第474話「恐怖への反抗」
「……くそ、まだ湧いてきやがる! まるで地獄の底が抜けたみたいだな」
獣の王国スアーガ──
かつて生命の躍動に満ちていたその地は、いまや凄惨な魂の解体場へと変貌を遂げていた。
激戦の渦中、ケリィ・ブライトは背中を合わせたレベッカへ、荒い息と共に言葉を吐き捨てる。
見上げる空は、救いようのない赤と黒の二色に染まり、邪神が垂れ流す濃厚な瘴気が、戦場に横たわる死体から滲む鉄と血の臭気を巻き込んで、生温くうねっていた。
肺を灼くようなその毒光は、吸い込むだけで意識を朦朧とさせ、戦士たちの戦意を内側から腐食させていく。
「諦めちゃダメ! こんなところで膝をつけば、ルークたちに合わせる顔がなくなるわ!」
「ハッ、違いない! 相棒にいいところを見せたいってのは、最高の原動力だねぇ!」
軽口とは裏腹に、レベッカの剣戟は凄絶なまでの鋭さを増していく。
達人の域を優に超えた一閃が、眷属の異形を縦に断ち割った。グチャリと爆ぜ、飛び散る汚濁の血を全身に浴びながらも、彼女の剣筋に迷いはない。
その一振り一振りに、この地に生きる人々の明日を繋ぎ止めるという、祈りにも似た決意が宿っていた。
ケリィもまた、空から舞い降りる「影」の群れを、正確無比な銃撃で迎撃する。
鼓膜を叩く乾いた排莢音と共に放たれた弾丸が、眷属たちの核を粉砕し、その存在を塵へと帰していく。
だが、討っても、討っても、敵の数は減るどころか加速度的に増殖していく。
空を埋め尽くさんとする異形の羽音が、人類の希望を食い破るように響き渡り、鉄壁を誇ったはずの防衛線は、音を立てて崩壊しつつあった。
一方、聖地スフィリアでも──。
戦神フレイヤの端正な貌を、滝のような汗が伝い落ちていた。
傍らのユーゼフは、もはや巨大な戦斧を、崩れゆく膝を支えるための杖としてしか使えていない。合体神ノルンの効力も尽き、三人の女神へと戻った彼女たちの顔にも、隠しようのない疲弊と絶望の色が刻まれていた。
「ちっ……よもや、敵がこれほどの物量を用意していようとはな……」
フレイヤが忌々しげに舌を鳴らす。
鋭い眼差しを赤い霧の深淵に向けても、そこに映るのは増殖し続ける影のみ。霧の向こう側からは、数万の異形が大地を蹂躙する凄まじい地鳴りが、湿った風に乗って絶え間なく押し寄せてくる。
「スクルド……ソラリスからの援軍はどうした!?」
フレイヤの切迫した問いに、三姉妹は沈痛な面持ちで首を振った。
「あらゆる神々がソラリスでの応戦に追われています……あちらに現れた敵の数は、これまでの比ではありません!」
「ふっ、孤立無援か……神の座を預かる我らのみで、この泥沼を抉り抜かねばならんとはな」
戦神フレイヤがこぼしたのは、自嘲気味な冷笑だった。
彼女の絶対的な槍は、一撃で万の眷属を屠り、塵に帰してきた。ユーゼフやスクルドたちの献身的な支援も、常に戦場を支配してきたはずだった。
だが──セリアの歌が、聞こえなくなった。
戦場を包み込んでいた福音の消失は、目に見えぬ絶望の重圧となって人類と神々の上にのしかかった。魂の支柱を失った形勢は、堰を切ったように押し返されていく。
そして、かつてスクルドが統治した地・ファクシー。
そこでは今まさに、歌声を封じられたセリアたちの背後に、逃れ得ぬ死の牙がその影を伸ばしていた。
ジリジリと、音を殺し、陽炎のように揺れる影。
這い寄る混沌は、いまやシンディとセリアの至近距離までその触手を伸ばしていた。
「おいおい、いやぁ〜な気配がプンプンするぜ……死神の吐息をすぐ傍で感じてる気分だ!」
シンディが武器を構え直すが、その指先は疲労と恐怖で微かに震えている。
セリアは激しく咳き込みながらも、なお歌声を紡ごうと喉を震わせた。だが、酷使し続けた喉からは、もはや旋律ではなく焦げ付いたような喘ぎが漏れるのみ。それは彼女の生命線を削り取る、自虐的な行為に等しかった。
「やめろ……! もう無理すんなセリア……俺たちは、残念だがここまでらしい」
シンディの悲痛な制止さえ、周囲に渦巻く悲鳴にかき消される。
「やめて、食べないで……!」
「パパ、ママ、怖い、助けてぇ!」
逃げ場を失った人々の恐怖、明日を諦めた失望。それらが粘りつく黒い奔流となり、ルルイエの闇へと吸い込まれていく。
まるで朝日を浴びて活力を得る生命のように、クトゥルフたちは地球に満ちる絶望を糧とし、その神威をさらに冒涜的に膨張させていた。
地球が、泣いている。
空が、怯えている。
大地が、絶望に震えている。
「いいえ……私たちの命は、まだ潰えてはいません……この命の灯が消えるまで、私は──」
セリアの瞳に宿った最後の、そして最も強い決意。
しかし、その尊い言葉は、地面から音もなく這い出た盲目の邪神の咆哮によって無惨に掻き消された。
それは形を持たぬ汚泥の塊のようでありながら、顔一面にヒルのような無数の歯を剥き出しにした、悍ましき捕食者の貌をしていた。
不気味な口が、セリアの細い首筋を喰らおうと、粘着質な体液を滴らせながら迫る。
絶望が、受肉する。
誰もが最悪の結末を予感し、目を逸らそうとした、その時だった──
「──オォォォォオオオン!!」
大地を揺るがす咆哮、野性味溢れる強烈な遠吠えが、戦場を支配していた瘴気を一喝した。
疲労ゆえの幻聴でも、邪神が弄するまやかしでもない。それは蹂躙される者たちの魂に直接届く、覇道の震え。
赤と黒に濁りきった世界の中、セリアの美しい紫の瞳に、一条の白い影が飛び込んできた。
「燃え滾れ、我が吸魔剣よ──!」
熾烈な爪牙が、盲目の邪神を真っ向から叩き伏せる。
無情なまでに鋭い斬撃が、闇を切り裂く五色の光芒を迸らせ、異形の肉体を一息に両断した。
噴き出した汚濁の黒血は、その禍々しい剣身へと吸い込まれ、逆に男の闘志を研ぎ澄ます糧へと変換されていく。
“皇女、ご無事ですか”
白虎を思わせる獣、ファティマの守護獣たるティグリスが傍らで牙を剥く。
「ティグリス! それに、まさか……あなたは!」
「レティシア……どうやら、最悪の瞬間には間に合ったようだな」
聞き慣れた低い声。
そして、闇の中でさえ誇り高く輝く、美しい紫色の髪が風に揺れた。
「あん? 誰だこの男……やけに強烈なプレッシャーを放ってやがるが」
シンディが呆気に取られたように呟く。セリアは安堵に震える唇を開き、その名を呼んだ。
「……私の兄、ジーク・ファティマです。シンディ様」
かつて運命に翻弄された孤高の皇子。
その背中が、いま、砕け散る寸前だった世界を繋ぎ止める不落の壁として、セリアの前に立ちはだかっていた。
スフィリアにも、新たな援軍がやって来ていた。
「スカサハ……! それに、ヘル。なぜ貴殿らまでがここに?」
フレイヤの驚愕に満ちた問いに、冥府の主たるヘルは、死の冷気を纏いながらもどこか楽しげに唇を歪めた。
「アハハ……ハデスさんやクロノスさんが、なにやら『大きな作戦』があるからって、私に冥府の門を無理やり開けさせたんですよ……まあ、世界の危機ですし、今回だけは超・特例です」
ヘルやハデス、冥界を統べる者たちの干渉。それは、戦場に一つの「奇跡」を顕現させた。
門の向こう側から溢れ出したのは、かつて戦乱に散った英雄たちの魂。地球を守りたいと願う英霊たちが、冥府の秘術によって全盛期の肉体と神性を再びその身に宿し、現世へと帰還したのだ。
「ははぁん! 随分と無様に苦戦してるじゃないかい、蟹男。この『影の女王』が直々に手を貸してやろうっていうんだ、光栄に思いな」
聞き覚えのある不敵な高笑いと共に、戦場に凛烈な闘気が満ちる。
「……誰ぇ?」
満身創痍のユーゼフが呆けた声を漏らす。その視線の先では、深紅の槍を手に、圧倒的な存在感を放つ女性が立っていた。
「フレイヤに並ぶ、伝説の槍使いよ。……ふふ、あきらめかけていたけれど、なんだか本当に『希望』が湧いてくるわね」
スクルドの頬を、安堵の笑みが伝う。
「ほぉ、影の国の女王が救援に来るとは驚いた。……ありがたい、これ以上の援軍はない!」
フレイヤが槍を掲げ、かつての好敵手であり、いまは頼もしき戦友となった女王を迎え入れる。
「ハッハッハ! 私としても、神の座にある貴様と肩を並べて戦う日が来るとは思わなんだ! クトゥルフの眷属どもを相手に、存分に愉しませてもらおうじゃないか!」
スカサハの紅い槍が閃光を放ち、迫りくる異形の群れを紙細工のように切り裂く。
死せる英雄たちと、不屈の神々。
絶望に塗り潰されるはずだった世界は、いま、かつてない熱量を持って反撃の産声を上げた。
スアーガでも、苦戦するレベッカたちの元へ、戦士たちが舞い降りていた。




