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第473話「最後の手段」

ヨグ・ソトースは、ついに完全なる顕現を果たすことはなかった。ライルとレオン、その奇跡的な連携という不確定要素の前に、虚無へと退けられたのだ。


地の底から響いていた終末の地鳴りは途絶え、激戦の場には、鼓膜を圧迫するような不気味な静寂が訪れた。鼻を突くのは、瘴気の焼けた焦げ臭い匂い。それは生温く重い粘性を持った空気となり、戦士たちの肌にべっとりと張り付いている。


邪神クトゥルフは、その巨躯を微動だにさせず、冷然と戦場を見下ろしていた。表情こそ読み取れぬが、深海から響くようなその声には、微かな驚愕と予期せぬ事態への困惑が、氷のように冷たく孕んでいる。


「やった……! イングラムを助け出せた!」


ソフィアの声が、静寂を裂いた。張り詰めていた糸が切れたように、安堵の吐息が白く漏れる。


「ふ、あいつらならやってくれると信じていた」


ルークとアデルバートは固く頷き合い、その胸に歓喜の熱を灯した。彼らの視線の先には、いまにも立ち上がらんとするイングラム・ハーウェイの姿がある。


戦友は、確かな鼓動を伴ってこちらへ戻ってくる。誰もがその奇跡を確信した、その時だった。


「まだだ……まだ、魂の回帰が終わっていない」


レオンの冷徹な、刃のごとき響きが、場に広がりかけた希望を鋭く断ち切った。人々の熱を帯び始めた肌が、ゆるやかに凍てつくように冷めていく。


ソフィアたちの顔に疑問が浮かぶ。だが、それはすぐに冷たい納得へと変わった。


脳裏をかすめる既視感。かつてイングラムがベルフェルクに敗れ、ヨグ・ソトースの不完全な器となった際の、あの絶望。


いま、この場に流れる静止した時間は、あの悪夢とあまりに似通っていた。鉛のように重い不安が、再び戦場を沈ませていく。


“──フハハハハ!”


その笑い声は、単なる音ではなかった。ルルイエの空間そのものを歪ませる生理的な振動となり、人々の皮膚を逆立たせ、精神を直接掻き毟る。


“ヨグ・ソトースを器から弾き出すとは、驚嘆に値する! だが、奴は私をも凌ぐ力を持つ邪神。ルルイエという特異点で顕現した代償として、イングラムの魂は深淵よりも深い果てへと追放されたのだ!”


「……ちっ」


ベルフェルクが苛立ちを隠さず舌を鳴らし、レオンもまた無言の肯定を返す。この邪神は、人の最も触れられたくない傷を抉る術を熟知している。


場の空気は急速に底冷えし、クトゥルフの呪詛を否定しきれぬ者たちが顔を青ざめさせた。掌には嫌な汗が滲む。


だが、その言葉に沸騰するような怒りを抱き、骨が軋むほど拳を握りしめた者たちもいた。


「クトゥルフ……テメェは、どこまでも余計なことを思い出させてくれる……!」


口元を伝う鮮血を腕で乱暴に拭い、鋭利な視線を投げたのはベルフェルクだ。その瞳には、すでに憤怒の劫火が宿っている。


「……ライル、イングラムを頼む。奴のあの口、一度塞がなければ気が済まない」


レオンは重い決断を眼差しに込め、イングラムをライルに託した。地面を踏み抜くほどの力で立ち上がるレオン。彼の周囲では、怒りによって漆黒のマナが奔流となって溢れ出し、ベルフェルクのまとう覇気と共鳴して戦場を震わせる。


“おや、たった二人か……?

お前たちだけで、我を止められると?”


嘲笑うように細められた赤い眼光が、二人を射抜く。卑下するように、油のような光沢を放つ触手が、不規則にうねりを上げた。


「あぁ、二人だ……貴様のその口を縫い合わせるには、それで十分なんだよ!」


レオンの声に迷いはない。


「レオンくん、行こう……奴は性根ごとへし折ってやるべきだ」


ベルフェルクの冷たくも激しい同意に、レオンは深く頷き、仲間たちへと視線を走らせた。


──まだ、希望を捨てるな。


その瞳は無言の命令として、全員の魂に火を灯した。彼らは再び、決意と共に邪神を仰ぎ見る。


戦いの火蓋が切って落とされた──


グチャリと粘着質な音を立て、大木を凌ぐ質量の触手が空気を震わせ、音を置き去りにして薙ぎ払われる。ルルイエの石畳を深く叩き割り、抉り取る破壊の一撃。


だが、二人は瞬時に回避の軌道を描いた。


ベルフェルクが土のマナを空中に固定し、足場を生成する。それを蹴る反動で、彼はさらに高く、天へと昇る。レオンは触手の先端を紙一重でかわし、闇のマナを爪に凝縮させ、最短距離でクトゥルフの基部へと肉薄した。


二人の黒い影は、触手の群れを掻い潜り、あえてその死の肢体を踏み蹴ることで加速する。闇と土のマナが混交し、一撃ごとに空間が爆ぜる。


琥珀色の微かな光芒が、闇を切り裂く唯一の印として、二人の戦士に勝利への道筋を示していた。


その連携は、血を分けた兄弟すら凌駕する、神速の共鳴。


ベルフェルクが宿すエジプト神の崇高な光は、冒涜的な闇が渦巻くこの戦場における唯一の光源となり、レオンの研ぎ澄まされた直感が、その光を完璧な回避へと繋げていく。


「……俺たちも、遅れるわけにはいかない!」


「イングラムは、必ず帰ってくる。……私は、彼を信じる!」


ルークの再起とソフィアの叫びに、レオンは力強く応えた。沈みかけていた心は、戦友を想う熱によって燃え盛る火焔へと変わる。


アデルバートも、ルシウスも、そして神たるオーディンやフェンリルさえも、人間の不屈の意志に呼応した。


「ふっ、人が立ち上がるのだ。オーディン、我らも消えかけてはいられんな」


「……あぁ、負けられんな」


明滅していた二柱の神の肉体が、実体を取り戻していく。


「ライル! 俺に光のマナを!」


「……! なるほど、そういうことか!」


ライルの左手から放たれた純白の光を浴び、オーディンはその肉体を神性で補強した。彼は倒れ伏すイングラムの元へ歩み寄り、その額に優しく手を当てる。


「俺が、彼の魂を呼び戻してくる……ライル、レオンと共に戦え!」


始祖オーディンは、イングラムへ自らの神性を分け与えた。これまでの戦いで神の力を馴染ませてきたイングラムにとって、その負担はもはや絆の重みでしかなかった。


「ふ、なるほど……イングラムの魂を肉体の深淵から呼び起こすつもりらしいな」


ロキがニヤリと笑い、義兄弟の真意を読み解く。オーディンは微笑を返し、それが何よりの返答となった。


「では、行くとする。……ロキ、任せるぞ!」


「おうよっ!」


「身体が壊れても構わない……! 俺たちは、ここで全ての力を出し切る!」


五色の色彩が、戦士たちの身体から溢れんばかりに輝き出す。

それはクトゥルフすらも目を覆うほどの、圧倒的な地球の奔流であった。


“ククク……貴様らの思惑など、すべてお見通しよ!”


だが、その輝きを押し戻すように、ルルイエの闇が隙間風のごとく流れ込んでくる。


“人類を、さらなる絶望の底へと叩き落としてくれる……! 希望などという、か細い糸……我らが、この手で断ち切ってくれるわ!”


クトゥルフの呼び声に応じ、無数の眷属が地に沈むように現れ、消える。

その魔の手は、いまなお襲撃を耐え凌ぐレベッカたちへ、新たなる死の牙となって迫っていた。

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