いささかの隙もない格式高い品格が宿っていた。数年間の底辺生活で磨き上げた実務能力と、前世の執事としての美学が、完全にこの肉体と同調したのだ。


「……そろそろ、時が近づいてきたな!」


 俺は安物の、しかし泥ひとつなく洗濯され、完璧に折り目のつけられた衣服の埃を静かに払った。そして、鏡の中の自分に向かって、完璧な角度の、美しい一礼を捧げた。


 目指すは、国営「公認勇者パーティ」の専属執事——いわば、その一陣を統べる総管の座。


 最前線で命を懸ける勇者たちの裏に回り、兵站(へいたん)を管理し、戦術を授け、その対価として国から最高額の報酬を毟(むし)り取る。


 戦いたくはない。だがそれよりも、生きたい!生きていくため。そして、自分(アルト)がなぜあの戦場で殺され、再びこの世に俺(サマエル)として呼び戻されたのかという「大きな謎」を解き明かすため。


 俺は公認勇者パーティの採用面接へと、静かに、しかし確固たる足取りで歩みを進めるのだった。

脆弱な肉体という逆境を、執事としての「美学」と「異常な努力」で乗り越えたアルト。次なる舞台は、泣く子も黙る国営「公認勇者パーティ」の採用面接試験です。並み居るエリート候補生たちの中、魔力最低値のアルトは、いかにしてその圧倒的な「品格」と「影の戦術」を知らしめるのか。次回、第2話『主無き影の約定』。お楽しみに。

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