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第480話「君と一緒に」

星の瞬きさえ凍りつくような深淵の戦いは、終わりを告げた。


名もなき狂気、這い寄る混沌――


それら邪神との死闘を生き抜いた戦士たちは、血塗られた剣を鞘に収め、それぞれの宿命が待つ場所へと散っていった。


ルーク・アーノルドもまた、寄り添うレベッカと共に故郷の地を踏んでいた。

鼻腔を撫でるのは、かつての戦場で嗅いだ腐肉の臭いではない。干し草の甘い香りと、柔らかな土の匂いだ。頬を吹き抜ける風には、刺すような魔力の残滓もなく、ただただ穏やかに、彼らの帰還を祝福していた。


戦いなき安息。その象徴である、見慣れた家へと続く道。


ルークは、幾多の死線を越えてきたその手で、古びた木の扉に触れた。


「父さん、母さん……!」


「ただいま、帰りました!」


扉を開けた瞬間、溢れ出したのは眩いほどの生活の灯火だった。


「ルーク……それに、レベッカじゃないか!」


「ああ、本当によく……よく無事で……!」


震える声と共に、父と母の両腕が二人を包み込む。

その抱擁は、邪神の触手のように冷たく粘りつくものではなく、骨が軋むほどに力強く、そして焼けるように熱かった。


「いた、た……父さん、母さん……!」


「少し、力が強すぎますよ……っ」


二人が苦笑混じりに身体を叩いても、老いた両親はその腕を緩めようとはしなかった。


無理もない。彼らにとって、息子たちの旅立ちは死地への片道切符に等しかったのだ。悍ましき理の外側から生還した二人を抱きしめる感触は、神に捧げる祈りよりも切実な、奇跡の証明だった。


「……よぉ、英雄さん。随分と派手にやってくれたじゃない」


抱きしめられたままのルークの額に、悪戯っぽく指先を当てたのは、姉だった。


その瞳には、弟を誇る慈愛と、再会を喜ぶ潤みが同居している。


「姉さん……助けてよ、これじゃ息ができない」


「いいじゃない。五年間も音信を絶って放浪してたんだから、一日くらいは観念しなさい……それと、あんたたちに紹介しなきゃいけない驚きが増えてるんだよね」


姉が手をパンパンと打ち鳴らす。

トトト、と乾いた木の床を叩く、軽やかな足音。


それと同時に、ルークがこれまで一度も聞いたことのない、鈴を転がすような愛らしい声が響いた。


「おかーちゃん! おじちゃん、かえってきたの?」


現れたのは、無垢を形にしたような二人の幼子と、岩のように頑強な体躯を持つ一人の男だった。


「「…………?」」


ルークとレベッカは、呆然と目を見開いた。

戦場では一瞬の隙も許さなかった彼らが、まるで魔法にかけられたかのように硬直する。


「えっ……姉ちゃん、結婚してたの?」


「……初耳、ですよ……?」


二人の間の抜けた反応に、姉は後頭部を掻きながら笑った。

「あっれ、連絡届いてなかった? ……まあいいわ。紹介するわね、私の旦那と、この家の新しい騒がしさの元凶たちよ」


ルークをも凌ぐ大柄な男性が、次男を腕に抱いたまま、不器用だが温かな会釈を返した。


「よろしく……世界の救世主どの……」


「ひゃ、ひゃい……っ」


差し出された無骨な手を握ろうとした瞬間、その前に小さな、餅のように柔らかい掌が割り込んできた。 


「えへへー、あくしゅ、もーらった!」


次男がルークの指をぎゅっと握りしめる。

そのふにふにと柔らかな感触は、鋼の剣を握りしめ、タコができたルークの手の平に、確かな生の質感を伝えてきた。


「んっ、おじじ、だっこ!」


長男がルークの裾を引っ張り、まっすぐな瞳で仰ぎ見る。

その瞳の輝きに、邪神の影は微塵もない。


自分たちが地獄を這いずり、絶望を切り裂いて守り抜いたのは、この小さな瞳に宿る光だったのだと、ルークは深く理解した。


両親は静かに腕を解き、満足そうに頷いた。

次は、新しい世代が英雄を労う番だ。


「……抱くか?」


「ええ……いいんですか?」


レベッカが、恐る恐る、壊れ物を扱うような手つきで次男を受け取る。

ルークもまた、長男を力強く、だが羽毛に触れるような優しさで抱き上げた。


二人は、甥の柔らかな頬に自らの顔を寄せ、静かに、深く、瞼を閉じる。


そこにあったのは、冷酷な宇宙の真理ではなく、どこまでも泥臭く、愛おしい家族の拍動だった。


「あったかい……なぁ……」


「うん……本当に、暖かいね……」


その言葉は、故郷の夕暮れの中に溶け込み、二人の戦士の魂を、静かに眠りへと誘っていった。


◇◇◇


優しい陽の光が窓から挿し込んで来る。

ルークとレベッカはお互いの柔肌を感じながら、今だ微睡の中に意識を手放していた。


柔らかな陽光が、寝台で微睡む二人の瞼を優しく叩く。

指先に触れる互いの肌の熱。鼻をくすぐる清潔な寝具の匂い。


それだけで、昨夜までの安息が夢ではなかったと確信できた。


「おーい、英雄さんたち。いつまで夢の国にいるのさ」


扉越しに響く姉の快活な声が、二人の意識を完全に現実へと引き戻す。


「ふぁ……はにゃ?」


「ファティマ王朝?……とかいう大層な名前のところから、立派な紋章入りの親書が届いてるよ。後で目を通しな。ほな、ごゆっくり〜」


扉の隙間から、羽根のように舞い落ちた一枚の羊皮紙。

ルークは目元を擦りながらそれを拾い上げ、封蝋を砕く。


走り書きされた流麗な文字を追うごとに、彼の目は見開かれ、やがて叫びとなって朝の静寂を破った。


「な、なんだってえええ!?」


「朝から騒がしいわね……天井裏にネズミでも出た?」


「いや、もしかしてゴキブリか? ルークは昔から虫に弱かったしな」


父と義兄の呑気な言葉に、姉は呆れたように溜息を吐き、卓上のお茶を啜った。


「いや、父さん……この手紙の内容を知ったら、ネズミどころじゃなくなるよ」


ルークは真剣な面持ちで、レベッカに手紙を差し出す。


「え、私が読むの? ……コホン。

『親愛なるルーク様、レベッカ様。レティシア・ファティマにございます。

兄やアデル様やシュラウド様も変わりなく過ごしておりますが、本日は急ぎお伝えしたい儀があり筆を執りました。

近々、我がファティマ王朝は復権に向け、近隣諸国との合併会談を執り行う運びとなりました。

つきましては、お二方のご家族も併せて、王都近隣へ居を移されてはいかがでしょうか。

邪教の残党による報復の懸念もございます。費用の面はすべてこちらで工面いたしますので、どうか良いお返事を。

通信でも、お手紙でも、お好きな形式でご連絡くださいませ』」


「「「ええええええ!?」」」


食卓に、驚愕の唱和が響き渡った。


「ちょっとルーク、あんた……いつの間に王族の姫君なんて捕まえてきたのさ!」


「い、いつの間にかっていうか、旅の途中で偶然……ね?」


ルークが言葉を濁しながら説明する。


話題に上がった「ルルイエ」――かつて邪神を呼び込み、世界を狂気に陥れようとした教団の名に、父と母の顔にわずかな陰りが差した。

教団が崩壊したとはいえ、その信奉者たちは今も影に潜み、再起の機会を窺っている。


「ここも安全とは言い切れないか……」


姉が家を見回す。築十数年。風雪に耐えてきた木造の家は、確かに安らぎを与えてくれるが、強大な魔術的脅威の前ではあまりに無力だ。


「よし、ガキンチョども! お城の近くの、おっきな家に住みたいかー!」


「「おー!!」」


子供たちの元気な返事に、姉は「決まりね」と不敵に笑う。


「ちょっ、姉さん! 決定が早すぎるって!」


「いや、娘の言う通りだ。ルーク、今すぐ皇女様に連絡を入れなさい。魔導水晶で、スピーカーを最大にするんだぞ? お父さんもお声を聞きたいからな!」


「あ・な・た?」


「す、すいませんでした」


母の静かな眼光に父が沈黙する。


だが、母もまた、優しくルークの手を握った。


「でも、不安の種は摘んでおくべきね。ルーク、お父さんと同じ意見よ。必要な荷物だけまとめましょう」


「……ファティマ王朝か。どんな場所か、楽しみだ……」


レベッカの微笑みに背中を押され、ルークは大きく頷いた。


「よし……それじゃあ、連絡するぞ!」


ルークが手にした魔導端末が、微かな唸りとともに淡い光を放った。

まるで待ち構えていたかのように、レティシアからの通信が空間に像を結ぶ。


〈ルーク様、レベッカ様。お久しぶりでございます。あの死闘から、ようやく七日が過ぎましたね。お変わりないようで何よりです〉


「レティシア様! こっちは、その……ご覧の通りです」


投影された皇女の気高くも慈愛に満ちた微笑みに、父は鼻の下を伸ばし、直後に母の苛烈な肘鉄がその脇腹を貫いた。


〈早速ですが……既に、私の従者をそちらへ向かわせました。お引越しの準備は、よろしいでしょうか?〉


この場にいる全員の思考が停止した。


「救世主」の決断よりも、「王朝」の采配は遥かに速い。


〈少々強引かとは思いましたが……お荷物はすべて、こちらで輸送の手配を済ませております。そろそろ、到着する頃合いかと〉


その言葉と同時に、家の外で重厚な、だがどこか浮世離れした地響きが鳴り響いた。


ルークとレベッカは、一瞬にして戦士の顔に戻り、腰の柄に手を添えながら扉を蹴るように開く。


「お迎えに上がりました。アーノルド御一家の皆様」


そこにあったのは、陽光を弾く白銀の装甲を纏った「亜光速馬車」


天馬の血を引く八頭の駿馬が、大地から数センチ浮いた状態で、静かな闘志を瞳に宿して立っていた。


レティシアの合図とともに、影のように現れた従者たちが、魔法じみた手際で家財道具を次々と馬車へと回収していく。


「さあ、奥様、お嬢様。未来の騎士殿たちも、どうぞお乗りください」


「ルーク様、レベッカ様も。新たな物語が、あなた方を待っております」


あまりに唐突な人生の転換。

家族が呆然と立ち尽くす中、子供たちだけは歓声を上げ、光を放つ馬車へと飛び込んでいった。


「……さようなら、俺たちの家。ここでの思い出は忘れないよ」


住み慣れた家を見上げ、感慨深く呟くルーク。

だがその隣で、姉が現実を突きつけるように冷たく言い放った。


「あんた、何を名残惜しんでるのさ……ここ、賃貸なんだから。

さっさと大家さんに鍵返してきな」


「……えっ。この家、借り物だったの!?」


「当たり前でしょ。家賃更新の前でちょうど良かったわ。ほら、行くわよ!」


「…………えぇ」


英雄の感傷は、姉の現実的な一言によって霧散した。

ルークは釈然としない表情のまま、光の尾を引いて走り出した馬車に揺られ、故郷を後にした。


古びた家の扉には、ただ一つ、返却された銀の鍵だけが残され、新しい時代の幕開けを静かに告げていた。


亜光速馬車が引く光の尾は、彼方の地平へと消えていく。


置き去りにされた銀の鍵は、夕刻の光を反射し、かつてここに一人の若き英雄が、一人の戦士として生きていた証を静かに湛えていた。


激しく、けれど心地よい振動が、亜光速馬車の客室に満ちている。 


流れる景色は光の尾となって後方へと消え去り、閉ざされた空間にはルークとレベッカ、二人だけの時間が流れていた。


ルークは膝の上で固く握りしめた自分の手を見つめた。かつて血と泥に汚れ、死を振り払うことしかできなかったその手が、今は微かに震えている。


「あの、さ……レベッカ……?」


呼びかける声は、自分でも驚くほど掠れていた。

レベッカが不思議そうに小首を傾げ、覗き込んでくる。窓から差し込む移ろいやすい光が、彼女の瞳に複雑な彩りを与えていた。


「……うん? どうしたの、ルーク」


「……あ、あの……王朝に着いて、式を挙げたらさ」


ルークは意を決して、赤らめた顔を上げた。

彼女の視線を真っ向から受け止める。それは、名もなき狂気と対峙した時よりも勇気を必要とする行為だった。


「俺、君と一緒にいつまでも……何でもない日常を、平和に過ごしていたいんだ。剣を振るう理由わけじゃなく、君が隣にいる理由だけを、数えながら生きていきたい……」


平和に過ごしたいという言葉が、戦場を駆けてきた二人の間では、何よりも重く、神聖な誓約として響く。


レベッカは一瞬だけ目を見開き、それから春の陽だまりが溶け出すような、柔らかな微笑みを浮かべた。 


「ふふ……うん、私もだよ、ルーク」


彼女が重ねた手は、驚くほど暖かかった。


ルーク・アーノルド__


クトゥルフら邪神を討伐し、星を狂気から救った「風の剣士」の物語は、ここでひとつの区切りを迎える。


彼はその後、ファティマ王朝の庇護下で家族と共に穏やかな移住生活を始めた。


隣り合うのは、幾多の戦場を共に駆け、今は愛しき伴侶となったレベッカ。

彼らの間には、三人の娘と一人の息子という、新たな希望が授かった。

英雄の証であった剣は、いつしか暖炉の飾りへと変わった。


かつて深淵を切り裂いたその手は、今や子供たちの頭を撫で、妻の手を握り、子どもたちを抱き留めるためにある。


彼は剣を置き、良き父として、最愛の人々に囲まれながらその天寿を全うした。


――その生涯は、どの神話よりも、美しく暖かい光に満ちていた。

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