第479話「光を傍受する者たち」
静かに朝焼けが、大地を包んでいく。
それは、昨日までの地獄が嘘であったかのような、あまりに淡々とした、日常と変わらない夜明けだった。
しかし、人類が辛くも手にした勝利の代償は、あまりに重く、残酷だった。
腹に響くような振動が、目覚めたばかりの大地を揺らす。それは歓喜を打ち消す、世界崩壊の警鐘。
「何が起こっているんだ!? クトゥルフたちは俺たちが倒したはずだろ!」
ルークが狼狽し、叫ぶ。その言葉を、フェンリルの冷徹な一言が遮った。
「地球の概念たるクレイラが消滅した今、支えを失った星が崩落を始めるのは時間の問題だ……」
「なんだと……!? ふざけるな! せっかく、仲間を喪いながら勝ったっていうのに! こんな結末があるか!」
アデルバートがフェンリルの胸ぐらを掴み、激しい剣幕で迫る。だが、北欧の狼は抗うことなく、諦観を湛えた瞳で呟く。
「あるんだよ……残念ながらな」
「ま、滅ぼされるよりはマシさ。地球ももう、永いこと生きてきた……俺たちは、最初からこういう運命だったってことさ」
ロキが達観したように、空の陽光を見上げる。
これが、最期に見る景色。誰もがそう確信し、絶望に身を委ねようとした時だった。
「はぁ……あなたたち、何を勝手に諦めているの?」
凛とした声が、重苦しい空気を一刀両断にする。
ロニが、迷いのない瞳でそこに立っていた。
「勝手にって……俺たちにはもう手段はないんだ。クレイラは、君たちの母さんはもう消滅してしまったんだぞ!」
腕を組んでいたベルフェルクが反論しようとして、ふと、その視線を上げた。
「おい……お前ら、まさか……」
「先生御名答〜♪」
レネがロニの横にぴたりと寄り添い、無邪気に肩を組む。
「“私たちがいる”んだよね〜」
レオンの双眸が、驚愕に見開かれる。彼女たちの言葉。その裏に隠された、あまりに救いのない解決策に、全員が気づいてしまった。
「お察しの通りよ。私たちは母クレイラの遺伝子を受け継いで造られた人工生命体」
「そう。お姉ちゃんと私たちが一つに“戻れば”、地球は概念の力を取り戻す。この崩落も終わって、みんなが普通の生活を送れるようになるんだよね〜」
ロニとレネは、まるで今日の献立でも話すかのように淡々と、自らの死……その役割を告げた。
「やめろ……もういいんだ。君たちまで犠牲になる必要はない!」
レオンが這い上がるように立ち上がり、二人の肩を掴んで激しく揺さぶる。
その手を、二人は拒まなかった。ただ、優しく自分たちの手を重ね、静かに、ゆっくりと首を横に振る。
「お父さん……これが、私たちが自分で決めた、やりたいことなの」
「うん。娘として、最初で最後のお願い……聞いてくれないかな?」
「聞けるわけが、ないだろう……!? 俺に、また失えというのか!?」
崩れ落ち、膝を突くレオン。愛する兄を、守るべき巫女を、そして今度は娘たちを。
絶望に震える背中を、二人の姉妹は優しく、暖かく抱きしめた。
「大丈夫よ。母さんも、私たちも……お父さんのことをずっと見ている。だから、悲しいと思う必要はないの」
「もう、どうして泣くのさ、お父さん。娘の晴れ姿を見ててほしいのに。そんな顔をされたら、やりにくくなっちゃうよぉ……」
レネの強気な声が震え、その瞳から大粒の涙が溢れ出した。
ロニもまた、堰を切ったように涙を流し始める。
「私たちだって……別れたくない。生きて、お父さんと一緒にいたかった。けれど、あなたたちが死んでしまうことの方が、何倍も辛いのよ」
「ロニ……」
「ね、お父さん。私たちの気が変わっちゃう前に、往かせてくれないかな……お願い」
「レネ……俺は、俺は……!」
レオンの苦悶が、朝焼けの空に虚しく響き渡る。
全ての命を救うために、目の前の最愛を差し出さねばならない。
神話の終わりは、どこまでも残酷な選択を彼に突きつけていた。
「……レオンさん」
イングラムが震えるレオンの肩に手を置いた。その瞳には、親友の痛みを半分引き受けるような、静かだが鋼のごとき決意が宿っている。
「イングラム、お前はいいのか!? 俺よりも長く彼女たちと過ごし、共に戦ってきたはずだ! なのに、それを……!」
「分かっています! だけど……彼女たちの決意を、俺たちが揺らしてはいけないんだ……!」
イングラムの叫びに、ルーク、アデルバート、ルシウスもまた、沈痛な面持ちで一歩前へ出た。
同意はしていない。だが、彼女たちが選ぼうとしている未来の重さを、戦士として受け止めていた。ベルフェルクだけは最後まで腕を組み、愛弟子たちの最期を認めまいとするように、深く、苦渋に満ちた顔で地面を睨みつけている。
「お前たち……!!!」
レオンの絶望を余所に、時は残酷に刻まれていく。大地の振動はもはや無視できないほどに大きくなり、亀裂からは星の血潮とも言えるマナが噴き出し始めていた。
「もう時間がないわ……レネ、心の準備は?」
「バッチリだよ〜! この時代に来た時から、ずっと……ずっと覚悟してたことだもん」
ロニとレネ。二人の姉妹は固く手を繋ぎ、一歩、また一歩と一同から距離を取る。
「……やめろ! 待て!!」
レオンが遮二無二駆け出す。
しかし、その指先が彼女たちに触れる直前、接触を拒絶する強力な黄金の結界が、弾けるように展開された。
それは、二人の中に眠る地球の概念が、自らを核へと還そうとする本能的な拒絶。
「ルークさん……レベッカさんを大切にしてあげて。ルシウスさん、自棄になるのもほどほどにね」
ロニが静かに、一人ひとりの顔を見つめて言葉を贈る。
「イングラムさんとたくさんお話できて、本当に楽しかったです! アデルさんと生で会えたこと、一生……ううん、消えても忘れないくらい感激でした!」
レネが涙を拭い、ひときわ明るい声で笑ってみせた。
そして二人は、最後まで険しい顔を崩さない師へと向き直る。
「先生……たまには、笑って見せてくださいね。私は、先生の笑顔が好きなんですから」
「うんうん! 先生の顔は、親戚のおじちゃんみたいな感じで、すっごく好きだったよ!」
「──っ」
ベルフェルクの喉が、微かに鳴った。組んでいた腕に力が入り、鋼のような筋肉が震える。
黄金の光は、二人の足元から天高く立ち昇り、その輪郭を空気に溶かし始めていく。朝焼けの光と、彼女たちの命の光が混ざり合い、世界はかつてないほどに神々しく、そして悲しく輝いた。
「最後に……父さん」
やめろ、とレオンは激しく首を横に振る。だが、光の膜に遮られたその手は、もう二人の肌の温もりを捉えることはできない。
「会った時間はとても短かったけれど、父親と一緒にいられて、本当に良かった。これまでのどの時間よりも、幸せだったわ。ありがとう」
ロニの目に、一筋の涙が頬をなぞり、溢れ落ちる。それは人口の生命体として生み出された彼女が、最後に残した、あまりに人間らしい愛の証だった。
「お父さん! ありがとうね! 私たちの人生、あんまり自慢できるものじゃなかったけど……! 最後に最高にいい思い出ができたよ! 大好きっ!」
レネはひときわ大きく、千切れるほどに手を振った。満面の笑み。けれど、その瞳からは絶え間なく涙が零れ続けている。
やめてくれ。頼むから、そんな顔で、そんな言葉を遺して逝かないでくれ。
レオンの心の叫びは、光の粒子が放つ清冽な音の中に溶けて消えていく。
「行くな……行かないでくれ……!」
「大丈夫よ、私たちは……常にあなたの中に、お父さんと共にいるわ……」
二人の姿は、眩い光の奔流となって天へと昇り、そして染み込むように大地の底へと還っていく。
刹那、狂ったように荒ぶっていた地球の震動が、嘘のように静まった。
星の鳴動は、凪いだ海のような静寂へと変わり、ただ穏やかな朝の風だけが吹き抜ける。
「……く、そぉッ!」
レオンは、光が消えたあとの虚空を掴もうとしたまま、ゆっくりと膝を突いた。
そこにはもう、二人の少女の気配はない。繋いでいた手の熱も、明るい笑い声も。
ただ、彼女たちが遺した明日という名の光が、静かに世界を照らしているだけだった。
「レオンさん……」
イングラムが歩み寄り、共に膝を折って、友の震える肩を抱く。
ルークも、アデルバートも、ルシウスも。戦い抜いた者たちが次々とその場に跪き、星に還った二人の、そしてライルとクレイラの魂に黙祷を捧げた。
朝焼けの光は、勝利した英雄たちを等しく照らし出していた。
しかし、その眩い黄金の光すら届かない、どこよりも深く、濃い闇を纏った影が一つ。
「おーい! ルーク! みんなぁー!」
静寂を破ったのは、レベッカの弾んだ声だった。彼女は各地で死線を越えてきた仲間たちを引き連れ、ボロボロになりながらも、最高の笑顔でこの戦場へと辿り着いたのだ。
「よかった、よかった……! 生きててくれて、本当に!」
レベッカがルークに飛びつき、その胸に顔を埋める。ルークはその温もりを、壊れ物を扱うような手つきで優しく抱きとめた。
「死ぬわけないだろ。君を一人残してなんて、いけないよ」
セリアとシュラウド、ジークがアデルバートのもとへ駆け寄り、畏敬の念を込めて頭を垂れる。
「アデル様……! ご無事だったのですね!」
「……あぁ」
「貴公らは真の英雄です。我らの地球を、救ってくださった」
「誇るべきだろう……ありがとう、共に戦ってくれて」
アデルバートは短く応え、戦友たちの無事をその瞳に焼き付けた。
ルシウスは兄ルキウスと再会し、言葉を交わす代わりに固い握手を交わした。
「よくやった、ルシウス」
「兄さんこそ、よく無事でいてくれた! 俺は、それが何よりも嬉しいよ!」
一方では、ベルフェルクがシンディから手厳しい肘鉄を浴び、怒鳴り散らされている。
「テメェ……負傷者にその態度とは、頭の中解体してやろうかぁ!?」
「おいおい、これくらい許せよ! 俺たち、生き延びたんだからよ!」
その騒々しささえ、今は平和の訪れを告げる音楽のように響いた。
イングラムの肩をソフィアが優しく叩き、リルルは我慢しきれずに彼に抱きつく。
イングラムはその小さな重みを、ただ静かに受け止めていた。
幸福と安堵が交差する、黄金の朝。
だが、その輪の中心から少し離れた場所で、男は一人、その光景を眺めていた。
「……そうだ。お前たちは、それでいい。戦いを棄てて、生き続けてくれ」
レオン・ハイウインド__
兄を喪い、愛した女性を喪い、そして命を賭して自分を生かした娘たちを、その腕から零した男。
再会を喜び合う仲間たちの姿を、彼はこの世で最も尊く、そして自分にはもう二度と手の届かない幻を見るような、諦観に満ちた表情で焼き付ける。
「俺のことも……忘れてな」
誰にも、イングラムにさえも声をかけず。
彼は背を向け、音も無く歩き出した。
英雄たちの笑い声が遠ざかる。彼が踏み出す一歩ごとに、その影は周囲の光を拒絶するように濃さを増していく。
人々を救い、星を繋ぎ止めた英雄は、祝福の光の中に居場所を見出すことはなかった。
彼はただ、愛した者たちが遺した明日という名の荒野へと、独り消えていった。
ふわり、と優しい風が英雄たちの間を吹き抜ける。
その風の行方を追うように、イングラムはふと顔を上げた。
「レオン……さん?」
胸をざわつかせる、奇妙な喪失感。イングラムはすぐさま周囲を見渡した。
再会を喜び、涙を流し、互いの無事を確かめ合う仲間たちの輪。その喧騒の中に、先ほどまで確かにそこにいたはずの、あの孤高の背中が見当たらない。
「レオンさん! どこだ、レオンさん!!」
イングラムの声が、平和を取り戻した朝の平原に響く。
ルークも、ルシウスも、その叫びに弾かれたように周囲を探し始めた。
だが、黄金の陽光が照らし出すのは、戦いの終わりを告げる静かな大地ばかりだった。
地面に残された、幾つかの深い足跡。
それは仲間たちのいる輪から離れ、誰もいない地平の先へと、迷うことなく真っ直ぐに続いていた。しかし、その跡もまた、吹き抜ける風が運ぶ砂に紛れ、刻一刻と消え去ろうとしている。
「どうして……どうして、何も言わずに……っ」
イングラムは、レオンが消えていったであろう彼方を、いつまでも、いつまでも凝視し続けた。
救われた命、救われた星。
だが、その救済を最も受けるべきだったはずの男は、すべての光を仲間たちへ預け、独り闇の底へと帰っていったのだ。
世界は戦士たちによって救われた。
繰り返されてきた悲劇の連鎖は断ち切られ、明日を奪い合う神話はここに潰えた。
人々はこれから、愛する人の元へ帰り、当たり前の日常を紡ぎ始めるだろう。
だが、あの男だけは__
兄ライルの誇りを背負い、クレイラの祈りを抱き、ロニとレネという娘たちの愛を刻んだレオン・ハイウインドだけは。
誰にも知られることのない、光の届かぬ場所へと姿を消した。
朝焼けは完全に黄金へと変わり、世界はこれ以上ないほどに眩しく、輝かしい一日の始まりを告げる。
英雄たちの物語は、語り継がれるだろう。
だが、その傍らで。
独りどこかへと往く男の足跡は、誰に知られることもなく、静かに、優しく、風に溶けて消えていった。




