第477話「復活の聖槍」
世界は、黒であった。
あらゆる事象が塗り潰され、ただ一点の自意識を除いて、そこには純然たる無が横たわっている。
「俺は、死んだのか……?」
イングラム・ハーウェイは、魂のみとなってそこに漂っていた。
五感も、記憶も、かつて肉体に宿っていた時のまま。
「いや……死んではいない。思い出した。俺は奴に、ヨグ・ソトースに身体を奪われたのだ」
あの時の感覚が、鮮明な戦慄を伴って蘇る。
得体の知れない冷たい何かが、己という存在を浸食し、塗り潰していくかのようか底なしの異質感が
ただただ在った。
「早く戻らなければ……」
“戻って、一体どうするというのだ”
静寂を切り裂き、自分以外の「有」が突如として姿を現した。
不気味な黒紫色の鈍い光を放ちながら、その声は虚無に響く。
「……ヨグ・ソトース。その様子だと、強制的に退場させられたようだな」
外宇宙の邪神を放逐できるのは、ライルとレオンの兄弟をおいて他にない。イングラムは、彼らへの揺るぎない信を口元に湛えた。
「どうするか、だと? 決まっている。肉体に戻り、再び皆と共に戦うまでだ」
“お前が起きようと起きまいと、やがて戦いは決する。それが分かっていて、尚目覚めたいというのか。イングラム・ハーウェイ”
「当然だ。俺にはまだ、知りたいことややりたいことが、山ほどあるんだ」
どれほどの理不尽が降りかかろうとも、どれほどの屈辱に塗れようとも、イングラムは微笑んで答えてみせた。
「結末しか繋げてこなかったお前には、決して持ち得ない感覚だよ」
“──”
邪神の表情は伺いしれない。だが、その沈黙に害意はなかった。
「聞きたいんだ、ヨグ・ソトース。お前は二度も俺の身体を支配した。俺の魂をこの世界に押し込めて、俺の肉体で戦い、食事もしたはずだ」
器としては不完全ながらも、地球を支配するには十分すぎる素体。
“あぁ……愉しませてもらった”
答えが返ってきた。数時間にも満たない人としての生を経て、邪神は奇妙な充足感を得ていた。
「ふ、そうか。どうだ……人間も存外、悪くはないだろう?」
“…………”
「同じ邪神のナイアーラトテップですら、人として果てる道を選ぶことがあると聞く。千の貌を持つあいつも、人と同じく苦悩し、後悔し、それでも立ち上がって最期を迎えたはずだ」
ヨグ・ソトースは分からなかった。いや、あえて繋いで理解しようとはしなかった。
己の権能を用いず、その答えに自力で辿り着きたいと、願ってしまったのだ。
「お前は言ったな、“愉しませてもらった”と。それはお前が初めて力を使わずに、俺の身体を通して得た感情だったんじゃないか?」
“そう、かもしれんな”
「お前は、人としての数時間で、結末に至るまでの過程を知ったはずだ。肉体に固執し、もっと感じたいと思ったのではないか。人としての感性を。……そして、想いをな」
邪神が、柔らかく光った。
イングラムの言葉は、一柱の神の核心に深く、優しく響いていた。
「お前たちはラブクラフトに創り出された存在だ。親である彼や、その友人たちの感性は、僅かでもお前の神性に宿っているはずだ」
だから、とソルヴィアの騎士は続ける。
「お前もなればいい。確定した未来をただ待つのではなく、不確定な要素を選び、捨て、知り得なかったものを知るんだ。それが、お前たち邪神が支配しようとした生命そのものなんだよ」
“……ふっ”
その提案が、どこかこそばゆい。
邪神は形のない腹を抱え、虚無の世界を震わせて大きく笑った。
“ハハハハハハハハ!!!”
「おかしなことを言ったつもりはないんだがな」
“いや、なに、ククク……あまりにも荒唐無稽だと思ってな。だが、悪くはない。下位存在であるナイアーラトテップにできることが、私に出来ぬ道理はあるまい”
「なら、人になればいい。結末ばかりを視るのは、もう飽きた頃合いだろう?」
“ふん、知ったような口を”
突き放すような言動。だが、イングラムは同じ強さでそれを跳ね返す。
彼の飽くなき好奇心と探究心が、邪神をも対等な存在として繋ぎ止めていた。
「なめてもらっては困るな。
お前が話しているのは、この時代でお前たちを知り尽くしている物好きな一人の人間だぞ?」
──ム…………!
どこからか、第三の声が聞こえてくる。
“お迎えのようだぞ”
その声のあとに、一つの小さな魂が、イングラムの中へと滑り込んできた。
それは、幼い頃に失ったあの時の輝きであり、最愛の人たちの想いそのもの。
「光……希望の熱なのか……」
魂が灯した光は、イングラムの存在を優しく囲い、覆い、照らし出す。失われていた肉体が、光の粒子によって再構築されていく。
「……なんて、暖かいんだ」
「イングラム、イングラム! 無事か!」
全盛期の肉体を保ったまま、オーディンが虚無を裂いて手を伸ばした。
「ヨグ・ソトース……!」
“往け、オーディン。その手を離してやるなよ”
「当たり前だ。離すわけがないだろう。行こう、イングラム。皆がお前を待っている」
「はい……!」
肉体を取り戻したイングラムは、オーディンの背を追う。
だが、その歩みを止めることなく、彼は一度だけ振り返った。
「ヨグ・ソトース──」
“……なんだ?”
「お前が来るのを、俺はずっと待っている。今度は敵としてではなく、神としてでもなく……友として、俺に、生命に会いに来てくれ」
邪神の目が、驚愕に見開かれた気がした。
イングラムの意識が遠のき、無から有へと帰還していく。
“待っていろ、イングラム……最初の、友になる者よ”
◇◇◇
世界を呑み込んでいた死の静寂は、いまや一点の淀みもない黄金の輝きによって塗り潰されていた。
“バカな……バカなバカな!”
クトゥルフの震える咆哮がルルイエを揺るがす。その声はもはや神の威厳ではなく、理解不能な事態に直面した獣の悲鳴に近い。
“ヨグ・ソトース、なぜだ! なぜ、イングラムという器を捨てた!?”
大地を、空間を、因果律そのものを震わせる邪神の困惑。
だが、レオンはその動揺を冷徹に看破した。視界の端で、横たわっていたイングラムの肉体が、他のみんなと同じ──いや、それ以上の密度を持った黄金の煌めきを放ち始める。
「……帰ってきたな、イングラム」
レオンは、力強く動き出したその手を、迷わず掴み取った。指先から伝わるのは、紛れもない人間の熱。そして、深淵を越えて戻ってきた魂の、不屈の拍動。イングラムはレオンの手に支えられながら立ち上がると、深く、静かに頷いた。
「ただいま戻りました、レオンさん」
その声に、レオンの双眸が小さく揺れる。静謐を湛えた青い瞳は、真っ直ぐにイングラムを捉えていた。かつて彼を苦しめた邪悪な影は、もうどこにも存在しない。
「長かった……ようやく、肩を並べてあなたと一緒に戦えます」
「それだけ自信があるなら、背中を預けるには十分だ」
レオンの微かな微笑に応えるように、仲間たちが次々と集結する。
「イングラムくん!」
「ふん、待たせやがって!」
ルーク、アデルバート、ルシウス。生死を分かち合った友たちが並び立ち、ベルフェルクもまた、一人の戦士としてその列に加わる。
この星が、全歴史が、全生命が紡ぎ出した黄金のマナ使いたち。そのすべてが、いま、邪神の喉元に突き立てられた最後の一矢として揃い踏んだ。
「イングラム、これを使えッ!」
背後のオーディンが、己の神性の結晶たる原初の槍グングニルを投げ放つ。北欧の始祖は紫紺の粒子となってその穂先へと吸い込まれ、神そのものが一振りの武装へと昇華した。
イングラムは空中を舞う槍を、振り返りもせず掌で受け止める。指先から魂へと流れ込む、神々の王の熱量。手にした槍は、全人類の希望を乗せて黄金の火花を散らした。
「イングラム……いけるな?」
「──はいっ!!」
イングラムがグングニルを握り直し、黄金の瞳で邪神を射貫く。
“裏切り者め……! だが、キサマらの言う希望など、永年この地球が孕んだ絶望や憎悪に比べればちっぽけなものだ!”
断末魔のようなクトゥルフの嘲笑。だが、それを迎え撃つ者たちの瞳に、もはや揺らぎはない。
「ふぅん……当人を前に、よくそんなことが吐けるね?」
「追い詰められて、言葉がおかしくなっているのかしら」
レネがクスクスと嘲笑を投げ、ロニが憐れみの視線を向ける。邪神に滅ぼされた未来の地球の姉妹は、自らの意志でその支配を拒絶していた。
「母さんたちの想いも、私はすべて受け取っている……クトゥルフ、悪いけど負けてあげるわけにはいかない!」
クレイラが、かつての地球の意志を受け止め、強く宣告する。
「リルルのため、キサマとはこれまでだ。せいぜい、無様に抵抗してみせろ」
ナイアーラトテップが、冷徹に因果を断ち切る一撃を構える。
「あなたを倒して、世界を紡ぎ続けてみせる!」
ソフィアが叫ぶ。限界を超えたソウルイーターの力が顕現し、背後に巨大な死神の影が立ち上がった。
「総てを終わりにするぞ……クトゥルフ!」
ライルの放つ光のマナが、戦士たちを優しく、力強く包み込む。ライルを中心として、黄金の光芒が一つに重なった。
愛する者のため、明日を生きる生命のため。
神話の終焉を刻むべく、戦士たちは最後にして最強の進撃を開始した。




