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第485話「義兄と義妹と、家族となって」

神々の去った世界に、新たな季節が巡っていた。


クトゥルフ討伐から4年の月日が流れ、かつての戦場は遠い記憶となりつつあった。イングラム・ハーウェイとソフィア、そしてあの戦いの果てに救い出された少女リルルは、父不在の家族が待つ、ハーウェイ家代々の砦へと帰還していた。


リルルは今、イングラムらと同じ「ハーウェイ」の姓を授かり、リルル・ハーウェイとして穏やかな、しかし情熱的な日々を過ごしている。


訓練場には、硬質な金属音が響き渡っていた。

槍と槍が激しく火花を散らし、交錯する。やがて、筋力に勝るイングラムの一撃を受け、少女の得物は地面に深く突き刺さった。


「はぁ……はぁ……! も、もう一度!」


リルルは荒い息を吐きながら、泥にまみれた手で再び槍を握りしめる。


「見上げた精神だが、身体はもう悲鳴を上げているぞ。少し休憩を挟もう」


イングラムは愛用の武器を引き、妹となった少女を労った。この4年間、リルルがこなした模擬戦は、数えるのが億劫になるほどだ。


100を優に超えるその積み重ねが、彼女の細い腕に確かな力を宿らせていた。


「はぁ……はぁ……」


その光景を、2階のベランダから見守る二つの影があった。


「リルルちゃん、随分息子に食い付くようになってきたね〜」


イングラムの母、シエルが楽しげに声を弾ませる。隣では、幼馴染みのソフィアが呆れたような、それでいて愛おしそうな眼差しを訓練場へ向けていた。


「シエルさん、あの子を甘やかさないでください。調子に乗りますよ?」


二人は並んで腰を下ろし、午後の紅茶を嗜んでいた。


「えー、いいじゃない。リルルちゃん一生懸命で、本当の娘みたい!」


「うぅ〜ん……確かにあの子は日に日に強くなってはいますけど……私としては、普通に勉強して、学び舎に入れてあげたいんですよね……」


ソフィアの言葉には、姉としての、あるいは親代わりとしての切実な願いが籠もっていた。


ふぅん?と、シエルはテーブルの上で頬杖を突き、お菓子を一口頬張る。


「それは確かにあの子の財産になると思うけど、入る入らないは、本人次第じゃない? もう10歳になったんだし、自己判断が難しいわけじゃないしね」


「う、そ、そう言われると……そうなんですけど……」


流石は、血気盛んな三人息子を育て上げた母親だ。シエルの思考は、荒波を乗り越えてきた者特有の、静かな達観に満ちている。


「旦那は武闘派で、私はただの取り柄のない主婦だけど。でもね、子供たちの考えを尊重することだけは続けてきたつもりだよ。私は、リルルちゃんの思っていることを知りたいし、それを自分の言葉にしてほしいと思ってる」


「シエルさん……」


「ソフィアちゃんの考えも、一つの正解だと思うよ。今度、じっくりお話してみたらどう? あなたは、リルルちゃんのお姉さんなんだし……ね?」


シエルはそう言うと、ぐいっと紅茶カップを仰いだ。そして、皿ごとカップを持って軽やかに立ち上がる。


「お茶、冷めると不味いから早めに飲んでね?」


小さく片目でウインクを贈ると、彼女は鼻歌混じりに台所へと向かっていった。


残されたソフィアは、手の中にあるカップの温もりを確かめるように指先を丸める。


階下では、再び槍を構えたリルルが、兄に向かって果敢に踏み込んでいく。その背中は、誰かに守られるだけの存在から、自らの意志で明日を掴もうとする一人の人間の誇りに満ちていた。


ソフィアは冷めかけた紅茶を飲み干し、決意を秘めた瞳で、愛しき妹の姿を焼き付けた。


数刻後__


ソフィアは、稽古帰りのリルルと向き合っていた。


「ソフィア義姉さん……? 用事って、一体なに」


タオルで髪を拭きながら、リルルは10歳らしからぬ無機質な、大人びた反応を返した。


長年、過酷な状況下で大人に囲まれてきた彼女には、年相応の幼さが欠落している。それを危惧するソフィアと、そこへ割って入ったイングラム。


「……また喧嘩か?」


「違うよ! この子の将来について、きちんと話し合おうって言ってるの!」


イングラムは槍を壁に立てかけ、腕を組んだ。


「ふむ……リルル、君はどうしたい?」


「……槍で生計を立てるのも、面白いかもとは思ってるよ、義兄さん」


ソフィアは内心、溜息を吐いた。やはり放っておけば武骨な大人たちの色に染まってしまう。だが、ここでイングラムが不敵な、画策者の笑みを浮かべた。


「なるほどな、いいだろう……リルル君の考えを尊重しよう。ただし――俺から一本取れたら、な」


「……義兄さん、悪い顔をしてるよ」


リルルが表情を曇らせる。勝てない間は義姉の望み通り「学び舎」へ通え、という条件。


だがイングラムは抜かりなかった。魔帝都のような異界ではなく、自身の遠征で見つけた、健全で精査された学び舎を既に手配していたのだ。


「どうだリルル。これが俺の条件だ……せっかくなら、君の条件も聞こうじゃないか」


リルルは少々顎に手をやり、思案の末、静かに、だが確かな熱を帯びた瞳で兄を見上げた。


「……もし一本取れたら。私が大人になっても心変わりしなかった時に……義兄さんと、二人きりでデートしてほしい……かも」


ソフィアは内心、胸を撫で下ろした。結婚だの、独立だのと言い出されるよりは、ずっと健全で可愛らしい「家族の約束」に聞こえたからだ。


「あ、一泊付きで」


「ダメっ!!!」


ソフィアの絶叫が、砦の夕暮れに響き渡る。

リルル・ハーウェイ。彼女の内に宿る情熱は、槍の腕前と共に、ソフィアの心臓を射抜くほどに逞しく成長していた。


◇◇◇


夕食を終えた後、イングラム、ソフィア、そしてリルルの三人は、砦の窓から夜空を眺めていた。


天幕に散りばめられた星々は、四年前のあの惨劇を忘れさせるほどに、ただ凛として、清冽な輝きを放っている。


「リルル、今の君の腕は、親父が育てた精鋭たちに匹敵する域にまで達している。だが――世界には彼らを凌駕する強者が、まだ大勢いるのが現実だ」


「……まずは義兄さんを倒すことが先決だね。義姉さんはもう、倒したし」


リルルの淡々とした、しかし絶対的な確信に満ちた言葉が、ソフィアの頬を僅かに引き攣らせた。


「ちょっと! こっちは怪我をさせないように手加減してあげてたんだけど……!?」


「もう、その気遣いは要らないよ、義姉さん。四年前のような、ただの荒削りな槍じゃない。今の私なら、義姉さんの隙を三度は突ける」


「……ふぅん。言うようになったじゃない。なら、明日は手加減なしでやっていいのね?」


「いいよ。その方が、私の現在地がよく分かる」


リルルの瞳には一切の迷いがない。己の実力に対する自信。それは、守られるだけだった過去との決別そのものであった。ソフィアは少女の成長を眩しく思う一方で、教育者としての、そして姉としてのプライドに火が点くのを感じた。


「いいわ……遠慮なく叩き伏せてあげる。覚悟しなさい?」


「楽しみにしてるね、義姉さん。

……大丈夫。あの子の力は使わない。ううん……使えない、と言うのが正しいのかな」


リルルの視線が、一瞬だけ自分の胸元へと落ちた。


ナイアーラトテップ。


かつて彼女を依代とした邪神の一柱は、ここ数年、深い眠りに落ちたかのように沈黙を貫いている。クトゥルフとの決戦で負った傷が、神の肉体を持ってしても癒えぬほどの深手だったのか、それともリルルの魂が、支配を拒むほどに強固になったのか。


「使ったとしても、私が負けてあげる道理はないからね。今の私には、守るべきこの砦があるもの」


ソフィアの凛とした宣言に、リルルは小さく、満足げに口角を上げた。


「……そうだね。おやすみなさい、二人とも」


少女が部屋を去った後、残されたイングラムとソフィア__


窓から吹き込む夜風はどこまでも穏やかだったが、イングラムは予感していた。リルルの中に眠る影が、いつか再び目覚める可能性があることを。


そして、その時こそが、彼女が本当の意味で人間として自立する正念場になるのだと。


「よし……明日は、俺も混ざるか。ソフィア、お前が泣かされるのは見たくないからな」


「ちょっとイングラム! 私が負ける前提で話さないでよ!」


平和な砦の夜は、明日の騒がしい訓練を予感させながら、ゆっくりと更けていった。


かつて、一人の若き戦士がいた__


消えた友の背中を追い、絶望の泥濘を走り抜け、星の終わりを食い止めるために槍を振るった男。


イングラム・ハーウェイ。

彼はその旅の果てに、ようやくレオンと再会した。だが、運命は非情にも再びその手を引き離し、青い残光は虚空の彼方へと消えていった。


普通の戦士ならば、またその背を追っただろう。


だが、イングラムは二度と、レオン・ハイウインドの影を追うことはなかった。


「お前は、お前の人生を生きろ」


友の声なき言の葉を、彼は否応なしに理解してしまったからだ。


束の間の平和。


それを誰かのためではなく、自分という一人の男のために使えと。

だから、彼は砦へと帰った。

共に戦い抜いたソフィアと、あの地獄から掬い上げたリルル。二人の家族と共に、母の待つ大地へと。


少女リルルの瑞々しい成長を見守り、父が遺した精鋭たちと泥にまみれて槍を交わし、時に母の他愛ない愚痴に耳を傾ける。


そこにあるのは、かつての彼が平凡すぎて退屈だと捨て去ろうとした、かけがえのない日常の重みであった。


槍先が描く円舞は、今はもう誰の命を奪うためでもなく、ただ愛しき者を守り抜くための誓いとして。


しかし__


平穏という名の薄氷の上に築かれた歳月が流れた時。

イングラム・ハーウェイは、何の前触れもなく、愛する者たちの前から姿を消した。


砦に残されたのは、使い込まれた一本の槍と、窓から吹き込む夜風だけ。

彼が再び戦地へ赴いたのか、あるいは過酷な対価を払う刻が来たのか。

英雄の物語は、最大の空白を抱えたまま、次なる激動の幕開けを待つことになる。

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