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第469話「闇を越える恐怖」

「おの、れ……ベル、フェルク……!」


喉の奥から絞り出された呪詛が、熱く粘つく血の味と共に舌を這い上がる。鉄錆の匂いが鼻腔を満たし、呼吸するたびに肺が軋んだ。


視界の端で、黄金色に輝く拳が──まるで悪夢のようにゆっくりと──自分の胸へと迫るのが見えた。その輝きは美しく、そして残酷だった。


次の瞬間。


湿った肉を裂く音が、耳の奥で響いた。


心臓が──生命の鼓動を刻む大切な臓器が──無慈悲に握り潰される感触。熱い。焼けるように熱い何かが胸の内側を駆け巡る。


「あ───」


言葉にならない。喉が詰まる。熱い血が逆流し、唇から溢れ出す。顎を伝い、首筋を濡らしていく生温かい感触。鉄錆の匂いが、もう自分のものだと分からないほど濃く立ち込める。


黄金の拳が心臓を掴んだまま、内側から全てを破壊していく。

──肋骨が一本、また一本と折れていく。その振動が背骨を伝い、全身に響く。


肺が潰れる瞬間の、風船が萎むような哀しい音。骨髄まで染み込むような激痛が稲妻のように奔り、そして。


静寂。


指先から温もりが消える。まるで氷水に浸したように、感覚が遠のいていく。足が地面を踏みしめている実感が、砂のように崩れ去る。


視界が白く霞み、愛する者の声も、憎い敵の声も、全てが水中に沈んでいくように遠ざかる。


自分という存在が、ゆっくりと溶けて消えていく。

それは恐怖だった。純粋な、原初の恐怖。


「く、クトゥルフ、様……!」


掠れた声で、最後の希望に縋る。まだ生きたい。まだ、終わりたくない。


"クラフト、私の力を──!"


暗黒の波動が肌を撫でた。クトゥルフの声が、冷たく、けれど確かな救いとして魂に響く。


差し伸べられる闇の手──しかし。


「させん!」


空気が引き裂かれる音がした。


ライル・ハイウインドの白銀の拳が、まるで雷光のように大気を切り裂く。


眩い閃光。網膜を焼き、瞼の裏まで白く染める純白の輝き。


クトゥルフの無数の触手が、ぬめりを帯びた不気味な音を立てながら蠢き、複雑に絡み合い、幾重もの肉の盾となって主を守ろうとする。生臭い海の匂いと、腐敗した魚の臭いが混じり合う。


「閃撃──!」


獣のような咆哮と共に。

白狼の霊力を纏った一撃が、触手の防壁を内側から爆砕した。


肉が裂ける湿った音。骨が砕ける乾いた音。それらが不協和音となって鼓膜を震わせる。


触手が風船のように内部から膨張し、限界を超えて弾け飛ぶ。黒紫の体液が飛沫となって顔に降りかかり、生温かく、ねっとりとした感触が肌を這う。


腐った海藻と焦げた肉の匂いが、胃の奥から込み上げる吐き気を誘う。


"ぐおおおおっ──!"


クトゥルフの絶叫が、骨の髄まで震わせた。


「この神毒は、耐えられねえぞ!」


ヨルムンガンドの声が、死の宣告のように戦場に響き渡る。


ベルフェルクの黄金の拳が、粘つく音を立てて胸から引き抜かれた瞬間──


心臓があった場所から、緑色に輝く液体が噴水のように吹き出した。


それは、恐ろしいほどに美しかった。

エメラルドのような輝きを放ちながら、死をもたらす毒液。


空気を裂いて飛来する毒の雫。その一滴一滴が、運命の糸を断ち切るように降り注ぐ。


「ぐあああああああああ!」


瞬間、世界が地獄に変わった。


皮膚が溶ける。

最初は熱湯を浴びたような熱さ。次の瞬間には、溶岩に飲み込まれたような激痛が全神経を焼き尽くす。


表皮が泡立ち、黄色い脂が浮き上がり、赤い肉が露出する。その肉も、瞬く間に──まるで砂糖が水に溶けるように──ドロドロと崩れ落ちていく。


もはや言葉では表せない苦痛。存在そのものが拒絶され、否定される感覚。母の胎内から生まれ出た瞬間から築き上げてきた「自分」という器が、内側から、外側から、容赦なく崩壊していく絶望。


血が沸騰する音が聞こえる。プツプツと泡立ち、蒸気となって立ち昇る。


骨が酸に侵され、チョークのように脆く崩れる。白い粉となって、風に舞う。


筋肉が、内臓が、髪が、爪が──クラフトという人間を形作っていた全てが、ドロドロと音を立てて原形を失っていく。


鼻腔を突く、焼けた肉と硫黄と腐敗臭の入り混じった地獄の香り。

口の中に広がる、銅と酸と絶望の味。


視界は既に失われ、最後に見えたのは自分の手が溶けていく光景。聴覚も遠く霞み、自分の絶叫すら聞こえない。


「ク、トゥル、フ……さ、ま……」


最期の力を振り絞り、もう形を失った手を伸ばす。

救いを求めて。まだ生きていたいと願って。


指先だったものが、空を掴もうとして、ただ虚しく液体となって地面に滴り落ちる。


雫の音が、最後の鼓動のように響いて。


意識が、静かに、闇に沈んだ。


クラフトの肉体は、もはや人の形を留めていない。緑がかった汚泥となって地面に広がり、土に染み込み、ルルイエの暗黒に呑み込まれ──


消えた。


あまりにも、あっけなく。


"く、おのれ……キサマらぁ!"


クトゥルフの憤怒の咆哮が、大気を引き裂く。


触手が狂ったように打ち震え、地面を叩きつける音が雷鳴のように轟く。怒りの波動が熱波となって放射状に広がり、空気が歪む。


その瞬間。


五つの足音が、まるで一つの心臓の鼓動のように、同時に大地を踏みしめた。


イングラム、ベルフェルク、ヨルムンガンド、ライル、そして──

5人の戦士が、肩を並べる。


空気が、ピンと張り詰めた。

それぞれの闘気が熱を帯びて絡み合い、見えない炎となって立ち昇る。その熱が肌を焦がし、息が詰まるような圧迫感が胸を締め付ける。


その隣にライルの家族──レオンたちが立ち並ぶ。

血の絆が生む温もり。それは、どんな寒風も吹き飛ばす、確かな熱。


そして。


地響きのような重厚な足音と共に、オーディンたち神々が姿を現した。

かつての仇敵、フェンリル、ヨルムンガンド、ロキ──今は共に並び立つ。

神々の威圧感が、まるで山のような重みとなって肩にのしかかる。


一列に並んだ戦士たちの姿は、鋼鉄の壁。


静寂──


だが、その静寂の中で、誰もが聞こえる──互いの心臓の音が。緊張で早鐘のように打つ鼓動が。嵐の前の、今にも弾けそうな緊張の糸が。


ライルが、一歩前に踏み出す。

その足音が、運命の扉を開く音のように響いた。


「ここで終わりだ、クトゥルフ!」


その声は、鋼のように硬く、炎のように熱い決意に満ちていた。

もう、誰も後戻りはしない。できない。


"おのれ、まだだ……まだ終われぬ。この地球を手に入れるまでは!"


クトゥルフの絶叫が、魂を揺さぶる。


無数の触手が天を衝き、まるで地獄の手が天を掴もうとするように蠢く。狂気の波動が津波のように押し寄せ、正気を保つことさえ困難にする。


最後の戦いが、今、始まろうとしていた。


しかし、優勢に転じたはずの戦況は

第三の存在によって狂わされることになった。


「……っ!?」


イングラムの視界が、突如として歪んだ。

まるで水面に投げ込まれた石のように、世界が波打つ。吐き気が込み上げる。


内側から──胃の奥から、腸の深部から、骨髄の底から──自分ではない何かが這い上がってくる。


皮膚の下を虫が這うような、ぞわぞわとした悪寒。まるで、体内で何かが孵化しようとしているような、吐き気を催す不快感が全身を襲う。


「──!」


レオンとライルが、同時にその異変を察知した。

空気が、急激に冷えた。まるで死の息吹が吹き抜けたような、骨まで凍てつく寒気。


2人は互いに目を合わせ──その瞳には同じ恐怖が宿っていた。ライルが先に動いた。


その手には、白狼の光のマナが眩く輝き、暖かな熱を放ちながら、イングラムに向かって疾走する。足音が、まるで救いの鐘のように響く。


「イングラムッ!意識を手放すな!」


レオンの叫びが、鼓膜を震わせた。必死の声。


友を失いたくない、その想いが痛いほど伝わってくる。

だが、その叫びが全員の意識を彼に向けさせてしまった──致命的な隙を生んでしまった。


"──!"


クトゥルフの歪んだ笑い顔が、闇の中に浮かび上がった。

その笑みは、勝利を確信した捕食者のように残酷で、見る者の背筋を凍らせる。


瘴気の風が吹き荒れた。

腐った海の臭いと、死体の匂いを孕んだ風が、まるで巨大な手のように神々を掴み、容赦なく吹き飛ばす。服が肌に張り付き、息ができない。肺が瘴気で満たされ、咳き込む。


「しまった!」


ルークたちの悲鳴が風に呑まれた。

彼らの体が、まるで木の葉のように宙を舞い、無理やり後退させられる。


肉と骨がルルイエの巨木に激突する鈍い音。木の皮が砕け、血の匂いが立ち込める。激痛に顔を歪める戦士たち。


「ちっ……!ロニ、レネ!

クレイラを頼む!」


血を吐きながらも、必死に指示を出すルークの声。


「わかった、気を付けて!」


"終わりだ!"


クトゥルフの嘲笑が、まるで脳内に直接響くように不快に残響する。耳の奥がキーンと鳴り、平衡感覚が狂う。


レオンは吹き飛ばされた四人を護るように立ちはだかった。

闇のマナが彼の全身から立ち昇り、空気を震わせる。


クトゥルフの口から放たれた黒いレーザー──それは光なのに、見ているだけで目が痛む、矛盾した破壊の光線──が迫る。


レーザーと防御壁がぶつかり合う音。空気が焼け、オゾン臭が鼻を突く。熱波が顔を焦がし、髪が逆立つ。


「早く立て直せ、長くは持たないぞ!」


レオンの額に浮かぶ汗。それが頬を伝い、顎から滴り落ちる。彼の震える腕が、限界を物語っていた。


邪神を封印するためのマナは必要だ。防御や攻撃に振り分け続けては、やがて枯渇してしまう──その恐怖が、皆の心を締め付ける。


「みんな、早く戻ろう!」


ルークとベルフェルクが、辛うじて軽傷で済んだ体を引きずりながら、ルシウスとアデルバートを抱え上げる。彼らの呻き声が、戦場の悲惨さを物語る。


「レオンくん、済まない!

こっちは退避した!」


「よし……!」


レオンの隻眼が、さらに紅く──まるで血のように──光り輝いた。

その瞬間、クトゥルフのレーザーが反転した。


轟音と共に、黒い光が逆流する。クトゥルフの苦悶の叫びが響く。肉が焼ける臭い。


しかし、その苦痛の声の中に──まるで全てを見通したような、勝利を確信した笑い声が不気味に混じっていた。


「……ライル!」


レオンが僅かに視線をずらした、その先──

胸が締め付けられる光景があった。


苦悶に顔を歪めたライルが、もはやイングラムではない何かと対峙していた。


「よく私の不意打ちを躱したな……

ライル・ハイウインド」


その声は、イングラムのものでありながら、違った。まるで深淵から響くような、二重に重なった不気味な声。


灰色の髪が、瘴気の風に揺れていた。


足元にまで伸びたそれは、まるで死神の衣のように美しく、そして恐ろしかった。妖しい光に照らされて銀色に光る髪が、今は邪悪な輝きを放っている。


彼の手に握られたグングニル──かつて神々の槍だったものが、今は黒く染まり、脈打つように邪悪な力を放射していた。


横薙ぎに振るわれる槍。空気を切る音が、まるで断末魔の叫びのように響く。


「ちぃっ──!」


ライルが紙一重で躱す。槍の切っ先が頬を掠め、血が飛び散る。熱い。焼けるような痛み。


第二撃が迫る──死の予感が背筋を駆け上る。


しかし──


レオンの拳が、その攻撃を弾いた。

衝撃波が広がり、地面が陥没する。耳を劈く金属音。二人とも、その反動で後退を余儀なくされた。足が地面を削り、土煙が舞い上がる。


「……どういうことだ、説明しろライル!なぜイングラムから邪神の気配がするんだ!」


レオンの声には、裏切られたような痛みと、理解できない苛立ちが滲んでいた。仲間だと信じていた者から放たれる、死の香り。


「彼もリルルと同じなんだ、イングラムも、接触者として生を受けている」


ライルの声が震えていた。知っていて、言えなかった罪悪感が、その声に重くのしかかる。


「クソッ……ルルイエ浮上が、奴の覚醒の鍵になったっていうのか!」


レオンの拳が、強く、強く握りしめられる。


爪が掌に食い込み、温かい血が指の間から滲み出る。痛みで、現実を確かめるように。

伏せていた顔を上げた──その瞳には、苦渋の決意が宿っていた。


“ククク、手を貸してくれるな?

イングラム・ハーウェイ?"


クトゥルフの声が、蜜のように甘く、毒のように危険に響く。


「……まだ絶望は少ない、俺の顕現も未だ不完全だ。お前を頼りにさせてもらうぞ?」


ヨグ・ソトースの声。それは、友の声で語られる死の宣告。


「レオン……どうする?」


ライルの問いかけ。その声には、答えを恐れる震えが混じっていた。


沈黙。


風が吹く。瘴気の匂いを孕んだ、冷たい風が。


「イングラムごとヨグ・ソトースを殺す……!」


レオンの宣言が、まるで雷鳴のように戦場に響いた。

その声には、迷いはなかった。

友を殺すという、最も辛い決断。それでも、世界を守るために──


それが、戦士の覚悟だった。

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