第482話「兄と共に」
天を割るような雷鳴が、荒れ狂う大雨とともに大地を叩きつけていた。
ぬかるんだ泥は、かつて名家と謳われた屋敷の威信を汚すように、重く、どす黒く足元にまとわりつく。
ルシウスが私用により不在を強いられた、その空白の時間を縫うようにして、惨劇は始まった。
「どたん」と、重厚な家財が倒れ伏す乾いた音が響く。
それは、何者かに追い詰められた者が放つ、断末魔にも似た小さな悲鳴とともに、雨音の向こうへと消えていった。
「……ふん。騎士警察の頂点に立つ男が、この無様なザマか」
冷徹な声が、闇を切り裂く。
「無理もない。私腹を肥やし、抵抗の術を持たぬ人々からすべてを奪い続けてきた男だ。守るべき誇りを持たぬ貴様に、俺の執念を凌げるはずがない」
ルキウスが突き出した矢の先端が、父親の頬に薄紅の線を刻んだ。
「や、やめろルキウス! なんの話をしている……っ!?」
「黙れ……!」
迸る激情は、轟く白い雷光よりもなお鋭く、深い悲しみを孕んでいた。
「俺がお前たちから姿を消したのは、騎士警察の闇を暴くためだ。世界を巡り、数多の犠牲者の怨嗟を、この耳で聞き届けてきた」
「ルキウス、やめなさい……!」
母親の叫びは、不自然なほどに高く、耳を刺すヒステリックな響きを帯びていた。それは、罪を隠蔽しようとする者の、浅ましい防衛本能だ。ルキウスは、光を失った虚無の瞳で、その母親を冷たく射抜いた。
「汚職の全貌、そして、この組織が邪神教団と密約を交わしていた証拠……すべては調べがついている。獄中で、永劫に罪を償うがいい」
「ルキウス……お前は、まさか、そんな『つまらぬこと』のために姿を消したのか……!?」
ピクリ、とルキウスの肩が震えた。
雨の冷たさではない。その言葉が持つ、真冬の氷よりも過酷な残酷さに、彼の心が凍てついたのだ。
「……なんだと?」
幼き日、父の背中を見て憧れた騎士警察の物語。
人々を助け、平和を護る一族の盾。それは彼にとって、人生を捧げるに値する聖域だったはずだ。
「それだけのこと……だと……?」
「そうだ! 組織の運営が立ち行かなくなったのは、すべて先祖のせいだ! 無償で民を助けるなどという無益な慈悲を続けたから、そのツケが俺たちに回ってきたんだぞ!」
父親は、神に縋る狂信者のように、見苦しく言葉を零し続けた。
「俺の憧れが、この家名が穢れたのも、すべては先祖の責任だ! 邪神教団の力を借りて何が悪い……っ!」
「あなたの言うことは間違っていないわ、ルキウス。今更やり方を変えるなんて無理なのよ! 私たちは……私たちは悪くない!」
激しい怒りが、そしてそれ以上の虚無が、ルキウスの胸の内で渦を巻いた。
否定してほしかった。すべては誤解だと、嘘でもいいから言ってほしかった。
そんな浅ましい罪の転嫁ではなく、かつて憧れた気高き父の残滓を、ひと欠片でも見せてほしかった。
「……そうか。ならば、もはや語る言葉はない」
ルキウスの心の中で、両親という名の偶像が、音を立てて崩れ落ちた。
彼が冷ややかに指を鳴らす。
刹那、雨を切り裂いて、影たちがなだれ込むように屋敷へ侵入した。
「ルキウス隊長……本当に、よろしいのですね?」
「ああ。連行しろ……これより先、彼らを知る者は一人として存在してはならない」
「「!?!?」」
現れた者たちの装いは、青き騎士警察の制服ではなかった。
薄暮を思わせる軽装を纏い、それぞれの得物を背負った、音もなき狩人たち。
「やめろ! ルキウス! この者たちは一体何だ!」
「彼らは……俺の部下だ」
「部下だと……? どういうことなの、オリヴェイラ婦人……!」
「言葉の通りだ。彼らは俺が立ち上げた新たなる組織――独立遊撃隊ARC……その第一隊だ」
ルキウスの言葉を、父親はあろうことか「功績」として受け取った。
「……そ、そうか! よくやった、ルキウス! 我々に手をかけようとした無礼は不問にしよう。さあ、その新組織に、私たちを組み込むがいい! 指導者として、お前を支えてやろう!」
差し伸べられた父の手を、ルキウスはただ、憐れむように見つめていた。その瞳には、もう一片の涙も、温もりも残されてはいなかった。
「――はじめは、殺そうと思っていたんだ」
差し伸べられた父の手を見つめるルキウスの瞳は、世界を濡らす大雨よりもなお深く、冷たい虚無を湛えていた。その静かな呟きは、雷鳴の轟きさえも貫いて、オリヴェイラ卿の鼓膜を凍りつかせる。
「だが、そんな価値すらも今の貴様らには見出せない。……さようなら、オリヴェイラ卿。そして、婦人」
もはや父とも母とも呼ばぬ。ルキウスは、ゴミを見るような視線を投げて短く合図した。
「罪人の蔵に繋いでおけ。
……脱獄の芽は、根から断っておけよ」
「了解いたしました。
……おい、立ち上がれ、罪人ども!」
部下たちの無機質な声とともに、無理やり引きずり出されるかつての両親。
「くっ、なぜだ! なぜなんだルキウス! 我らオリヴェイラの血と歴史が、お前という英雄を育ててきたというのに! 恩を仇で返すというのかッ!」
泥にまみれ、喚き散らす父親。母親であった女もまた、乱れた髪を振り乱して泣き喚く。その見苦しい姿は、ルキウスが幼き日に夢見た高潔な騎士家の残像を、無残に踏みにじっていった。
だが、引きずられていく父親が、最後に吐き出した毒が空気を変えた。
「……そ、そうか! 貴様、ハイウインドの連中にたぶらかされたなッ! やはりあの家系は呪われている。ウクバール戦線での敗走から、奴らは何も変わっていなかったんだ! 卑怯な策で、我が息子を狂わせおって……!」
刹那、ルキウスの瞳に、この夜初めての火が宿った。
それは怒りという名の、暗く燃え盛る業火だった。
「――ガッ……!」
言葉が途切れるよりも早く、ルキウスの掌がオリヴェイラ卿の頬を裂くように叩いた。
乾いた衝撃音が、土砂降りの雨音を圧して響き渡る。
「……彼らと一度の交流すら持たぬ貴様が。己の保身のために誇りを捨てた貴様ごときが、ハイウインドの名を汚すことは、この俺が断じて許さん」
向けられたのは、もはや憐れみですらない。それは、塵芥を排除せんとする死の宣告だった。
「二度と、その汚らわしい面を俺に見せるな。……連れて行け」
「ハッ!」
部下たちに引きずられ、闇の奥へと消えていく悲鳴。
残されたのは、降りしきる冷たい雨と、かつて名家と呼ばれた屋敷の骸だけだった。
ルキウスは深く、長く、肺の奥に溜まった濁った空気を吐き出した。
その視線の先、雨のカーテンの向こうには、黄昏の紋章を掲げた「ARC」の影たちが、彼の次なる命を待って音もなく佇んでいた。
◇◇◇
激しかった雨は、嘘のように止んでいた。
だが、未だ夜の湿り気を孕んだ大気は重く、足元には無数の水溜まりが、砕け散った月の破片のように鈍い光を反射している。
「仕事は、終わったのかい……兄さん」
不意に投げかけられた声。ルキウスが視線を向けると、一本の古木を背にし、風景の一部のように佇む弟・ルシウスの姿があった。
「帰っていたのか……?
いや、看破されていたか。ふ、お前の『千里眼』は相変わらず厄介だな」
この惨劇のすべてを、弟は見ていた。そしてルキウスもまた、弟がこうして見守っていることを、心のどこかで確信していた。
「何故……止めなかった?」
問いかけた言葉は、湿った夜風に溶けて消えそうになるほど微かだった。
「止めてほしかったのかい?」
「__」
鏡のように突き返された言葉に、ルキウスは息を呑んだ。
弟に問うたはずの言葉が、自らの胸の奥、まだ血を流している良心という名の傷口を正確に射抜いたのだ。
「遅かれ早かれ、こうなる運命だったんだ……兄さんは、こうして自らの手で過去を葬り去らなければ、ARCを掲げることなどできない人だからね」
「……ああ。そうだ。救世のために、この手に流れる呪われた血を断ち切る必要があった」
ルキウスは肺の底に溜まっていた濁った空気を、呪詛を吐き出すかのように強く、長く吐き出した。
「ルシウス。俺は__邪神教団を殲滅する」
「……分かっているよ」
「奴らがいる限り、この星は何度でも絶望に焼かれるだろう……それに、もう、ライルはいない。俺が唯一、魂を預けられた友は、ルルイエの底に消えてしまった……」
絞り出された声は、慟哭の代わりに流された血の涙のように熱く、重かった。
ルシウスは言葉を継げなかった。兄が背負う喪失の深さを、その震える肩が物語っていたからだ。
かつてライルと共に夢見た未来は、今はもう、組織を動かす冷徹な執念へと変貌していた。
「俺たちがレオンやギルザさんに代わり、奴らを滅ぼす。……だが、俺たちの組織は未だ小さい……決着を付けるのは、しばらく先になるだろうな」
「そうだね。クトゥルフが討たれた今、連中は散り散りになって影に潜んだ。長い戦いになるよ」
「ふ……だが、お前が、そして志を同じくする仲間たちがいる……必ず勝つさ。彼らの残した光を絶やさないために、俺たちが勝つんだ」
その瞬間__
重く垂れ込めていた雲の裂け目から、鋭い陽光が一閃、世界を射抜いた。
泥濘にまみれた屋敷の骸を、そして並び立つ兄弟の姿を、黄金色の光が等しく包み込んでいく。
それはまるで、過去という夜を焼き払い、彼らが往く峻険なる覇道を、天が祝福しているかのようであった。
降り注ぐ黄金の陽光は、泥濘に沈んだオリヴェイラの家名を焼き払い、新たな時代の夜明けを告げていた。
ルシウス・オリヴェイラ__
彼はあの日、兄ルキウスが過去を断罪するその背を、千里の瞳で見届けた。
血塗られた家名を捨て、独立遊撃組織『ARC』の副隊長へと身を転じた彼の歩みは、まさに兄の放つ峻烈な光を支える、揺るぎなき「影」としての献身であった。
彼らは世界を奔走し、闇に潜む犯罪組織、そして星を蝕む邪神教団の残党を狩り続けた。
数多の激戦を経てARCが巨躯を成した頃、歴史は彼らを最大の決戦場へと導く。
大国ウ・ルプォルツ__
教団の狂信者たちが街を埋め尽くし、空が呪詛で染まったあの日。ルシウスは兄と共に、絶望の数よりも多くの閃光を戦場に刻みつけた。
後に『ウ・ルプォルツ戦役』と称されるその大戦において、副隊長ルシウスの武勇は、地を這う軍勢を薙ぎ払い、兄の道を切り拓く一筋の銀河のようであったと語り継がれている。
彼らの往く道には、常に友・ライルの遺志があり、救世の英雄たちの残光があった。
兄は冷徹なる正義の旗を掲げ、弟はその旗が汚れぬよう闇を射抜く。
ファティマ王朝の復権、そして邪教の殲滅。
英雄たちの去った後の世界を繋ぎ止めたのは、間違いなく、この不器用な兄弟が流した血と、黎明の光に誓った不滅の絆であった。
彼らの伝説は、今もなお、黄昏時の風に乗って世界を巡り続けている。




