第478話「最後の戦い」
最速の風が、音を置き去りにして戦場を疾駆する。
放たれた黄金の烈風。その一閃はクトゥルフの肉体から滲み出る瘴気を容易く断ち切り、霧散させていく。
「遅い!」
「あぁ、生温いな!」
アデルバートが放つ深い海の斬撃。ヒュドラの毒が混じった海本来の力が、うねる触手を根本から腐食させ、断ち切っていく。
「ベルフェルク、手を貸してくれ!」
「ふん、いいだろう!」
ルシウスとベルフェルク、二人の肉体に黒と金の破壊エネルギーが満ち溢れる。練り上げられた衝撃波は、迫り来る眷属たちを、接触することさえ許さず悉く粉砕した。
「炎熱!」
「壊せるものなら、壊してみろよ……俺たちを!」
ルシウスの放つ灼熱と、土壁の圧力が巨大な質量となって邪神を襲う。
“ふん! 生温い!”
黄金の希望を、漆黒の絶望が打ち消そうと渦巻く。
この地球が永年孕み続けてきた総ての憎悪、負の感情を会得しているクトゥルフ。
対するは、あらゆる時代の生きとし生ける命から受け取った、想いの結晶を宿す戦士たち。
両者の力は拮抗し、ルルイエの空間そのものを軋ませていた。
「リルル、合わせてくれる?」
「しょうがないなぁ、今回だけだよ?」
「はいはい、行くよ!」
ソフィアとリルルの跳躍が、クトゥルフの懐へと伸びる。大鎌の一振りと邪悪な槍の一撃。双方が強靭な悪魔の肉体を深く斬り、貫いた。
“このッ、小娘どもが!”
ルークを狙い、顎下の触手が猛速で振るわれる。だが、放たれた四つのマナがそれを弾き飛ばし、致命的な接触を免れさせた。
「血が頭に上っているのね。神が聞いて呆れるわ」
「仕方ないよお姉ちゃん、アレも不完全だもん。ねぇ、クトゥルフ?」
ロニとレネの見事な連携。不敵な嘲笑と共に放たれた一撃が、クトゥルフの頭部に深い傷を刻み込む。
“おの、れぇ……! 馬鹿にしおってからにぃ!”
「行こう、クレイラ! 君に合わせる!」
「うん、君となら……!」
ライルが両腕を交差させ、仄かな白い光を放つ。その純粋なマナがクレイラへと流れ込み、爆発的な地球のエネルギーへと変換された。
極低温の氷の刃が、ルルイエのすべてを急速に凍てつかせていく。
“キサマの一撃など、必ず相殺してくれるわ!”
「やってみなよ!」
斜めに切り払われた巨大な凍剣。それは邪神の防壁を砕き、ルルイエの天井と側面を斬り伏せ、絶望の雲の向こう側にある空の色彩を映し出した。
クトゥルフは防御に全エネルギーを集中させたものの、星の怒りを込めた一撃を完全に防ぎきることはできなかった。
「イングラム!」
「はい、叩きつけます!」
黒と紫の影が、天高く跳躍する。
レオンが宿す、感情の混じっていない孤高の闇。
イングラムが振るう、数多の想いと歓喜が奔流となった紫紺の雷鳴。
「クトゥルフ!」
「終わりにしてやる!」
すべてを屠る拳と、邪悪を穿つ星槍グングニル。
同時に放たれた二つの究極が、強度を失ったクトゥルフの肉体を突き破り、その奥底に潜む神核へと到達した。
彼らには、それが砕ける音が聞こえた気がした。
クトゥルフを覆い纏っていた瘴気は、緩やかに細まり、霧散していく。振り上げられていた無数の触手も、もはや形を維持できず、だらりと力なく垂れ下がった。
「みんな……!」
戦士たちは肩で息をしながら、並び立って崩れゆく巨躯を見上げる。
“核を潰したところで、我らが潰えると思ったか……!”
怨念の塊となった邪神が、最期の力を振り絞り、悪あがきの一撃を叩きつける。
「キサマ、往生際の悪い……!」
レオンとライル、ロニとレネが即座に前に出た。双子たちの連携が、押し潰されそうな重圧を受け止め、火花を散らす。
「みんな……これが本当の、最後の一撃だ。全力を出すぞ!」
「「「「おうっ!!!!!」」」」
イングラムの号令に、万雷の咆哮が応える。
「へへ、なら俺たちの神性もぶっ放しても構わねえよな! 消えねえ程度によぉ!」
「生命の輝きには劣るが、奴を屠る添え物には十分だろう」
ロキが、フェンリルが、ヨルムンガンドが、不敵な笑みを浮かべて災厄の神性を集約させていく。
「ふん……かつてラグナロクで世界を滅ぼそうとした俺たちが、地球を救うために命を賭すとは。皮肉なものだ」
フェンリルが独白のように呟き、その牙を研ぎ澄ませる。
「今だ、やれ! イングラム! この不毛な戦いに、幕を引け!」
「ああッ!!」
イングラムが、原初の槍グングニルを高く掲げる。
ルークの風、アデルバートの水、ルシウスの炎、ベルフェルクの土。リルルの千の神性、ソフィアの死の概念。
そして、星の意思たるクレイラが導く、全生命の想い。
それらすべてが奔流となって槍の穂先へと注がれ、グングニルは一人の人間では持ち上げることすら叶わぬ、巨大な希望の質量へと神化した。
イングラムは地を蹴り、空を裂いて跳躍する。
それは、明日を信じた一人の槍兵が放つ、歴史上最も重く、最も眩い一撃。
「おおおおおおおおおッ!!!!!」
ルークたちのマナがイングラムを押し上げ、極地へと加速させる。
“イングラム……! イングラム・ハーウェイ!! キサマを器にしたことが、我らの誤算だったというのかぁぁぁぁぁ!!”
断末魔の叫びを上げる巨躯を、聖なる槍が深々と貫いた。
鈍い、肉に鉄をねじ込むような音が静寂を引き裂く。
「あぁ……そしてもう一つ、誤算を教えてやる」
“……ぬ、ぅ!?”
「キサマらが生命を、支配できると思い上がったことだッ!」
グングニルが引き抜かれた。
溢れ出した圧倒的な希望の奔流が、クトゥルフの内にある瘴気を、絶望を、負の感情を、根こそぎ浄化していく。
「見ろ、クトゥルフが……!」
貫かれた亀裂から、清冽な光の粒子が溢れ出す。
“……ぁ、あぁ……これが、希望か”
邪神の口から漏れたのは、意外なほどに穏やかで、優しい声だった。
“こんなものに……我らは、敗れたのか……”
「──」
誰もが、沈黙の中でその最期を見守っていた。
下半身はすでに光の粒子となって霧消し、残された頭部が空に溶けていく。
“良い……もの、だな……光というのは”
クトゥルフは、消滅した。
かつてこの星を、時間を、魂を支配しようとした混沌は去った。
イングラムたちは、ついに地球の呪縛を断ち切った。
主を失った消滅したルルイエ。
彼らの中に満ちていた黄金の光は、役目を終えたかのように緩やかに霧散していった。
同時に、絶対的な力の代償が戦士たちの肉体を襲う。支えを失ったかのように、それぞれが片膝をつき、激しい息を荒げた。
「だが……俺たちは勝てた。これで……!」
イングラムが希望を口にしたその瞬間、ルルイエがこれまでとは異質の激震に揺れる。
主を失い、崩壊へと向かう聖域の、声なき意志。すべてを道連れにして無へ帰ろうとする奈落の咆哮。
「……みんな、動けるか!?」
唯一、希望の光の影響を受けなかったレオンは、即座に全員へ鋭い視線を送る。
ルークが、ルシウスが、満身創痍ながらも武器を杖代わりにして、なんとか動けることを示す反応を返した。
「よし、ここから脱出するぞ! 地上に辿り着くまで堪えるんだ!」
レオンが退路を確保しようと一歩踏み出した、その時。
「逃げ出せるといいなぁ……? レオン?」
粘りつくような、聞き慣れた声音が背後から響く。
戦士たちの背筋に、クトゥルフの威圧感とはまた異なる、冷ややかで狡猾な悪寒が走った。
主を失い崩壊を始めたルルイエに、絶望は形を変えて舞い戻った。
「──ッ! レオン!」
兄、ライルの叫びが響く。咄嗟にレオンの前に割って入ったその背中を、非情なる銀閃が刺し貫いた。
ザクリ、という生々しく重い音が、勝利に沸いたはずの空気を凍りつかせる。
「……ぐ、ぁ」
無慈悲に刃は引き抜かれ、ライルは深紅の鮮血を撒き散らしながら、冷たい石畳へと沈んだ。
「ライル……ライルッ!!!」
全員が、驚愕に目を見開く。邪神を討ち果たし、脱出を目前にしたこの瞬間に現れた最悪の「不純物」。
その声の主は、崩れゆく瓦礫の上で悠然と、狂気に満ちた笑みを浮かべていた。
「……キサマぁ!」
レオンの瞳に、烈火のごとき怒りが宿る。視線の先にいたのは、フィレンツェ・シーガル。
「あ〜あ……残念だよ。ようやく大っ嫌いなお前を殺せるかと思ったのに、なぁんでカッコつけるかなぁ、おにーさん」
フィレンツェは冷酷にライルの脇腹を蹴り上げ、彼を仰向けに転がした。その暴挙に、レオンは地を蹴り、フィレンツェへと疾駆する。
だが、彼はその怒りさえも楽しむように、重力を無視して緩やかに空中へと浮遊した。
「まあ、いいや……レオンさ、ありがとうな?クトゥルフを倒してくれて……ククク」
「キサマ、降りてこい! その面を叩き割ってやる!」
「鼻で笑ってやるよ、そんな負け犬の遠吠え」
フィレンツェは嘲笑を浴びせ、高らかに宣言する。
「これで、邪神討伐の功績は晴れてシーガル家、もとい俺のものとなった。イングラムたちもよく働いてくれたよ。“俺の部下として”な」
満身創痍のイングラムたちが怒りに震えながら彼を睨みつけるが、フィレンツェの独演は止まらない。
「レオン……お前にはこれまでのすべての黒幕としての役を担ってもらう……! ククク、ありがとう、本当に、ありがとう! ハハハハハハハハ!」
狂った笑い声をルルイエに響かせ、フィレンツェはその場から姿を消した。
「待て──!」
「ライルさん……!」
ソフィアが駆けつけ、すぐさまライルの容体を確認する。だが、その顔は瞬時に青ざめた。
心臓を貫かれた一撃は、もはや手遅れであることを告げていた。
追い打ちをかけるように、ルルイエの崩壊は速度を増し、天井が巨大な轟音と共に崩れ落ちてくる。
「クソ……クソっ! 俺は、俺は──」
レオンは顔を伏せ、その拳を血が滲むほどに握りしめ、全身を小刻みに震わせる。崩れ落ちる膝。ライルの亡骸に、熱い涙が零れ落ちる。
勝利の歓喜は、絶叫と鮮血によって塗り潰された。
崩落し、断末魔を上げる神殿の最深部で、運命は残酷なまでにその鎌を振るう。
「レ、オン……」
「喋るなライル……喋らないでくれ……!」
レオンは喉を掻き切るような悲鳴を上げながら、ライルの身体を抱き寄せた。手の隙間から溢れ出す熱い血は、もはや止める術がない。
心臓を貫いたフィレンツェの銀閃は、ライルの生命そのものを根こそぎ奪い去っていた。
ライルは震える弟の頬に、氷のように冷たくなった手を添える。
その瞳は、霞みゆく視界の中で、ただ一人、最愛の弟の姿だけを追い求めていた。
「お前たちは……脱出しろ」
「馬鹿を言え! お前も、お前も一緒に帰るんだ……!」
レオンの叫びは、虚しく崩落の轟音に掻き消される。
ライルは力なく、しかし至高の慈しみを持って首を横に振った。
その顔に浮かぶのは、死を目前にした者の恐怖ではなく、大切なものを守り抜いた者だけが宿す、あまりに清冽な安寧だった。
「ごめんね……私も、もう──」
背後から届いたその声に、レオンの心臓が凍りつく。
恐る恐る振り返った先__
そこには、光の粒子となって指先から透け始めたクレイラが、崩れゆく瓦礫の中で独り、膝を突いていた。
「身体が、持たないみたい……」
困ったように、けれどどこかいたずらっぽく笑う彼女の身体は、すでに現世の質量を失い始めていた。
地球の概念、その化身として戦い抜いた代償は、彼女という存在そのものの消滅となって現れていた。
「そん、な……! こんなところで、消えてしまうというのか!? クレイラッ!」
「本当に、ごめんね……」
クレイラは最後の力を振り絞り、レオンに歩み寄り、その首に細い腕を回して優しく抱きとめた。
彼には、抱き返す力さえ残っていなかった。ただ、彼女の肩に顔を埋め、子供のように嗚咽を漏らすことしかできない。
「もう、なんで泣いてるの? 君にそんな顔は、似合わないよ」
彼女の肌が、触れている箇所から温かな光へと変わっていく。
「なぜ……なぜなんだ……! ここまできて、何もかもやり直せると言う時に!」
「……みんな、レオンをお願い。彼を支えてあげてね」
その微笑みは、地獄の如き崩落の中で、唯一降り注ぐ後光のように美しかった。
フェンリル、ロキ、ヨルムンガンドの三柱は、断腸の思いでレオンを力ずくで引き剥がし、その抱擁から引き離す。
「何をする! 離せ! 離してくれ!!」
暴れるレオンの瞳から溢れる涙が、クレイラの光の粒子と混ざり合い、空中に飛散する。
大地は裂け、天井から巨大な岩塊が容赦なく降り注ぐ。脱出の路が、刻一刻と瓦礫で埋まっていく。
「俺の最期の、光のマナだ……受け取ってくれ、みんな……!」
ライルの身体から、最期の黄金の奔流が放たれた。
それはイングラムや仲間たちの肉体を貫き、死神に刈り取られかけていた疲弊を強引に拭い去る。それは奇跡などではない。
ライルが、自らの命の残滓を燃やし尽くして作り出した、残酷なまでの逃走のための力だった。
「時間がない……出るぞ!」
フェンリルは振り返り、最期にライルを見やった。
ライルは、驚くほど穏やかな表情で、遠ざかる弟の背を見送っていた。
「レオン……生きてね……それが、私の、ううん……“私たちからの”最期の願い」
「クレイラあああああああぁ!!!!!!」
崩落の壁が、二人の姿を無慈悲に遮断する。
岩が、塵が、そして絶望が、レオンの伸ばした手の先を塗り潰していく。
喉を枯らした絶叫だけが、暗い坑道に虚しく反響した。
静寂が戻りつつある崩落の底で、残された二人の魂が触れ合う。
「ライル……よく頑張ったね。お疲れ様」
「君ほどじゃ、ないさ……だが、あぁ……ちょっと疲れた……少し、眠るとするよ」
「うん……お休み__」
ライルの瞳に最後に映ったのは、瓦礫の隙間から差し込む月の光でも、黄金の希望でもなかった。
それは、自分を迎えに来たクレイラの、慈母のような、どこまでも優しい微笑みだった。
二人の姿は、ルルイエの闇と同化するように、静かに、そして永遠に消えていった。




