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第484話「星を見守る女神たち」

神々の住まう国、ソラリス__


そこは、星の重力から解き放たれた、純白の雲海に浮かぶ揺り籠である。

地上の死闘も、泥にまみれた恩讐も、ここまでは届かない。


この地に流れる「刻」は、地上のそれとは本質的に異なっていた。

風は吹けども花は散らず、水は流れども澱むことを知らない。


万物を腐敗させる時間の風化さえもが、この聖域では祈りのように緩やかに、あるいは残酷なほどに停滞していた。


しかし、永遠に等しい平穏が約束されたはずのその場所で。

今、一つの決定的な「別れ」が、静かにその幕を上げようとしていた。


「本当に、来なくていいのだな。お前たち」


重厚な威厳を纏った声が、水晶のような大気を震わせる。


北欧の始祖、最高神オーディン。その隻眼は、自分たちと共に未知なる「新世界」へ旅立つことよりも、疲弊し、泥にまみれた地球に留まることを選んだ三人の女神を静かに捉えていた。


「はい……新しき地へ向かう皆様とは別に、この地上を見守る神も必要だと感じていますから……それにしても、お姉様たちまで私の我儘に付き合う必要はないのよ?」


末妹スクルドが、どこか申し訳なさを滲ませて姉たちを振り返る。


「何を言っているのよ、三女!

あんた一人でできることなんて高が知れているんだから。姉である私が補佐してあげないと、何をしでかすか分かったものじゃないわ」


次女ヴェルザンディが、強がりの中に確かな慈愛を込めて笑う。


「ええ……ヴェルザンディの言う通りよ。二人では及ばぬことも、私たち三姉妹ノルンが揃えば成し遂げられる……」


長女ウルズの静かな肯定。三人の絆は、神域の停滞した時間さえも溶かすほどに温かく、強固なものだった。


オーディンは、スサノオ、シヴァ、ゼウスといった名だたる主神たちと共に、この地球というゆりかごを離れる決断を下していた。


遥か銀河の果て、クトゥルフという脅威の去った後に現れるとされる「新世界」へと。すでに多くの神々が、その光の道へと消えていっている。


「そうか……ふ、少しばかり寂しくなるな」 


「申し訳ありません、オーディン様。本来ならば、我らも皆様に付き従い、新世界へ赴くべきなのでしょうけれど……」


スクルドの言葉に、オーディンは僅かに口角を上げた。その表情に宿っていたのは、失望ではなく、深い安堵だ。


かつてイングラムたちと最初に出会い、人の強さと危うさをその瞳に焼き付けた女神スクルド。彼女は、幾多の出会いと別れの果てに、自分自身の意志で人の行く末を見届けたいと願ったのだ。


「いや……それでいい。スクルド、お前はそれがいい。……ウルズ、ヴェルザンディ。お前たちも、本当に良いんだな?」


「妹2人を支えるのは、姉の役割ですから。安心してください、オーディン様」


「三女も長女もお転婆ですからね! 私がしっかり面倒を見ますよ」


ヴェルザンディの快活な言葉に、オーディンは低く、心地よい笑い声を漏らした。


「……ああ、お前たちならば、この古き世界を、そして愛しき地上を安心して任せられる」


オーディンは、厳格な主神としての仮面を脱ぎ、一人の父として静かに歩み寄った。そして、愛しき娘たちの頭に掌を置く。


最高神の手に宿る熱は、神域ソラリスの停滞した大気さえも溶かすほどに、優しく、慈悲深いものだった。かつて世界を統べる王座よりも、この幼き三姉妹、ノルンの成長こそが、彼の真の誇りであったかのように。


「……それと、霧雨真宵のことも頼む」


唐突に紡がれたその名に、スクルドの瞳が揺れた。


「……! 真宵は、彼女は地上へは戻らぬのですか?」


「ああ……彼女はソラリスでその生を終えるつもりらしい。地を離れ、ただ静かに世界を見守るという点では、お前たちと同じ道を選んだのだ」


「そうですか……少し、安心いたしました。あの子には、あの地上の――西暦の友は、もういませんから」


スクルドの呟きが、透明な風となって雲海へと消えていく。


友のいない孤独な地上よりも、神々の去った後のこの静寂の中で、運命を紡ぐ三姉妹と共に生きること。


それが、真宵という一人の少女が出した「答え」だった。


「__」


オーディンは、二度と戻らぬ覚悟を胸に、澄み渡る蒼穹を見上げた。

そして、娘たちの柔らかな手を、一つ一つ、確かめるように握り締める。


「お前たち……いずれまた、我らはこの地に帰ってくるだろう。かつての黄昏が明け、新たなる黎明が満ちるその刻に」


それは、未来を司る神としての予言か、あるいは愛する娘たちに遺す、切なる願いか。


「それまで__この世界の留守を、任せたぞ」


「「「はいっ!!!」」」


三人の女神たちの凛とした返声が、ソラリスの隅々にまで響き渡る。


「おーい、オーディン! いつまで駄弁ってんだ、行くぞッ!」


水晶の静寂を破ったのは、ギリシャの時を司る神・クロノスの快活な怒声だった。彼は伴侶たるレアをその腕に抱き寄せ、遥か雲海の彼方から、焦れったそうに大きく手を振っている。


「フハハハ! クロノスよ、未だ過去に執着するオーディンなど放っておけ! 我らインドの神威こそが、新世界においても一番の栄華を手にしてみせるわ!」


破壊の神シヴァが、劫火のごとき笑い声をソラリスの天に轟かせる。その傍らでは、嵐を纏ったスサノオが不敵に口角を上げ、静かに得物へ手をかけていた。


「んー。スクルドちゃんたちが残るなら、俺もここに残っちゃおうかなぁ……なんて」 


「……あ・な・た?」


「うそうそ! 行きます、行きますとも! ほら、準備万端だよ!」


全能神ゼウスの軽口を、正妻ヘラの冥府よりも冷たい「圧」が瞬時に凍りつかせる。最高神の五臓六腑を震わせるその沈黙の脅威に、ソラリスを揺るがしていた神々の緊張が、一瞬だけ和やかな苦笑へと変わった。


「おら、さっさとしろよオーディン! 時代が待っているんだ!」


「……ああ。今、行く!」


オーディンは最後に一度だけ、ノルン三姉妹の温もりをその掌に焼き付け、身を翻した。


「さらばだ、我が娘たちよ。……イングラムたちを、あがき続ける人の子らを__頼んだぞ!」


三人の女神は、涙を堪え、弾かれたように力強く頷いた。


その刹那__


ソラリスの全域を、目も眩むような黄金の輝きが埋め尽くした。神々の巨躯が光の粒子へと剥落し、それは巨大な一条の奔流となって蒼穹を穿つ。


重力に縛られぬ神性が、星の引力を振り切り、虚空の果て__新世界へと翔け抜けていく。


ソラリスの空を横切る黄金の軌跡は、暗い宇宙に刻まれた、最後にして最大の神話の断章であった。

神々の去った純白の雲海に、ノルン三姉妹はいつまでも立ち尽くし、消えゆく光の尾を見つめていた。


神々の去ったソラリス。

黄金の尾を引く残光が、純白の雲海に長い影を落としていた。


「……行ってしまったわね」


「ええ……」


ウルズとスクルドが、運命を見守る者として淡々と空を見上げる傍らで、ヴェルザンディだけは子供のように瞳を震わせ、大粒の涙を零していた。


「うぐ、ひっく……オーディン様ぁ、行かないでよぉ……っ」


その時、三人の背後を、かつての神々とは異なる、春の陽だまりのような柔らかな光が照らした。


「……光? でも、神々は私たちを除いて全員、宇宙へ消えたはずじゃ__」


振り返った三人の瞳に映ったのは、巫女服を脱ぎ捨て、天女の羽衣を纏った霧雨真宵の姿だった。


「日本領域を守護する任を、スサノオ様より承りました。__マヨイノミコトと申します」


「え……」


「「「えええええええっ!?」」」


絶句する三女神。かつて人の身であった少女は、今、その身を清廉なる神格へと昇華させていた。


その身から溢れ出すのは、圧倒的な神性の奔流。アマテラスの面影すら感じさせる、目を奪われるほどに美しい容姿。


「スクルド様、ヴェルザンディ様、ウルズ様……新しき神ゆえ、不慣れなことやご迷惑をおかけすることも多いかと思いますが、どうぞよしなに」


「ちょ、ちょっと待って! なんであんたが女神になっているの!?」


「司るものは何なのよ! アンタ、ただの人間だったじゃない!」


困惑する姉たちを他所に、マヨイノミコトは慈愛に満ちた微笑を浮かべる。


「簡潔に説明しますと……クロノス様に神性を分け与えた際、私の内に無垢な新生の神力が発露したのです。そうですね、司るものは――『慈しみ』、でしょうか。ふふ」


その所作一つ一つが、古き神々さえ凌駕するほどの気品を放っていた。三女神はただ、固唾を飲んでその神々しさに圧倒される。


「__っ、いいわ! なら、あなたの門出をお祝いしましょう? 今日はパーッと過ごすわよ!」


涙を拭ったヴェルザンディが、快活な声を上げた。


「ふぅん、三女にしては名案ね! 付き合ってあげるわ」


「……お酒。地上から持ってくるべきかしら。イングラムたちに連絡を?」


姉二人の言葉に、新しき女神は茶目っ気たっぷりに首を傾げた。


「それなら__皆様で地上に降りて、買いに行きませんか? 私、行ってみたいカフェがあるのです」


「いいわね! 早く行きましょう!」


ヴェルザンディは子供のように目を輝かせると、我先に雲海を蹴って地上へと駆け下りていった。


「さあ、私たちも参りましょうか」


マヨイに促され、ウルズとスクルドも、柔らかな笑みを浮かべて後に続く。


神代の終わり、そして人の世の始まり。


神々の去った後のソラリスには、彼女たちが残した小さくも温かな残光が、いつまでも世界を優しく包み込むように輝き続けていた。

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