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第472話「闘争」

「な、なんだと……!?」


ライルの耳朶を打ったのは、無慈悲な拒絶であった。


全能の邪神、ヨグ・ソトースの答えは、絶対的な「否」。その言葉は、まるでルルイエの底から湧き上がる寒気を伴う響きとして、ライルの内臓を直接震わせた。


かの邪神は、ライルとレオンの必殺の猛攻を、あたかも虚空に放たれた石ころを弾くかのように、軽々と、そして完全に互角に打ち返している。


“邪魔をするなクトゥルフ、俺は今、最高に愉しんでいるのだからな”


その声には、粘りつくような愉悦と、数多の宇宙を見下ろす傲慢さが滲んでいた。


「愉しむだと……ふざけているのか!」


ライルの怒号は、喉を焼き切るように熱い。彼は、ヨグ・ソトースの構えに生じたわずかな空気の乱れ、その一瞬を見逃さなかった。腰を捻り、地面を踏み破る勢いで跳躍。徒手空拳を、鋼鉄の杭と化して邪神の胴体へと叩き込んでいく。


その一撃は、ただの打撃ではない。


心臓を鷲掴みにするような衝撃が、皮膚の下の神経網すべてを鋭い痛みで焼き払い、神核そのものを粉砕せんとする強大な意志が、彼の拳の軌道を一分の狂いもない正確さへと昇華させていた。


周囲の世界は、ルルイエ全体が巨大な鐘として打ち鳴らされているかのように、激しく振動する。


視覚は、絶え間なく揺れ動く光と影の奔流に晒され、聴覚は、岩盤が砕け散るような轟音と、異界の風が叫ぶような高周波の唸りを、絶えず拾い続ける。


「ライル、冷静になれ! イングラムを元に戻すと言ったろう!」


レオンは、肺腑を絞り出すような劇を飛ばした。その瞬間、彼の両手には、生きた闇のような、深淵の底の色をした黒い波動がびりびりと音を立てて纏われる。


ヨグ・ソトースが攻撃を繰り出すよりもわずかに早く、彼は挟み撃ちの軌道を描き、音もなく背後へと回り込んだ。


それに対抗するように、ヨグ・ソトースは空いた片手で空間を引き裂く。そこから、血の凍るような冷たさを放つ歪な形をした槍が、ぐにゃりと生み出された。


穂先は不気味に曲がりくねり、触れるものを腐食させるような禍々しい邪気をねっとりと孕んでいる。


「ふん……」


レオンは、その禍々しい武器を一瞥しただけで気にも留めなかった。真に危険なのは槍の物理的な殺傷力ではなく、その奥に座すヨグ・ソトース自身の意識だと、彼の皮膚感覚が理解していたからだ。


彼は、地面を踏みしめる力を更に強め、地面が軋む音を立てながら姿勢をかがめる。その突貫は、ただ勢いに任せたものではなく、獣が獲物を狙う際の沈黙と精密な加速を兼ね備えていた。


ヨグ・ソトースの左手から繰り出される槍術は、まるで異なる人格が宿っているかのように、神離れした正確さと速度で襲いかかる。


レオンは、紙一重で上体をずらし、下体を一気に落とすことで、その殺意の穂先を躱していく。


レオンは、刃のように研ぎ澄まされた手刀の構えで、槍の柄の最も脆弱な一点へと攻撃を叩き付けていく。


ぼやけるように広がる黒い靄が、血を吸ったスポンジのようにイングラムの肉体にじわりと付着し、冷たい感触としてこびりつく。


“ッ──!”


ヨグ・ソトースは脳裏をよぎる警告によって、レオンの意図に初めて気付いた。


黒狼の闇のマナをぶつけることで生じる「深淵」──


イングラム・ハーウェイという彼本来の人格を、仮面を剥がすように引き摺り出すには、双子の「光」と「闇」のマナによる両極の衝撃**が必要なのだ。


「よそ見をしている余裕があるのか!」


流麗としか言いようのないライルの徒手空拳が、邪神の手に取り込まれた歪んだグングニルに、閃光のように打ち込まれる。


シュウウ……


その邪悪な闇は、ライルの眩い光のマナによって、朝露が蒸発するように、緩やかな速度で瘴気が霧散していく。


“もう少し愉しませてくれ、ハイウインド兄弟!”


ヨグ・ソトースの声は、戯れと確信に満ちていた。


「応えてやると思うか、大人しく消えろッ──!」


双子の呼吸は完全に重なり、一つの殺意の奔流となる。絶え間なく繰り出される連撃の嵐、イングラムの肉体すらも屠らんとする凄まじい殺意が、空間を熱気で満たしていく。


流麗な光の攻撃と、怒涛の闇の攻撃。全てを接続している外なる邪神は、そんな彼らの苛烈な波状攻撃を、二対の槍で鋼のように拮抗させていた。


“消えるのは、お前たちだ!”


二対の槍の穂先から、宇宙の虚無を思わせる暗黒の波動が唸りを上げて吹き荒び、双子の戦士を押し潰さんと襲う。


ライルはソフィアたち側へと灼熱の風に押されるように後退を余儀なくされ、レオンはクトゥルフ側に石畳を滑るように後退する。


「ふ、消し損ねたなヨグ・ソトース!」


レオンは嘲笑と共に、再び勢いよく地を蹴った。その脚力は石畳をへこませ、ヨグ・ソトースの懐、一撃を見舞う最短距離へと、彼は矢のように飛び込む。


“──!”


青い静謐の瞳が、血よりも赤い真紅へと急速に変貌する。


“神殺しの権能──!”


黒と赤の奔流が、生き物のように唸る。闇と神を滅ぼす神秘の力が、複雑に、そして流麗に、混ざり合いながら一つの強大な刃を形成する。


「返してもらうぞ、イングラムを!」


“ふん、そう安々と──”


振り下ろされかけた二対の槍は、突如として横から飛来した衝撃によって真横に蹴り飛ばされた。


じわりと疼く痛みが、ヨグ・ソトースの意識の焦点を一瞬だけそちらに向ける起点となった。


ライルだった──


彼は光のマナで身体を極限まで強化し、音速に近い速度で距離を一気に詰め、レオンに迫った攻撃を防いだうえ、邪神に獲物を手放させたのだ。


歪んだグングニルは、からん、と虚しい音を立てて後方へと滑るように手から離れ、石畳の上に落ちた。


しゅぅ……と、グングニルは瘴気を剥がされ、本来の銀色の輝きを取り戻す。


“く──!”


上と下に迫る血の権能、その一撃が正確に、そして容赦なく叩き込まれた。それは、もはや防ぎようの無い、完璧な連携の攻撃だった。


油断も慢心も無かった──ただ、ハイウインド兄弟の連携が見事という他なかったのだ。


“つまらないな”


ヨグ・ソトースは凄まじい勢いで吹き飛ばされ、瘴気の湖の寸前で、滑るように止まる。身体を、自分ではない闇がズブズブと音を立てて侵食していく感覚。


「さようならだ……」


レオンの隻つ目は、未だに煌々と、血のように揺らめいていた。それを、ヨグ・ソトースは一瞬だけ、美しいとさえ、思った。


体の感覚が、遠い幻のようになっていく。

視界が、鮮やかな色を失いモノクロに。聴覚が、音を正確に拾わず、周囲の音は水中にいるように鈍くなる。


指先が急速に冷たくなっていく。


“ぐ、ぁっ──”


ヨグ・ソトースの身体が大きく仰け反った。

そして、夜明けの霧のように、イングラムの姿が淡い光を帯びてそこへ浮かび上がる。


「帰ってくるんだ、イングラム!」


闇の力により身体の自由を奪われ、光の力により、自分の存在そのものが不安定になっていく。ヨグ・ソトースの意識が、朦朧としていく──


「お前に、人の肉体は要らない。俺と同じように、独りで大人しくしていろ」


レオンのその静かな、しかし確固たる言葉が、ヨグ・ソトースが最後に聞き取れた音だった。


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