㉙ 雪村と弓子
1994年3月10日の木曜日。時刻は午前10時頃。
真田雪村が、妻の弓子を連れて、名護屋テレビ塔の、亜空間レストランにやって来た。
それは、極めて珍しい事だが、たまには歴史調査に同行したいという、弓子のたっての願いによるものだった。
彼が動くと、色々な事態が想定されるので、サン・ジェルマンは特別に、黒いビートルを貸し出す事にした。まあ、伯爵もちょうど、研究で忙しかったので、そのクルマが空いていたという事もあるのだが……。
そんな訳で、二人は早速、地下駐車場のクルマに乗り込み、運転席の雪村が、
センターコンソールパネルに、目的地の座標を入力した。
西暦1767年6月19日
時刻20時00分
北緯44度45分
東経03度30分
彼はクルマを出すと、光学迷彩を掛けて垂直上昇させ、時空転移装置のスイッチを入れた。目指すはフランスのジェヴォーダン地方だ。
現場に到着すると、当然の事ながら、辺りはすっかり暗くなっていた。
この地方には、3年ほど前から、ニンゲンの女性や子どもばかりを襲う怪物が、毎晩のように出現する事で、すっかり有名になっていた。そして今夜、地元の猟師のジャン・シャステルという男が、そのバケモノを仕留める事になっているのである。
雪村は、ビートルの光学迷彩を馬車モードに変更し、弓子とともに車外に出た。二人は左腕ののリングを使って、服装の見た目を18世紀の村人風に変更し、同時に用心のために、360度の電磁防壁を展開した。そして、雪村の左手に弓子の右手をつないで、田園につながる森の中に、足を忍ばせながら、ゆっくりと入って行く。
居た。件の猟師だ。二人は近くの木陰にしゃがんで様子を覗う。
後ろ姿の彼は、ライフル銃を傍らに置き、切り株に座っていた。そして聖書を片手に、祈りを捧げているのか?……何やら呪文を唱えているようにも見える。その様子をしばらく見ていると、森の奥の方から、大きな獣の影が近づいて来るのが見えた。
「弓子さん、どんな感じだい?」雪村が、隣に潜んで居る妻に尋ねる。
「あのケモノからは、悪意は感じないわ。そこに在るのは、ただ純粋な殺意と食欲。あと少しだけの悲しみ……全体から受ける印象は、まるで心の無い、機械みたいね。」弓子の答えは、そんな感じだった。
「成る程……機械みたいか。」雪村は、どこか納得したようだった。
そのうちにその巨大な野獣は、木々の間から出て来て、すっかり姿を露わにしてしまった。月明りに浮かび上がるその背中には、赤茶色と黒の縞模様。頭部はまるで雄ライオンのようだった。しかし尻尾は長く太く、何よりカラダ全体のサイズが、まるで牛のように大きい。まさにそれは、見たことも聞いたことも無いような怪物だった。




