第481話「王朝復権のために」
ルルイエ崩壊から半年の月日が流れた。
かつての狂乱が嘘のように、ファティマ王朝の地下闘技場には、研ぎ澄まされた鉄の匂いと、静かな闘志が満ちている。
石造りのドームに、硬質な剣戟が火花となって散る。
蒼き暗殺者、アデルバート・マグレイン。
ファティマ王朝第一皇子、ジーク・ファティマ。
二人の英雄が繰り出す一撃は、もはや模擬戦の域を超え、空気を裂く断裂音となって観衆の鼓膜を震わせていた。
「ふん……半年ぶりだが、腕が鈍るどころか、俺の喉元を正確に捉えてくるとはな」
アデルバートの双刃を、吸魔の剣で受け流し、ジークが不敵に口角を上げた。その瞳には、かつて紅蓮の騎士を束ねた冷徹な光ではなく、一人の戦士としての悦びが宿っている。
「……光栄だ。蒼髪と呼ばれた暗殺者にそう言われるのは、最高の賛辞だな」
凄まじい攻防の余韻。それを見守るレティシアとシュラウド、そして元紅蓮の騎士たちは、圧倒的な武の奔流に気圧され、固唾を飲んでいた。
だが、話題が「王朝の復権」に移ると、場の空気は一変して鉛のような重苦しさを帯び始める。
ジークには、かつて紅蓮の長として多くの王族を手にかけてきた「罪」がある。
彼自身が表舞台に立つことは、周辺諸国の反発を招く毒となりかねない。
「武力行使はあくまで最終手段に……私は言葉を尽くして、平和という名の利を説きたいのです」
レティシアの清廉な決意。だが、ジークは商人の狡知が必要だと見抜き、ある男の名を挙げた。
「……ベルフェルクの力を借りることはできないか?」
その名が出た瞬間、地下闘技場に冷たい風が吹き抜けた。
レオン・ハイウインド__
あの戦い以降、生死さえ定かではない闇の戦士の影が、全員の胸に棘のように突き刺さる。
「……私が、通信を繋ぎましょう」
シュラウドが端末を起動する。
数瞬のノイズの後、像を結んだのは、小さな山羊髭を蓄え、冷徹な理性を象徴する白衣を纏った男――ベルフェルクであった。
〈……何の用だ。王朝の亡霊どもと関わるつもりはないと、再三告げたはずだぞ〉
その声には、冷たい拒絶と、消し去ることのできぬ無力感が混じっていた。
レオンを救いながらも、その心までは繋ぎ止められなかった後悔。それが今の彼を、狂気的なまでの商業活動へと駆り立てている。
「ベルフェルク殿……。我らには、貴殿の持つ『商業の天秤』が必要なのです」
〈貸す理由がないと言っている。失せろ〉
突き放す言葉。だが、レティシアは一歩も引かなかった。彼女は知っていた。この偏屈な商人の冷たい鉄格子の奥に、今も燃え続けている火種を。
「……ベルフェルク様。ご存知ですか? 最近、我が国に身寄りのない民が押し寄せてきている理由を。彼らは皆、口を揃えて言うのです」
レティシアは一呼吸置き、慈しむように、しかし残酷なほどの確信を持って告げた。
「――荒野で不気味な影に襲われた時、一筋の『青い残光』を見た、と。それが、この国へ向かう道標になったのだと」
通信の向こうで、ベルフェルクの呼吸が止まった。
静寂。
その異様なほどの沈黙は、通信越しの彼が、その場にいる全員の心臓を握り潰さんとするほどの威圧感となって膨れ上がる。
〈……でまかせを……ッ!〉
ベルフェルクの叫びは、激昂か、あるいは祈りか。
青い残光__それはかつて、彼らが守り抜こうとした、あの孤独な戦士が放っていた一閃に他ならなかった。
「彼らの言葉を受け取るならば……レオン様はご存命です。その身を今も、削りながら……彼は多くの人々を救っています」
レティシアの語気は、静寂に満ちた闘志を孕んでいた。その瞳には、嘘や欺瞞が入り込む余地などない。
〈何故だ……!〉
ベルフェルクの声が、通信のノイズを切り裂いて響く。
〈誰も彼を決して認めはしなかった! 救世の英雄どころか、災厄の種として忌み嫌われたんだ! なのに何故、レオンくんはそうまでして人間に……絶望の果てに自分を棄てた世界に、手を差し伸べるんだ!?〉
それは、理性を信条とする男が吐き出した、血を吐くような慟哭だった。理解できない。理解したくない。自分たちが救えなかったその心が、なおも輝きを失っていないなどと。
「ベルフェルク……俺はレオンという男に会ったこともなければ、その人柄すら知らん。だが__」
沈黙を守っていたジーク・ファティマが、重厚な声を響かせた。
「奴の行動原理だけは、どうしてか……俺は理解できてしまうんだ」
〈……何だと?〉
「奴は、クレイラという光を目の前で失った。その断腸の思い、誰かを失うという焦土のような苦痛を、もう他の誰にも味わってほしくはないのではないか。……俺たちも同じだ。かつては家族を、臣下を、愛すべき地を失った。だが俺は、復讐のために剣を血に染める道しか選べなかった。奴は違う。激情を抑え込み、その身を粉にして民を救っている。……俺には、決して選ぶことのできなかった道だ」
ジークの言葉は、地下闘技場の冷たい空気の中で鈍く、重く響いた。かつて紅蓮の騎士として暴虐を尽くした彼が認める、真の強者への敬意。
「レオン殿が繋ぎ止めた命を、この地に根付かせるためには、貴殿の力が必要なのです。……ベルフェルク殿。あなたには、絶望の泥濘から彼らを掬い上げる力があるはず。
違いますか?」
レオンが救い出した民を、ファティマという揺り籠に収めること。それは、姿なき守護者の意志を継ぐことに他ならない。
長い沈黙が流れた。
通信の向こうで、ベルフェルクが深く、重い溜息を吐き出す。それは天秤がどちらかに大きく傾いた合図であった。
〈……条件がある。それを呑むというなら、水面下でお前たちと協力関係を結ぼう〉
ベルフェルクはあくまで商人の顔を取り戻した。王朝との関わりが表沙汰になれば、中立を装う彼の会社は、ファティマを敵視する列強諸国から制裁を受ける。それはひいては、保護した民を路頭に迷わせることと同義だ。
〈俺と、イングラムたちを二度と接触させてくれるな。彼らに、俺の動向を知らせることも、俺が彼らを助けることも……未来永劫、あってはならない〉
「…………っ」
その言葉は、気配を殺して佇んでいたアデルバートの胸に、冷徹な刃となって突き刺さった。
仲間を想い、レオンを救おうとした同志たち。その絆さえも断ち切ることが、ベルフェルクが自分に課した「罰」なのだと。
〈これが、俺が提示する唯一の対価だ。……レティシア・ファティマ。お前の皇女としての覚悟が本物なら、人を導くという強い意志があるのなら、呑んでみせろ、そして救ってみせろ。その人々を……彼の意思を踏み躙ることは、この俺が許さん〉
通信が切れる。
残されたのは、端末から消えゆく微かな魔力の残滓と、重く沈んだ沈黙。
アデルバートは静かに眼を閉じ、どこかで戦い続ける友の、青き一閃を想った。
通信が途絶え、端末から微かな魔力の残滓が消えゆく。
闘技場に残されたのは、墓所のような静寂だった。ベルフェルクが突きつけた「決別」という条件__
それは、かつて同じ戦場を駆けた者たちの絆を切り刻む、冷徹な対価。
「……セリア。俺たちのことは気にするな。それで民が救えるなら、お前にとっても本望だろう?」
アデルバートの声は、いつものように淡々としていた。だが、その瞳の奥には、友を遠ざけねばならない諦観と、隠しきれぬ痛みが滲んでいた。
「アデル様……ありがとうございます……皇女として立つということは、このような残酷な決断さえも、天秤にかけねばならないのですね」
レティシアは憂いを帯びた表情で、視線を石床に落とした。
ベルフェルクは、レオンという「後悔」以外のすべてを切り捨てようとしている。イングラムたちの顔を見れば、自らの無力さと、救えなかった友の瞳が、鏡のように自分を刺し貫いてしまうから。
「そうだな……だが、俺たちは死ぬわけじゃない。ただ、あの偏屈な商人と会う口実がなくなるだけだ」
アデルバートの不器用な慰めに、ジークが静かに歩み寄る。
「……イングラムたちには、俺から連絡を入れておこう。今のお前に、その役割は重すぎる」
ジークはアデルバートの肩に一度だけ力強く手を置き、闘技場を後にした。シュラウドたちも、主君の孤独な配慮を察するように、足音を殺して後に続く。
広大な地下闘技場に残されたのは、レティシアとアデルバート、二人だけだった。
「すまない……レティシア、辛い役回りを押し付けちまったな」
「……お辛い思いをしているのは、アデル様の方ではないでしょうか」
「え……?」
不意を突かれたように、アデルバートが視線を上げた。
レティシアはゆっくりと歩み寄り、戦いの熱が残る彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「ベルフェルク様と、せっかく心が通い始めたというのに、その関係を自ら断たねばならない……それは、刃で斬られるよりも苦しいはずです。私のために、そして人々のために。あなたは迷うことなく、その絆を差し出してくれました」
彼女の言葉は、まるで診療の際に処方される霊薬のように、アデルバートの心の傷跡に深く、正確に染み渡っていく。
「ですから……辛い時は、いつでも私の胸を貸します。あなたが私を救ってくださったあの日と同じように」
「レティシア……」
ふふ、と彼女は聖母のような微笑みを漏らした。
そして、かつて「セリア」として救われたあの日から、一度も変わらぬ敬愛を込めて、アデルバートの頬に柔らかな手を添えた。
「二人きりの時は、あの時と同じように……『セリア』と呼んでください」
その手の温もりは、ベルフェルクが閉ざした氷の世界を溶かすほどに優しかった。
アデルバートは一瞬、戸惑うように視線を泳がせたが、やがて彼女の手を包み込むように重ね、短く、重みのある声を絞り出した。
「――ああ。ありがとう……セリア」
名前を呼ぶその声は、冷徹な暗殺者のものではなく、一人の少女を守り抜いた、一人の男としての安堵に満ちていた。
アデルバート・マクレイン。
彼は自らの「絆」を代償に、レティシアという名の光を、生涯かけて守り抜く道を選んだ。
王朝復権という激動の渦中。
華やかな会見の場、あるいは複雑怪奇な外交の卓上。レティシアが皇女として凛々しく言葉を紡ぐ時、その背後には常に、微かな蒼き風が吹いていた。
彼はある時は情報の糸を引く操り手として、またある時は交渉を優位に導く沈黙の威圧として。
そしてある時は、姉ルーデリアと共に、王朝の光を狙う毒牙を闇の中で葬り去る「暗殺者」として。
彼が築き上げた「暗部」は、王朝の正義が届かぬ領域を代行し、その双刃はレティシアが歩む道の石ころ一つさえも許さなかった。
領土拡大、国威発揚。
記録に残る功績の多くは皇女レティシアや皇子ジークの名と共に刻まれるが、歴史の行間には、常に「名もなき蒼き影」の献身が滲んでいる。
――二人きりになった静寂の中でだけ、彼は「セリア」と呼び、彼女はその胸に預けた。
表舞台の喧騒と、裏舞台の断罪。その境界線上で、彼は良き補佐官として、そして唯一無二の守護者として、その生涯を「彼女の平和」に捧げた。
蒼き暗殺者の物語は、王朝の黎明と共に、最も深い影となって完結する。
その影こそが、ファティマという国が放つ、どんな宝石よりも眩い輝きの正体であったことを、後世の歴史家は知る由もない。




