表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
483/486

第483話「黄昏を見つめる者」

クトゥルフ討伐から2年__


混沌が去った後の世界で、ベルフェルク・ホワードが築き上げた会社は、もはや単なる営利組織を超えた巨大な「機構」へと変貌していた。


彼が産み落とす緻密な商品は、人々の乾いた心に娯楽という名の潤いを与える一方、そのあまりに強大な利権は、各地で新たな争いの火種を撒き散らしている。


「社長、お客様がお見えになっております」


無機質な執務室に、滑らかな声が響いた。

秘書シンディ。白銀の髪を冬の月光のように靡かせた彼女は、眼鏡のブリッジを細い指先で押し上げ、感情を排した動作でホログラムを起動する。


「今日は、どことも商談する予定はないはずだが……シンディ、お前の管理ミスか?」


デスクに積み上げられた膨大な資料から顔を上げず、ベルフェルクが冷淡に返す。ペンを走らせる音だけが、精密機械の鼓動のように刻まれていた。


だが、シンディが提示した電子媒体の映像が網膜を焼いた瞬間、彼の動きが凍りついた。


「…………ちっ」 


ベルフェルクは不快そうに身を乗り出し、吐き捨てるように視線を逸らした。


「……彼らは、社長の御家族を名乗っておりました。独断で門前払いにするには、些かリスクが高いと判断し、確認を取らせていただいた次第です」


「……通せ、そこで騒がれたら仕事の効率が落ちる」


「承知いたしました。すぐに」


シンディは深く一礼し、影のように音もなく退出していった。

一人残されたベルフェルクは、冷え切った紅茶の表面に映る自分の顔を、忌々しげに睨みつける。


世界を救う手助けをし、経済の頂点に立とうとも、この「家族」という名の呪縛だけは、どれほど鋭利な理屈をもってしても切り離すことができない。

重厚な扉が開く音が、彼の静寂を無慈悲に引き裂こうとしていた。


重厚な扉が左右に開き、秘書シンディが保っていた静謐は、土足で踏み荒らされるように瓦解した。

執務室に流れ込んできたのは、高価だが品性の欠片もない香水の混じった、澱んだ空気。


「おぉ……ベルフェルク! 随分と立派な城を築いたようだな!」


「見ていたわよ、ベルフェルク! こんなに大きな会社を立ち上げるだなんて……! 流石は私たちの誇り、自慢の息子ねぇ!」


現れたのは、かつて彼を捨てた両親。そして、その背後で品性の卑しさを隠そうともせず、値踏みするように室内を見渡す兄の姿があった。


「ふん。かつては無能の極みと思っていたが、なかなかどうして、化けるものだな。……いい稼ぎじゃないか、弟よ」


「__何の用だ、アンタら」


ベルフェルクは、高級木材のデスクに無作法に足を投げ出した。後頭部で両腕を組み、冷え切った双眸で、自分と同じ血を引く者たちを見据える。


その態度は、ハナから彼らを人間として、対等な会話の相手として認識していないという冷徹な拒絶。


「まあ! 実の家族に対して、なんて情のない態度なの! 私たちはあんたの成功を、自分のことのように喜んで……」


母親の甲高い声が、精密に調整された室内の温度を掻き乱す。その瞳にあるのは慈愛ではなく、彼の背後に積み上げられた黄金への、剥き出しの飢餓感だ。


「……用件を言え。三語以内にまとめろ」


「おいおい、そう急かすなよ。せっかく家族が水入らずで会いに来たんだ。これまでの礼を、少しばかり形にしてほしいだけさ」


兄が卑屈な笑みを浮かべ、一歩前へ出る。その脂ぎった指先が、デスクの隅に置かれた、レオンとの唯一の絆を感じさせる古い記念品へ触れようとしていた。


ベルフェルクの眉間が、わずかに、だが致命的なまでに深く歪んだ。

彼の気配に、大地の雄大さが滲むと、どこからとも無く茶色の鎖が飛び出て、兄のその汚物のような手を絡め、拘束した。


「……汚え手で、それに触れるな。クソ野郎」


ベルフェルクの低い声が、執務室の空気を氷結させた。


刹那、彼の内に眠る「茶亀」の権能が、大地を震わせる咆哮なき胎動となって顕現する。虚空から現れたのは、重厚な錆色を帯びた、鋼よりも硬質な魔力の鎖。


それは意志を持つ大蛇のようにのたうち、兄の脂ぎった手首を無慈悲に絡め取り、デスクへと縫い止めた。

あの日のように、震えながら許しを乞う泣き虫の少年は、もうどこにもいない。


幾多の戦場を渡り歩き、己の運命すらも交渉の天秤に乗せてきた商人が、そこに座していた。


「お、お前……! 実の兄に向かって何の真似だ!」


「ベルフェルク! 我が息子になんて無礼を! その鎖を今すぐ解きなさい!」


「そうよ、乱暴はやめて! 恥を知りなさい!」


耳障りな罵声。それは彼が幼き頃、暗い部屋で幾度も浴びせられた「呪い」の反復だった。ベルフェルクの瞳から、最後の一滴の慈悲が消える。


「……うるせえ奴らだな。おい、シンディ」


「御意に」


風が、凪いだ__


ヒュッ、という鋭利な断裂音。シンディが投じたのは、かつての弟子が愛用していたフランベルジュの波紋を宿した、小型の投擲刃。


それは狙い過たず、拘束された兄の掌を貫き、執務机に深々と突き刺さった。


「ぎゃああああああああッ!!」


「言ったはずだ。用件をさっさと吐けとな……これ以上喚き散らすなら、次は喉笛を穿たせる。それとも、家族団らんで仲良く串刺しにされるのがお望みか?」


ベルフェルクの静かな脅迫に、両親の顔から血の気が引いた。床に滴る息子の鮮血と、シンディが構える次なる刃。そこに理性による交渉の余地はないことを、彼らは本能で理解した。


「ま、待て……! 援助を、資金援助をしてくれ! 我らにはもう、一銭の蓄えもないのだ! ここに来るのだって、藁をも掴む思いで……!」


かつて自分を塵のように捨てた者たちが、今、藁のように自分に縋っている。


その醜悪な喜劇を見つめても、ベルフェルクの心には一欠片の快楽も、ましてや憐憫も湧かなかった。ただ、無価値なゴミが視界を汚しているという不快感だけが残っている。


「__あ、そう」


ベルフェルクは、喉を鳴らして鼻で笑った。その嘲笑は、絶望の淵にいる者たちの耳には、死刑宣告よりも酷く冷たく響く。


「用件は理解した。だが、テメェらに一銭たりともくれてやる道理はない。一滴の泥水すら、やるつもりはねぇな」


「な、なぜだ!? 我々は家族だろう! こんなにも切実に、親が子に頭を下げているというのに!」


「なぜ……? そうだな。かつてお前たちが、俺の差し出した唯一の願いを無残に蹴落とした。……そのツケを、今ここで利子をつけて返してやるだけだ。これは、俺がこれまで学んだ、最も効率的で健全な取引なんだよ」


ベルフェルクは立ち上がり、窓の外に広がる、自分が支配する街並みを見下ろした。

彼の背後で、兄の絶叫と親たちの嗚咽が混じり合い、醜悪な和音となって消えていく。


「わ、わかった……! なんでも払う、なんでも払うから! 利子でもなんでも、お前の好きなだけ付けてくれて構わない!」


「そうよ……! だから、家に戻ってらっしゃいベルフェルク! あなたを正式な『長男』として迎え、家督を継がせてあげてもいいわ。ね? 悪くない話でしょう? あなたの商売だって、私たちが手伝ってあげる。だから……!」


両親の口から溢れ出したのは、対価と呼ぶにはあまりに滑稽で、あまりに卑しい取引の体裁。かつてベルフェルクからすべてを奪った彼らは、今なお、自分たちが与える側に立っていると信じて疑わない。


その傲慢な慈愛の仮面に、ベルフェルクは応えない。

ただ無機質な視線を、手首を鎖に食い込ませ、掌を机に縫い付けられたまま呻く兄へと向けた。


「家」という呪縛を売った両親に対し、お前は何を差し出す。


「……俺は、お前に差し出すものなんて、何一つないッ!」


「「!?」」


激痛と屈辱に顔を歪ませながら、兄は獣のような咆哮を上げた。その瞳に宿るのは、後悔でも謝罪でもなく、どす黒く濁った剥き出しの強欲。


「俺は、俺の欲望のままに生きたい……! お前の価値は、本来俺のものだ! 親父でもお袋でもない! お前のその力も、地位も、富も……すべては長男である俺に分け与えられるべき権利なんだよ!!」


それは、血という理不尽な繋がりにのみ縋り、他者の努力を搾取することを当然と考える、寄生者の絶叫だった。


「……交渉決裂だ」


ベルフェルクの言葉は、冬の海に落とされた鉄塊のように重く、冷たかった。


彼はデスクに放り出していた足を静かに下ろすと、立ち上がり、窓の外の景色へと背を向けた。


背後から聞こえる血族たちの喚き声が、もはや言葉ではなく、遠くの騒音のように感じられる。


「シンディ。これ以上の対話は無意味だ。……彼らを『処置』しろ。二度と、俺の視界という価値ある空間を汚させないようにな」


「御意に。……速やかに、かつ痕跡を残さず排除いたします」


シンディの眼鏡の奥で、白銀の光が冷たく爆ぜた。

ベルフェルクは一瞬だけ、デスクに置かれたレオンの記念品に指先で触れた。血を分けた「家族」の醜悪な怒号を背に、彼はひとり、窓の外を見つめて満足げに唇を歪める。


「あぁ__聞こえてねえかもしれねえが。貴様らの断末魔、いい『対価』になったぜ」


ベルフェルクが重厚な窓を開け放つ。


吹き込んできた爽やかなそよ風は、澱んだ香水の匂いも、家族であった者たちの絶望の残響も、すべて虚空へと運び去っていった。


「……はぁ。お前、本当、救いようのない極悪人だぜ、ベルフェルク」


事務的な静謐が、シンディの溜息とともに剥がれ落ちた。

彼女が眼鏡を外し、指先でブリッジの跡を揉む。


その仕草には、秘書としての規律ではなく、長年連れ添った悪友のような、気怠い信頼が滲んでいた。


「……事業時間中は、その口調になるなと契約してあったはずだぞ、シンディ」


「残念。五秒前に私の労働時間は終わってんだよ。それにしても、あんまりな仕打ちだ。紙切れの一枚でもくれてやって、追い払えばよかったんじゃねえの?」


「甘いな。あの手の寄生虫どもに一度でも甘い汁を吸わせれば、より高く、よりしつこく背びってくる……そんな無駄に費やす時間は、一秒たりとも残ってねえんだよ」


「…………」


シンディは後頭部で両腕を組み、窓辺に立つ背中を見つめた。

その背中は、かつて世界を救うために奔走していた頃よりも、ずっと狭く、そしてずっと孤独に見える。


「……まだ、諦めてないのか。レオンを探し出すための『機械』を作るのを」


「当然だ」


ベルフェルクの答えに、迷いはなかった。


「巨万の富も、星の数ほどの交渉相手も、俺にとっては等しく二の次だ。何よりも、どんな理よりも価値がある。……彼の、行方を探るための技術を、知識を、俺は欲している」


シンディは深々と溜息を吐き、視線を天井へ投げた。


やっていることは、二年前のイングラムと変わらない。取り憑かれたように、過去の影を追い求めて――。

それを口に出せば、今度は自分が『処理』されるかもしれないと、皮肉な微笑を浮かべて言葉を飲み込む。


「ま、せいぜい頑張って作れよ。

……それが、お前の本当の『夢』なんだろ?」


「――ああ」


月光が差し込む執務室。

理性の怪物が独白した「夢」は、夜風に乗ってどこまでも遠く、青い残光が消えた空へと昇っていった。


ベルフェルク・ホワード__


クトゥルフ討伐という神話の終わりから、2年の歳月。


彼は自らの野心ではなく、ただ一人の友への「負い目」を原動力に、独立技術局『ELSエルス』を設立した。


表舞台では、世界を席巻する娯楽と革新的な技術の提供者として。

しかし、その機構の心臓部で脈打つのは、利益への渇望ではない。


彼は水面下で、ファティマ王朝との不可侵の盟約を結び、医療と富という名の生命線を送り続ける。それが、かつて少年が守り抜いた「未来」を繋ぎ止めるための、彼なりの贖罪であった。


だが、彼の瞳が真に見つめているのは、常に帝都の繁栄の「外側」にある。


各地に張り巡らされた情報網。

夜空を走る、微かな魔力の波長。

巨万の富は、あの日消えた「青い残光」を再び照らし出すための灯火に過ぎない。


星の数ほどの交渉相手よりも、世界を統べる王座よりも。

彼が欲したのは、理屈を超えて自分の命を救い、世界を救って去った、命の恩人との再会__


ベルフェルク・ホワードは今も、冷徹な理性の奥底に祈りを秘め、世界という名の盤面を操作し続けている。

その執念が、いつか再び星を貫く青き一閃を捉える、その日まで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ