第475話「クロノスの作戦」
「うわぁっ!? 地面から、また何か湧いてくる……!」
スアーガの防衛線。無数の眷属を相手に限界を迎えていたレベッカは、足元の異変に思わず声を上げ、相棒であるネメアの逞しい背に身を隠した。
地面が、まるで煮え立つ大釜のようにボコボコと沸き立っている。だが、そこから溢れ出したのは、これまでの不気味な瘴気ではなかった。
「……うむ。だが、不思議と嫌な予感はせんな……むしろ、この温かみは……」
ネメアが黄金の瞳を細める。
噴き出したのは、浄化されたマナの輝き。それは絶望を焼き払う希望の熱量となって、凍てついていた戦場に奔流となって流れ込んだ。
光の飛沫を散らしながら、泥を跳ね除け、悠然と立ち上がる影。
その手には、戦塵に汚れぬ伝説の武装が握られ、身に纏うのは数多の武勲を刻んだ黄金の鎧。
「ふん……ここが新しい死地か。黄泉の神とやらも、たまには気の利く真似をする」
一際大きく爆ぜた土煙の向こう側、漆黒の外套を翻し、覇気を漂わせる男が不敵に口角を上げた。
その瞳には、冥府の眠りさえも消せなかった戦士の矜持が、紅い炎となって再燃している。
「あー、ようやく……久しぶりに、思う存分敵を屠れるというわけですね」
沸き立つマナの霧を割り、細身ながらも研ぎ澄まされた刃のような威圧感を放つ男──項羽が、愉悦に肩を揺らした。その手にある重厚な武器が、戦いを渇望して微かに鳴動する。
「んー、実に滾ります……それにしても呂布さん、ここには一度、来たような気がしませんか?」
「……項羽、貴様もか。実は俺も、その妙な感覚を覚えていたところだ」
傍らに立つ巨躯の武神──呂布が、深紅の房がついた双天画戟を悠然と振るった。それだけで周囲の瘴気が衝撃波によって吹き飛ばされ、一帯に清涼な、だが張り詰めた武の気が満ちる。
「だが、いまは些細なことだ。冥府の神より再び全盛の肉体を与えられ、この世の覇を競う舞台に戻れた。ならば──俺たちの前に、敵は存在せぬ!」
呂布が地を踏みしめると、ルルイエの石畳がクモの巣状に砕け散る。
二人の英雄が放つ気迫は、すでに一個の軍勢を凌駕していた。空を覆う眷属たちが、その本能的な恐怖に羽音を乱し、一瞬たじろぐ。
「えぇ、左様。我ら二人が揃って、なお討ち漏らす獲物など、この地球には存在しませんよ」
項羽が静かに笑う。その瞳は、眼前の怪物どもを敵としてすら見ていない。
それは、これから始まるのが戦いではなく、一方的な蹂躙であることを告げる、残酷なまでの強者の宣言だった。
地上の戦域ソルヴィアでも、奇跡は連鎖していた。
満身創痍となり、死を覚悟したアマテラスやツクヨミを庇うように、大地の亀裂から凄まじい熱量を持った黒煙が噴き上がる。
「あ、あれは……?」
「いやはや、現世に顔を出せるとは思わなかったですね」
姿を見せたのは、無数の騎馬軍団であった。
彼らは緩やかにギルザたちの前に守るように現れる。
「ふむ……久しぶりの地上か。
コンラ以来になるかな」
朱槍を片手に、彼女は背後を見た。
姉妹たるスカサハに借りた軍団を眺め、不敵に笑う。
「戦神ギルザ……会えて光栄だ。
そして、あなたや他の生命を守れること。
これ以上の滾りはない」
いま、絶望の象徴であった赤と黒の空に、人類が誇る黄金の闘志が真っ向から突き刺さった。
そして、混沌の渦巻く、とある戦域では──
「うざってぇんだよ、どけッ!」
飛来する邪神の眷属を、文字通り素手で殴り殺し、這い寄る混沌を蹴り砕く一人の男がいた。
デイヴィッド・ハーウェイ。
かつて最強の騎士と謳われた男は、ナイアーラトテップの影を背負う異形どもを、ゴミでも払うかのように無造作に屠り続けていた。
「ふん、ったく……人探しの邪魔ぁしやがって……! おい、倅! どこまで手間をかけさせやがる、さっさとケリをつけろ!」
息子への不器用な、だが底知れぬ信頼を込めた毒づき。
彼は迫りくる敵を砕き、斬り伏せ、戦場を真っ赤な鮮血で染め上げながら、ルルイエの空を睨み据えた。
「お前は俺のガキだ。あの忌々しいルルイエでくたばるなんて言ってみろ。ぶん殴るどころじゃ済まさねえぞ……地獄の果てまで追いかけてぶっ叩いてやる!」
吐き捨てると同時に、デイヴィッドは肉薄した眷属の頭をその豪腕で掴み上げた。抵抗する間も与えず、己の額を凄まじい勢いで叩きつける。
グシャリ、と頭蓋がひしゃげる不快な破砕音。 絶命した異形が消失していく中、彼は返り血を拭うことさえせず、空を見上げた。
その時だった──
〈よぉ人間ども! ぶるってねぇで、俺の話を聞け!〉
空を、空間を、そして魂の鼓膜を直接揺らす傲慢な男の声が、世界中に轟いた。
デイヴィッドはぴくりと眉を動かし、視線の先を捉える。そこにはホログラフを介し、天を埋め尽くすほどの巨影として現れたギリシャの時神──クロノスがいた。
〈今、地球は邪神の影響で世界中酷いことになってる。……それは、お前らも嫌ってほど知ってるはずだ!〉
クロノスの言葉は、絶望に沈んでいた人々の心に鋭く楔を打ち込んだ。その声には、冷徹な神としての威厳ではなく、いまこの瞬間を共に生きる者としての「熱」が宿っていた。
〈だが……今お前らのために、戦ってる奴らがいる! 命を懸けている奴らがいる! たった数人で、このクソみてぇな連中の頭を潰そうと、何もかもを擦り減らして戦い続けている馬鹿野郎たちがいるんだ!!〉
見ろ! と、クロノスは喉が張り裂けんばかりに咆哮した。
彼が掲げた手の上に、ルルイエの深淵で、傷だらけになりながらも剣を振るうルークたちの死闘が映し出される。
〈自分の帰る場所のため、愛する仲間のため……そして、お前らのために、奴らはまだ止まっちゃいねぇ! だからよ、お前ら……これは神たる俺からの、たった一度きりの頼みだ!〉
クロノスは、爆発する感情をそのまま全人類、否、この地球上に息づくすべての生命へと叩きつけた。
〈お前らの中に眠る『希望』ってやつを──あいつらに注ぎ込んでくれねぇか……頼むッ!〉
その瞬間、世界は静止した。
恐怖に凍りついていた人々の胸に、クロノスの魂の叫びが着火する。
────
〈お前らのほんの少しの希望が、想いが、願いが……! この地球を救うたった一つの糸口になるかもしれないんだぜ!〉
クロノスの背後には、神話の頂点に立つ主神たちが鎮座していた。
破壊神シヴァ、全知全能のゼウス、太陽神ラー、そして荒ぶる神スサノオ。
本来ならば一堂に会することさえ有り得ぬ彼らが、いまは全ての神性を時の神の権能へと注ぎ込み、クロノスが紡ぐ「希望の回線」を維持するためにその身を削っていた。
〈くだらねぇと、鼻で笑うかもしれねぇ……助かるわけがねぇと、諦めちまうかもしれねぇ……けどよ!〉
クロノスの咆哮は、空気を震わせ、海を揺らし、絶望に伏していた人々の胸ぐらを掴み上げる。
〈何もかもやり残したまま泥のように死んじまうくらいなら、明日、クソみてぇな愚痴を垂れ流しながらでも生きてたほうがマシだ! テメェら人間にはなぁ……それができる! 明日をその手で掴み取れるんだよ!〉
神が、人間の可能性を誰よりも強く信じ、剥き出しの感情で笑ってみせる。
その神の不敵は、何万の教典よりも強く人々の魂を救い上げていた。
クロノスは大きく笑みを浮かべると、自身の後方へ両腕を力強く振るった。
次元の壁がガラスのように砕け、そこには漆黒の時空間の穴が、まるで巨大な眼窩のように開く。
クロノスはその虚無の奥底、歴史の闇に埋もれたすべての場所へ向けて、さらなる言葉を叩きつけた。
〈──聞こえてんだろ、時を越えた先の世界の連中もよぉッ!!〉
彼の叫びは、現在という時間軸さえも突破し、過去から未来、あらゆる平行世界に散らばる命の元へと波及していく。
〈おうおう! 西暦、それに紀元前の人間ども! 宇宙の連中、テメェらも聞けぇッ!!〉
クロノスの咆哮は、時空の穴を通じて、あらゆる時代へと浸透していった。




