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第486話「蒼の残光に響く福音」

最果ての地__


そこは既存の生命が呼吸することすら許されぬ、人類未踏の絶域。


狂おしく吹き荒れる白い風は、この領域を侵さんとするあらゆる熱を、命の残り香さえも根こそぎ剥ぎ取っていく。


すべてが純白の色彩によって塗り固められたその静寂を、独りの男が、無慈悲な鮮血をもって塗り替えた。


「グ……ォォ……」


5メートルに達する巨躯が、雪煙を上げて沈む。


目立った外傷はない。だが、内臓を、そして魂の核を直接撃ち抜かれた一撃は、巨人の肺腑から致命的な鮮血を絞り出させていた。 


「……俺を殺しきれなかったお前が悪い」


レオン・ハイウインドの冷徹な断罪を聞き届けたのか。巨人は力なく、その瞼を閉じて生命の終わりを受け入れた。


「練習台として用いてみたが……ふ、やはり俺には、大魔女リディアの持つ魔術適性はないらしい。魔女の血は、ただの『老化の抑制』という呪いしか寄越さなかったか……つくづく、俺はレーヴェに似たらしいな」


レオンは自嘲気味に呟いた。かつてクトゥルフを葬り去り、神域をも揺るがした魔術の才は、今は亡き弟・ライルにこそ宿っていた。


自分に残されたのは、ただ孤独な時間を引き延ばすためだけの、不死に近い肉体。

彼は思考を切り替えるように首を振り、5年間、胸の奥で燻り続けている問いを反芻する。


「ライル……俺と同じ境遇にありながら、なぜお前はあの日、己を擲ってまで俺を庇った?」


理解できなかった。他者を守るという熱情が。

救いなど望んでいなかった自分を、イングラムたちは、そして名もなき戦士たちは、命を懸けて地獄から掬い上げた。その「絆」という名の不可解な理が、レオンの乾いた心にはどうしても馴染まない。


「……俺が関われば、また誰かが何かを失うことになる。だが、奴の……フィレンツェの、シーガル一族と邪神教団の暗躍を、このまま野放しにするわけにもいかない」


吹雪は一層激しさを増し、赤く染まった大地を覆い隠そうと荒れ狂う。まるで、この星そのものがレオンの歩みを拒んでいるかのようだ。


「ロニ、レネ……お前たちは、俺の知り得ないこの『感情』の正体を知っているのか?」


問いかけは猛風に呑まれ、嘲笑うような空鳴りだけが返ってきた。


「そうか。ならば……一度、戻るとするか」


彼は視線を上げ、白銀の果てを見据えた。

姿を隠し、その顔さえ見せなければ、誰かを巻き込むことなく、敵の尻尾を掴めるはずだ。


「ここから人里までは、まともに行けば五年の道のり。だが……」


男は一歩を踏み出した。

道を塞ぐ魔物どもが、すでに己の「力」を骨の髄まで理解しているのなら、もはや余計な殺生も必要あるまい。


「往復するだけだ……少しばかり、早めに着かせてもらうぞ」


吹雪の中に消えていく背中。

それは救済を拒み続けた孤独な戦士が、再び運命の濁流へと身を投じる、静かなる宣戦布告であった。


最果ての地を去り、さらに5年の月日が流れた。


レオン・ハイウインドは、かつて星を揺るがしたその姓も、名の意味さえも捨て去り、ただ一人の「無銘」として世界を放浪していた。


老化という理さえ拒絶するその肉体は、十年前と変わらぬ鋭利さを保ち、ただ瞳の奥に宿る虚無だけが、深淵を覗き込んだ者特有の静謐を湛えている。


時に絶望の縁に立つ人を助け、その対価として得られるはずの「感情」を理解しようと試みた。だが、救い出した手の温もりの奥に潜むドロリとした欲望や闇を視てしまうたび、彼は深く踏み込むことを自らに禁じた。


「独立遊撃隊ARC、独立技術局ELS……ふん、あの戦いに出来たものか、新たな火種の苗床にでもならなければいいがな」


彼は、それらの組織の創設者がかつての戦友たちであることなど、知る由もない。


人が産み落とす喧騒はただ煩わしく、忌避すべき対象だ。それなのに、なぜか身体が考えるよりも先に動き、誰かを助けてしまう。


10年前、クトゥルフの戦場でそうであったように、彼の本能は、理屈を超えて生を繋ごうとしていた。


“ありがとうございます……っ!“


「……あの女性は、助かったというのに。なぜ、安堵ではなく涙を流した」


“またね、お兄ちゃん!“


「……あの少年は。なぜ、俺のような化け物に笑って手を振った」


人の世界へ近づくほどに、記憶の断片が胸の内で不協和音を奏でる。

生命の息吹すらない未開の絶域や、沈黙する古代の遺跡を巡っていた頃には、決して訪れることのなかった疑問の波濤。


「……イングラムたちは。なぜ、俺を探し続けた?」


ふと、足を止めた。


砂塵に舞う黄昏の光が、かつての戦友たちの不器用なほどに熱い眼差しを、網膜の裏に呼び覚ます。


「あいつらも……そして、ライルも。あの日、俺に死んでほしくなかったと。ただ、それだけのために命を賭したのか……?」


その答えは、未だ彼の手には届かない。


だが、10年前の彼が自身の命と共に無益な幻想として切り捨てたはずの絆という言葉が、今のレオンの胸には、名もなき少年の笑顔と共に、確かな重みを持って響き始めていた。


無銘の旅人は、自分の足元に伸びる影を見つめ、再び歩き出す。

その歩みの先には、かつて自分が棄てた世界が、そして自分を棄てなかった者たちがいる。


「この、匂い__」


久しく忘れていた、人の身から滲み出る鉄と血の匂いが風に乗って運ばれてくる。

無意識に、眉間に鋭い皺が刻まれた。


「ARCか、ELSか。……あるいは」

邪神教団か。


いずれにせよ、胸の奥でチリチリと爆ぜるような怒りと、それに不釣り合いなほどの正義感。自嘲の笑みが零れる。だが、思考が止まるよりも早く、身体は既にその戦禍の中心へと、音もなく地を蹴っていた。


◇◇◇


「星の子の一族は根絶やしにしろ!」


「逆らう奴らは殺せ! フィレンツェ様のお達しだぞ。首は一つ残らず持ち帰れ!」


轟々と燃え盛る炎。血の匂いが人の剥き出しの悪意と混ざり合い、吐き気を催すほどの醜悪さを露呈させている。


その光景を、その名を耳にした瞬間。


レオン――いや、無銘を突き動かしたのは、制御不能な原初の衝動だった。


腰を極限まで落とし、瞬きの間に教団員たちの間を駆け抜ける。一閃が走るたび、汚泥のような悪意の群れは物言わぬ死体へと変わっていった。


「はぁ……はぁ……っ」


周囲に動く気配は、もうない。襲撃者たちはすべて地に伏し、絶命している。


「ふっ、衰えたな、俺も……」


返り血に濡れた左掌を見つめ、強く拳を握り締める。

あの時もそうだった。


自分が弱かったから、救えない命があった。自分が甘かったから、届かない想いがあった。どれほど手を伸ばしても、間に合わなければ、それは何もしなかったことに等しい。


“__生きて“


炎の爆ぜる音の向こうで、クレイラの声が聞こえた気がした。


「……け、て……」


「…………?」


炎の咆哮よりも、血の匂いよりも明確に。彼の魂を直接揺さぶるような、切実な想いが鼓膜を打った。


「誰か、そこにいるのか!?」


「助け、て……だれ、か……」


聴覚に全神経を研ぎ澄まし、猛火の中に飛び込む。


崩れ落ちた瓦礫の隙間に、一人の少女が倒れていた。今にも消え入りそうな声で、涙を零しながら、ただ一筋の希望に縋っている。


「__っ!」


無銘は、迷わずその少女を抱き抱えた。


周囲には、彼女の親族であったろう人々が、無残な骸となって転がっている。炎に照らされたその背中には、数え切れぬほどの斬り傷が刻まれていた。


(チィ……クズどもが……!)


溢れ出す殺意を押し殺し、少女の煤けた頭を優しく撫でる。


「安心しろ……君だけは必ず助けてみせる」


少女を片腕で守り抜き、地を蹴る。炎を切り裂いて、彼は安全な暗がりの外へと逃れた。


◇◇◇


少女が再び瞳を開いた時。

そこに映ったのは、一人の男の、安堵に満ちた柔らかな微笑だった。


「……良かった。目を覚ましたか」


「……だ、れ?」


「名前、か……俺は、レオン……君は?」


「る、ルキナ……」


か細い、しかし確かな声。


(不思議だ。どうして、今、俺は『良かった』なんて思ったんだ……)


己の内に芽生えた見知らぬ感情に、レオンは戸惑う。


「お父さん、お母さん、お姉ちゃんは……?」


「…………すまない。間に合わなかった。……助かったのは、君だけだ」


「____」


少女は沈黙した。だが、泣き叫びはしなかった。

ただ、震える小さな手でレオンの衣を掴み、消え入りそうな声で言葉を紡ぐ。


「ありがとう……」


「え……?」


「助けてくれて、ありがとう……レオン、様」


「____」


「ありがとう」という、あまりに無垢な対価。


10年前のレオンが、己の命と共に「無益な幻想」として切り捨てたはずのその一言が。


10年の荒野を彷徨い、乾ききったはずの心の奥底を、かつてないほどに温かく、そして痛烈に射抜いていた。


「……俺は、君の家族を……助け出せなかったんだ……俺は、君に罵倒されるべきなんだ」


絞り出すような声だった。


怒ってくれた方が、いっそ楽だった。嫌悪され、蔑まれ、拒絶される。そうして誰とも交わらずに生きていくことこそが、レオン・ハイウインドという男に相応しい罰なのだと、彼は自分に言い聞かせた。


だが__


ルキナは何も言わず、ただ、震える小さな腕でレオンの首筋を抱き締めた。


「なん、で……」


「レオン様、凄く悲しそうな顔をしてたから……お母さんや、お姉ちゃんが言ってたの。こういう時は、ギュってしてあげるんだよって。大丈夫。……大丈夫だから」


背中を打つ、小さな手の柔らかなリズム。


赤子をあやすような、慈愛に満ちたその温もりが、レオンの中に残っていた最後の一片の「拒絶」を瓦解させる。


「……君は強いな。俺なんかよりも、ずっと」


レオンもまた、壊れ物を扱うような手つきで、ルキナを優しく抱き締めた。


己が失ってきたもの、あるいは遠ざけてきたもの。そのすべての重みが、少女の体温を通じて彼の中に流れ込んでくる。


どうしてか、視界が酷く滲んで、止まっていた刻が動き出すような痛みが胸を焼く。


怒るよりも、嘆くよりも先に、傷ついた少女が自分を慰めてくれた。

それが、どうしてこれほどまでに心を震わせるのか。


「ありがとう……目を覚ましてくれて、本当に……本当に良かった。ありがとう、ルキナ」


かつてイングラムたちが自分を探し、救おうとした理由。ライルが己の命を擲ってまで自分を庇った、その熱い情動。その欠片が今、ルキナの抱擁を通じて、ようやくレオンの血肉へと染み渡っていく。


空に浮かぶ銀の月光が、寄り添う2人の影を静かに照らしていた。

それは、1人の英雄が孤独な旅を終え、再び人として誰かと歩み出すための、祝福の光であった。


レオン・ハイウインド__


かつて家族を知らず、唯一の友を失い、孤独を唯一の友として荒野を往いた戦士。


彼は、自分が関われば他者を不幸にすると信じ、世界から顔を背けて生きてきた。

だが、運命の悪戯か、あるいは必然か。


邪神教団の炎の中から唯一救い出した少女・ルキナとの出会いが、凍てついた彼の魂を溶かすこととなる。


「ありがとう」


少女の無垢な感謝と抱擁は、彼が10年かけて探し求めた生きる意味の答えとなった。


レオンは彼女に、生き抜くための剣術と知識を授け、ルキナは彼に、笑い方と人の温もりを教えた。互いの欠落した孤独を埋め合うその旅路は、父と娘のようでもあり、世界のどこよりも温かな家庭のようだった。


しかし、時代は彼に安息の地を与えなかった。

あるいは、彼自身がそれを予期していたのかもしれない。

シーガル一族の魔の手が、成長した「星の子」ルキナに迫った時。


かつての青い残光は、迷うことなくその身を差し出した。

剣を抜き、敵を屠ることは容易かったはずだ。


だが彼は、ルキナの未来に泥を塗らせないために、自らが囚われることで、彼女の安息を願ったのだった__


クトゥルフ討伐から、15年後のことだった__



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